20話 妖魔と白蛇
細くほこりっぽい路地に入ると、静乃は道に沿って歩いた。
表通りは煉瓦造りの家が多かったが、一本外れるとまだ木造の民家もいくらか見える。
家々の塀によって路地は複雑な迷路のようになっていた。
人が通る様子はまったくない。襲撃するならこれほどやりやすい場所もない。
「…………」
静乃は背後に気配を感じていた。急いでいる雰囲気ではない。まだこちらの様子をうかがっている。
静乃は表通りに出る道を避けて、狭い路地を歩き続ける。
「お嬢さん」
街路のかなり内側に入り込んだ場所で、静乃は声をかけられた。
振り返ると、面布で顔を覆い隠した人間が近づいてくる。
……時間をかけろと言っていたわね。
すぐにでも制圧したいが、まずは相手の出方を探る。
「わたしに何か用?」
「ああ、半妖の静乃さんに用事がある」
「……なぜ、それを」
「我らの情報網を甘く見ないでもらおう」
「あなたは〈虚呼〉の一員ね」
「そうだ」
あっさり認める。半妖になったことをすでに知られているとは思わなかった。こうなると〈裏店〉の存在も知られている危険性がある。
「我々は君を必要としている。仲間になってほしい」
「なんですって?」
「〈虚呼〉は妖魔の力を活かし、新しい人の世を切り開こうとしている。その時、半妖の力は必ず役に立つ。我々は半妖を欲しているのだ」
「……妖魔を操れるとは思えない」
「そう思うのも無理はない。だが、我らは妖魔を自由に呼び出す手段を発明している」
「なっ……!」
事実なら浄魔会にとって最悪の状況だ。
「半妖は見つかれば虐げられる。新しい世界ならばそんな心配も無用だ。我々の元でともに戦うつもりはないか?」
「そんなこと……」
「浄魔師は人のために戦うというが、自分のことしか考えていない愚か者も多いではないか。浄魔会に尽くすことが必ずしも正しいわけではない。君ならわかるはずだ」
静乃はとっさの返事ができなかった。
灰崎家の名誉ばかり考えていた父。娘を愛してくれなかった父。あの男も浄魔師だった。
「お断りよ」
しかし、静乃はきっぱり宣言することができた。
「なぜだ?」
「わたしには浄魔師の世界に大切な人がいるの。その人は、わたしが知らなかったキラキラしたものをたくさん教えてくれる。その人がいてくれれば不安なんてない。そちらには行けないわ」
なりゆきで夫婦になっただけ。そんな関係が自然と変化していった。千景が急に距離を縮めてきても、今は拒否する気持ちなどない。千景と過ごすあらゆる時間が楽しいから。惚れられた理由を思い出すと恥ずかしくなるが、千景はこの短期間ですでにたくさんの幸せを教えてくれた。
千景から離れるなんて、もう静乃には想像できなかった。
「その人、か。静狩千景のことだな」
「…………」
知られている。
「半妖を率いて新たな覇を唱えるのは〈虚呼〉だ。あんな男ではない」
「では、この俺を倒してみたらどうだ」
男の背後に千景が現れた。
「静狩……。やはり出てきたか」
「待てども待てども他の仲間が出てこないのでな。お前だけとっ捕まえていろいろ吐かせてやる」
「やってみろ!」
男が右手に持った何かを握りつぶした。
紫色の破片が飛び散り、近くの水路から妖魔が這いずって出てきた。
灰色の胴体にのっぺりした輪郭。顔はなく、口だけがある。体の前で手をぶらんとさせているが、指は三本しかなく、泥を滴らせている。
「泥垂……。お前が呼んだのか」
「そうだ。では、被害を抑えられるよう頑張ってくれ」
「くっ……!?」
男は煙幕弾を叩きつけ、煙に紛れて消えた。
「千景さん、追って! この妖魔はわたしが倒す!」
「信じるぞ! 死んだら許さん!」
千景は男を追いかけていった。ここでためらわない人でよかった。
「あなたの相手はわたしよ」
「ォォォォォォ……」
顔のない泥のかたまりは声なき声を上げている。
静乃は接近し、拳を打ち込んだ。深く沈み込み、手応えがない。
――泥だからってわけね。
ドロシズリが腕を叩きつけてくる。腕が伸びて予想外の位置まで飛んできた。静乃はそれをかわして、再度接近。連続で左右の拳を叩き込むが、まったく効いている気配がない。
「だったら霊力で!」
右手に霊力を集めてドロシズリに当てる。じゅっ、と煙が上がったが一瞬で消えた。
「霊力が通らない……!?」
霊力を吸われた感覚がした。〈虚呼〉が焚きつけた妖魔だ。霊力への抵抗力を付与されたのかもしれない。打撃も霊力も効かないとなると、打つ手がなくなってしまう。
「どうすれば……」
――我が力、貸し与えよう。
不意に、頭の中に中性的な声が響いた。
――誰!?
――お主がホノカガチから解き放ってくれた蛇だ。
妖魔は野生生物に取り憑いて生まれることがある。長寿であったり、霊力を持った生物が取り込まれると、解放した人物に意識が乗り移ってくることがある。……という話を少しだけ聞かされたことがあった。
――戦い方が想像できよう。我が灼熱をもってそやつを乾いた砂に変えてしまえ。
――やってみます!
静乃は右手に意識を集中した。ドロシズリの大振りな攻撃を避けながら、霊力を集める。右手が橙色に光った。瞳と同じ色。
「覚悟しなさい」
右手をドロシズリの胴体に突き入れる。そこからすさまじい熱が流れ込み、ドロシズリの水を纏った体が蒸発し始めた。
もともと動きの遅い妖魔だ。ひるませてしまえば一方的だった。
水分をどんどん奪われていったドロシズリは、体を維持できなくなった。
ボロボロと胴体が崩れ落ち、泥から砂に変わっていく。静乃は最後まで油断せず、敵が砂山になるまで熱を送り続けた。
――どうじゃ、我が力はなかなか役に立つであろう。
――ありがとうございます。おかげで勝てました。
スカートのポケットから護符を取り出し、砂山に乗せる。
「あるべき場所に還りなさい」
浄化の言葉をつぶやくと、砂は光の粒になって上空へ昇っていった。
「これが半妖の力……」
「静乃!」
千景がものすごい勢いで走ってきて、静乃の両肩を押さえた。
「怪我はないか!? 妖力は暴走しなかっただろうな!?」
「だ、大丈夫よ。ほら、この通り綺麗なものでしょ」
ちょっと心に余裕ができて、静乃はその場でくるっと回ってみせた。ロングスカートがふわりとかすかに開く。
「……」
「どうしたの?」
「なんだ今の動きは……ターンというやつか? かわいすぎる……」
カッと頬が熱くなる。
「へ、変なこと言わないで!」
やらなければよかった。すぐ後悔した静乃であった。
「あの男は?」
「確保した。近くに景虎がいたので護送はあいつに任せる」
「景虎くんが……」
千景が露骨にムスッとした。
「おい、あいつは景虎でいいぞ。くん付けする必要などない」
「でも年下だし」
「あいつもそんなことは気にしないさ」
静乃は気づいてしまった。
「もしかして不安になったの? 景虎くんの方を気安く呼んだから」
「……悪いか?」
思ったより素直な人だった。
「わたしは誰より千景さんを特別だと思っているわ。このくらいでは何も変わらないんだから、安心して」
「……そうか。お前に安心を説かれるとは……俺もまだまだのようだ」
――微笑ましい仲であるな。
心の中の白蛇が話しかけてくる。
――そうかもしれません。もっと仲良くなりたいから、胸焼けさせてしまうかも。
――かまわぬ。我が主の幸福、見届けさせてもらおう。
「そういえば、奴と何を話した?」
「〈虚呼〉に入らないかって」
「なんて答えた?」
「幸せを教えてくれる人がいるから無理ですって」
「……それは、俺のことか?」
「そうよ」
「ふっふっふ」
「な、なに?」
「順調に惚れてくれているようだな。何よりだ」
「ひ、否定はしないけど……あっ?」
いきなり、千景に抱きしめられた。今日も香水の優しい香りがする。
「まだまだこんなものではない。もっとたくさんの幸せを教えてやる。信頼して、ついてきてくれ」
「……信じてるわ」
静乃は目を閉じ、千景の体に寄りかかった。