11話 小毬とシズシズ
静乃が目を開けると、外はすっかり明るくなっていた。
「いけない、もうこんな時間……!」
ベッドから飛び降りて、動きを止める。
……そうだ、ここはもう灰崎の家ではないんだ。
今すぐ巡回に行けと言う者はいない。もう父の罵声も飛んでこない。
素直には喜べなかった。まだあの家には水鈴と母が残されているのだ。父がどんな仕打ちをするかわかったものではない。
コンコン、とドアがノックされた。
「はい?」
「失礼しまーす」
頭に大きなリボンをつけた女の子が入ってきた。黒い袴に水色の小袖。リボンは赤色で、黒髪とよく合っている。小柄で柔らかい表情をしているが、立ち居振る舞いに隙がない。
「どうもー、千景様の下で雑用をやっております、黒音小毬ですー」
「初めまして。灰崎静乃です」
「あたくしがしばらくシズシズの面倒を見ることになったのでよろしくですよ」
「……シズシズ?」
「もう聞いておりますよ。結婚されたんでしょ? 静狩静乃ならシズシズじゃないですかー」
小毬はにへっと笑う。
……あだ名なんてつけられたことなかったから新鮮だわ……。
初めての経験ばかりだ。
「さて、そんでは出かけましょう!」
「どこへ?」
「近くに流行ってない銭湯があるんですよ。まずはそこでさっぱりします。ここに運び込まれてから、まだ体は洗ってないですよね?」
「……そうね」
この状態で千景に抱きしめられたのだ。今さらながら恥ずかしくなってきた。
「新しい服をご用意したので、入浴のあとはそれを着てくださいな」
「ええと、あなたも〈裏店〉の仲間なの?」
「そうですねえ。一緒に活動することになると思います。今、〈裏店〉って男しかいないんですよ。シズシズが来てくれて嬉しいです~」
「わわっ」
小毬が遠慮なく抱きついてくるので静乃は戸惑う。こんな距離感で他人と接したことがないのだ。
「さ、銭湯へ行きましょう! お客さん少ないところですから半妖でも安心ですよー」
小毬に引っ張られて、静乃は部屋を出た。
☆
隠れ家から少し離れたところに銭湯はあった。
この辺りは中心部から外れているせいか、モダンとは言いがたい古い景観のままだった。木造の家も多く、煉瓦造りの家はほとんど見当たらない。
「立地が悪いから流行らないんですよねえ。おかげで我々は助かってますけど」
小毬が銭湯の客が少ない理由を教えてくれる。
午前中ということもあって、大浴場には誰もいなかった。
「……すごい。石けんは自由に使っていいの?」
「もちろん! 置いてあるものは使い放題ですよ。洗ってあげましょうか」
「そ、そこまではしなくていいわ! 自分でできるから!」
「じゃ、困ったことがあったら訊いてください!」
静乃はおっかなびっくり石けんを手に取り、体を洗った。
厳しい戦いは多かったものの、深く残るような傷は受けていない。その点で千景に負い目を感じることはない。
ふと隣を見る。小毬の頭に猫の耳のようなものが飛び出していた。
……もしかして、猫の妖魔に憑かれたのかしら。
〈裏店〉の一員であるからには半妖のはずだ。猫の耳はこれ以上なくわかりやすい。
頭を洗い終えた小毬は、長い髪をぐるぐる巻いて頭の上でお団子を作った。うまく耳が隠れる。
……慣れているみたいね。
静乃は目の色が変化するだけだ。普通に生活する分には見破られることはないだろう。
頭を洗ってお湯を流すと、静乃は小毬の隣に沈んだ。
「やー、お風呂は生き返りますなあ」
「そうね。実家ではゆっくり入っている暇もなかった……」
「ずいぶんと過酷な生活をしておられたようで」
「汚れを取るだけで精一杯。よく沈んで疲れを癒やすなんてことは許されなかったわ」
「そんで、妖魔が出りゃ夜中でも起こされるんでしょう?」
「ええ」
「よくぶっ倒れませんでしたねえ。あたくしなら病院送りになってますよ」
「故郷を守りたいという気持ちだけで生きていたの。今だって隅田村のことがずっと心配よ」
「まあまあ、まずは静養してください。万全になったらお仕事はたくさんありますからね。千景様もおっしゃってました。何をするにも充分な休息を取った上でかかるべし、と」
父だったら絶対に言わないようなことだ。
水鈴たちのことは気にかかるが、やはり千景に拾われてよかったのかもしれない。
風呂を上がると、脱衣場で小毬が新しい服を見せてくれた。緑の小袖と黒い袴。
「知っていると思いますが、浄魔師の女子は小袖に袴が基本です。〈裏店〉もそれは同じってことで。よかったら軍帽もお付けしますよ」
「千景さんは軍服を着ていたけど、あれは男性だけ?」
「そういうことです。まだ女性用の軍服が作られていないのでね。作られたら一緒に着ましょうね」
「……うん」
小毬がどんどん話しかけてくれるので、静乃も気楽に返事ができる。あっという間に仲良くなれた気がした。
仕事仲間もなく、友達もなく、戦場では孤独に戦ってきた。
もうそんな日々は彼方へ消え去ろうとしている。
「はい、できた! わあ、シズシズはやっぱり凜々しいですねえ。これぞ大和撫子!」
「そ、そんな上等な人間じゃないわ……」
「またまたご謙遜を。シズシズは素晴らしく輝いておりますからね! 審美眼には自信のあるこの黒音小毬が言うんですから間違いない」
「あ、ありがとう。……その、あなたのことはなんて呼べばいいかしら? 黒音さん?」
「いやですよぅ、そんな他人行儀な呼び方は。ここは気安く、小毬ちゃんと呼んでください!」
「小毬ちゃん……」
「あ、いい感じです! それでいきましょう!」
静乃は思わず微笑んでいた。
今まで、友達というものがいなかった。○○くんとか○○ちゃんとか、そういう呼び方にも縁がなかったのだ。
久方ぶりに着た新しい服は優しい香りがした。破れている場所もなく、動きやすい。
……追い出された途端に恵まれ始めるなんて不思議だわ……。
そんなことを思う静乃だった。




