2話 灰崎静乃
浄魔会は室町幕府から分裂した組織だ。
日本は絶えず妖魔の襲撃に晒されている状況である。対処できるのは特殊な力を持った浄魔師のみで、一般人には理解の及ばない事柄が多数存在する。そんな時、知識の乏しい政治家に指示を仰いでいては何もできない。
そこで浄魔会が生まれた。
浄魔師を取りまとめる組織として数百年の歴史を持ち、一般人にも存在を明かしている。
浄魔会は日本各地に〈分室〉と呼ばれる拠点を持っている。
灰崎家は帝都の北東、隅田村に邸宅を構える分室の一つだ。
四月早朝。
「失礼いたします。静乃様、久吾様がお呼びでございます」
家政婦のトネが障子戸を滑らせ、静乃を起こした。
「すぐに行くわ」
静乃はスッと起き上がり、トネに小袖と袴を用意してもらう。これが浄魔師の女性の仕事着である。
服装と髪を整え、長い廊下を早足に移動する。
灰崎家は増築した離れが洋風建築になっており、そこに隅田村分室の室長である父――灰崎久吾が構えている。
「静乃、参りました」
「遅い!」
父は苛立たしげに大声を出す。頬骨の浮き出た細長い顔。
室内は絨毯敷きで、デスクやイスなども舶来品を揃えているが、父はずっと着流し姿だ。
「今朝方、荒川の近くで襲撃があった。お前がのろのろしているうちに被害が出たらどうする!」
「申し訳ありません。ただちに向かいます」
「いいか、迅速に始末してこい。人はもちろん建物にも傷一つつけさせるな。難癖をつけられるのは俺だからな」
「……承知しております」
「ならば行け」
静乃は頭を下げ、父の部屋を出た。
☆
灰崎久吾は父親であるが、今では上司と部下の関係だ。
三月に十八になったばかりの静乃だが、祝いの言葉の一つもなかった。
そんなことは望んでいない。
静乃が望んでいるのは、戦う力を持たなかった妹――水鈴が穏やかに暮らせることだけだ。
静乃は村の中を走った。
黒髪で前髪はぱっつん、切れ長の目はたれ目で、まつげが長く正統派の大和撫子である。
仕事中、軽薄な男どもに寄りつかれることもあるが、すべてにべもなく突っぱねてきた。静乃には目の前の仕事しか見えていない。
荒川の土手にやってくると、川沿いの道で異様に太い腕を振り回す鬼のような妖魔が暴れていた。
拷魔。大男くらいの背丈だが、腕力は計り知れない。
足元に誰か倒れている。
「……っ、遅かった……」
ゴウマは咆哮し、静乃に襲いかかってくる。
太い腕を自在に振り回し、繰り出す拳は地面に大穴を開ける。その上でなかなかに身軽だ。
静乃は避けながら反撃の隙を窺う。
ゴウマが右拳を打ってきた。静乃が避けた瞬間、左の膝が飛んでくる。
「うっ……!」
腹に入って息が止まりかける。それでも歯を食いしばって耐えた。
右腕が迫ってきた。身を引いて回避すると、静乃は左手を出す。霊力を宿した手刀を放つと、ゴウマの腕は焼けた石に水をかけたような音を立てる。霊力と妖力の反発現象だ。
げえっ、とゴウマが呻く。
――今っ!
今度は静乃が仕掛けた。
浄魔師が持つ霊力は妖魔に対して抜群の効果を発揮する。体術に自信がある静乃は、ゴウマの全身に霊力を打ち込んでいった。
「縛縄!」
霊力が縄の形になり、ゴウマの右腕に巻きつく。
静乃はそれを引っ張って、ゴウマを地面に叩きつけた。
「――終わりよ。あるべき場所に還りなさい」
仰向けに倒れたゴウマの額に、護符を貼りつける。
ゴウマは浄化され、粒子となって消えていった。
「う……くっ……」
腹に受けた一撃はかなり重く、静乃はその場に座り込んだ。袖でよだれと涙をぬぐって、呼吸を整える。
「すげえ!」
「あの妖魔を倒しちまった!」
「やっぱり浄魔師ってすごいんだなあ」
振り返ると、遠巻きに見物人のかたまりができていた。
「嘘でしょ。なんで見ていられるのよ……」
恐怖はないのか。浄魔師がなんとかしてくれるという信頼があるのか。
妖魔の知識は一般教養とはいえ、戦場に近づくのは危険すぎる。
人々の横から警察官の男が走ってきた。
「妖魔の襲撃と聞きましたが、片づいたのでしょうか?」
「ええ、もう心配ありません」
「よかった。それにしても、最近多いですねえ」
「そうですね……」
この一ヶ月、隅田村では妖魔の襲撃が明らかに増えていた。妖魔には一等級から六等級まで危険度がつけられている。五、六等級の低級妖魔なら苦労はしないが、ゴウマのように四等級を超える、浄魔師と渡り合える中級妖魔が多いのも問題だった。
「周辺の警戒は警察で行います。再び襲撃があった際はお力をお貸しください」
「承知いたしました」
その場を警官に任せて、静乃は灰崎家へ帰った。