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あそぼ

雨の音は、静けさを連れてくる。


土曜日、子どもが少ない保育園。

いつもと変わらないはずの時間の中で、ふとした違和感が忍び寄る。

そしてそれは、誰も気づかないうちに“日常のかたち”を静かに壊していく。


この物語は、ある若い保育士が体験した、忘れられた子どもとの邂逅を描いた短編ホラーです。

ごく普通の場所で、ごく普通に起きる「ひとつの不在」に、どうか耳を澄ませてみてください。



土曜日の保育園というのは、妙に静かだ。


子どもの声がしないわけじゃない。

でも、平日とは違う。

人数も少なく、職員も最小限。

なんとなく“間が抜けた”ような、のっぺりとした空気が漂っている。


しかも今日は、朝から土砂降りだった。


天窓を叩く雨音が、ずっと止まない。

時刻は昼前だというのに、園内はどこか薄暗く、照明を点けても、影が濃く残る。


「……やだ、トイレ、こわい……」


お昼前、年少の男の子がそう言って、廊下を歩きながら私の腕をぎゅっと掴んだ。


「どうして? だいじょうぶ、先生がついてるよ」


そう言いながらも、私自身――なぜだか、今日の園にはどこか落ち着かないものを感じていた。


子どもは全部で三人。

そのうち一人は昼前にお迎えが来て、今はふたりだけ。

そして、職員は私ひとり。


別に、珍しいことじゃない。

普段から土曜日はこういう勤務がある。

慣れているつもりだった。


それなのに、今日は何かが違っている気がしてならない。


もしかしたら、それは――


朝の開園前、倉庫の鍵が半分開いていたことに気づいたときから、

あるいは、それ以前、子どもたちが描いた絵の中に、見覚えのない“ともだち”が混じっていたことに気づいたときから、


すでに、始まっていたのかもしれない。











雨は、朝からずっと降り続いていた。


細かく冷たい粒が、保育園の天窓やトタンの屋根を執拗に叩き続けている。

時計は午後一時を回っているはずなのに、園内には薄暗さが漂っていた。


「……せんせい、まだあめ?」


「まだまだ降ってるねえ。お迎え、ちょっと遅くなるかもね」


私は、くすんだグレーの空をにらみながら、男の子の頭を撫でた。

彼は年少の“ユウト”くん。今日の預かりは彼と、もうひとり年中の女の子“ミオ”ちゃんだけ。

三人いた園児のうち、一人は昼前にお迎えが来て帰っていった。


残ったのは、ふたりと――私ひとり。


土曜日の園舎は、どこか“空っぽ”だった。


「ねえ、せんせい……」


絵本の読み聞かせが終わった後、ミオちゃんがぽつりとつぶやく。


「きょう、もうひとりいるよね?」


「え?」


「さっきね、えほんの棚のとこに、いたよ。しろいふくの、こ」


一瞬、理解が追いつかなかった。


「……だれかと間違えたのかな? ユウトくんじゃなくて?」


「ちがうよ。ちいさいこ。しろいふくのともだち」


そう言って、彼女は何でもないように笑う。


私は曖昧に笑って流したが、胸の奥に妙なひっかかりが残った。


(ともだち……?)


念のため園内を見回ることにした。

旧館の方にも、軽く目を通しておこう。


ミオちゃんとユウトくんには、静かにお絵かきをしていてもらう。

雨音が、園舎の木造部分をぼそぼそと震わせていた。


旧館――と呼ばれる部分は、園の開設当初からある古い木造棟で、今はほとんど使われていない。

一応、倉庫や予備の保育室として残されているが、普段は鍵がかけられ、誰も立ち入らない。


私は廊下を抜け、奥の扉に手をかけた。


少しだけ開いていた。


(……開けっぱなしだったかな)


ゆっくりと扉を押し開け、中を覗く。


雨音がやや遠ざかる。

湿った木のにおいが鼻をついた。


昔使っていたらしいおもちゃ棚や、黄ばんだマット。

その隅――床の上に、ひとつだけ、転がった木製の積み木があった。


(……片付け残しかな)


だが、積み木の表面には、まだ濡れたような水滴が残っていた。


(……まさか)


私は積み木を拾い、思わず背後を振り返る。

けれど、廊下にも、部屋にも、誰もいなかった。


職員室へ戻ると、ユウトくんがひとり、静かに絵を描いていた。


「ミオちゃんは?」


「いっちゃったよ」


「え?」


「しろいふくのともだちと、あそびにいった。だいじょうぶって、いってた」


私は思わず、ぞっと背中を這い上がる冷たいものを感じた。


「ユウトくん、それ、本当? ミオちゃん、どこ行ったか分かる?」


「うーん……きゅうかん、のほう」


きゅうかん。旧館。


その言葉を聞いた瞬間、手に持っていた積み木が、指先からすべり落ちた。





土砂降りの雨が、窓ガラスを濁らせている。


午後二時。

園児の人数は三人のはずだった。

だが、今、教室にいるのは、ユウトくんと私だけ。


(ミオちゃんが、白い服のともだちと“遊びに行った”?)


それが冗談や空想の話では済まない気がして、私はすぐに立ち上がった。


「ユウトくん、ここで待ってて。先生すぐ戻るから、絵本見ててくれる?」


「……うん」


不安げな表情を浮かべた彼の頭を撫で、私は旧館へと足を向けた。


旧館の廊下は、空調の効いた新館とは違い、ひんやりとした空気が漂っていた。

木の床が歩くたびにみしりと軋む音が、雨音と重なり、不安を煽る。


かつて保育室として使われていた部屋がある。

今は倉庫扱いだが、ドアのプレートにはかすれた文字で「すみれ組」と残っていた。


その扉の前に、濡れた小さな足跡が、ぽつ、ぽつ、と続いていた。


私は手を伸ばし、扉を開けた。


きぃ……という軋んだ音と共に、埃っぽい空気が鼻を刺す。


「ミオちゃん……?」


誰もいない。

小さな机と椅子が、当時のまま残されている。

だが、そのうちのひとつが、不自然に引き出されていた。


私は室内を見渡したあと、部屋の隅に積まれた古い棚に目を留めた。


その下に、何かが見えた気がした――紙のような、黄ばんだ記録用紙。


引っ張り出すと、それは過去の保育記録だった。

日付は――昭和の終わり頃。三十年以上も前。


“保護者より連絡あり M・Kくん、帰宅後行方不明”

“警察へ通報済 翌日、捜索協力へ”

“園内で最後に目撃されたのは、午後二時頃、すみれ組”


「……ここ?」


私は背筋に冷たいものを感じた。

この部屋で、園児が一人――消えた?


ふと、棚の裏側にもう一枚、手帳サイズのノートが挟まっていることに気づいた。

開くと、子どもらしい筆跡で、こう書かれていた。


「ともだちが、あそぼって、いってた」

「よるのほいくえんで、またあそぶって、やくそくした」

「せんせいには、ないしょ」


どこかの子どもが、書いた記録……?

“よるのほいくえん”――“またあそぶ”――


ページの最後に、ひとつだけ、殴り書きされた文字があった。


「わすれないで」


その瞬間、背後で風のような音がした。


「――!」


振り返ったが、誰もいない。


だが、すみれ組の窓際に、ほんの一瞬だけ――

白い服を着た、小さな子どもの背中が見えた気がした。


私は駆け寄ったが、窓の外には土砂降りの雨と、揺れる洗濯ロープだけがあった。


(幻覚……?)


心臓が早鐘のように打ち続けている。


もう一度、ミオちゃんを探さなければ。


私は旧館を出て、園庭へと続く非常口に向かった。


足元に目を落とすと、まだ新しい泥の足跡が、外ではなく“園舎の中へ”向かっていることに気づいた。


その先――足跡は、新館の職員室横にある古い道具室へと続いていた。


(ミオちゃん……なんでそんなところに?)


私はそっと足音を忍ばせながら、扉に手をかけた。


――中から、かすかに“誰かの鼻歌”が聞こえた。


高く、かすれた、小さな子どもの声。


「う~え~を~む~いて~♪」


ゆっくりと、扉が開いた。



――「う~え~を~む~いて~♪」


濡れたような、かすれた鼻歌が、古い扉の隙間から漏れてくる。

懐かしい昭和の歌。けれど、それを口ずさむ声は、どう考えても子どものものだった。


私は躊躇しつつも、そっとドアノブを回した。


ぎいぃ、と錆びた音がして、古びた道具室の中が、わずかに明るくなる。

窓はなく、電気も点いていない。

だが、どこかから光が差し込んでいるように、部屋の奥だけがほんのりと白く浮かんで見えた。


(……いる)


奥の角に、小さな影が見える。

誰かが、膝を抱えて座っている。


「……ミオちゃん?」


呼びかける声が震えた。


その小さな背中が、ぴくりと反応する。


くるりと振り返ったその顔は――確かに、ミオちゃんだった。


だが、その隣には、もうひとり。

まったく同じ背格好の子どもが、こちらに背を向けたまま、ぴたりと寄り添っていた。


「ともだち、だよ」


ミオちゃんが、にこりと笑った。

その声が、部屋の空気を変えた。


「いっしょにあそぼって」


その“ともだち”の子は、何も言わない。

ただ、ぴくりと肩を動かしただけ。


私は一歩踏み出した。

すると、“ともだち”の子が、ゆっくりと首だけをこちらに向けてきた。


顔は、白く、ぼんやりとしていて――まるで水の中に沈んだ写真のように、輪郭が曖昧だった。


目も、鼻も、口もあるはずなのに、焦点が合わない。


「……いま、なまえを、さがしてるんだって」


ミオちゃんが言った。


「ねえ、せんせい、なまえを、かしてあげて」


「――ミオちゃん、こっちに来て。ゆっくりでいいから」


私は声を抑えながら手を伸ばした。

だがミオちゃんは、動かない。


ともだち、と呼ばれたそれが、ゆっくりとミオちゃんの手を取る。


その瞬間、頭の奥に、どこかで聞いた子どもの声が直接響いた。


「……まいにち、ひとりだったの」

「よるのほいくえんで、またあそぶって、やくそくした」

「でも、わすれられちゃったから、ずっとここにいたの」


その声が、私の記憶の底を揺さぶる。

以前、記録で見たあの園児。

昭和の終わり頃、夜間保育で行方不明になった子ども――


「まこと、せんせい……」


ミオちゃんが、ぽつりと呟いた。


「このこね、せんせいのこと、まえにも、しってたって」


私の名を、知っていた?


私は、咄嗟にミオちゃんの腕を引いた。

すると、“ともだち”の子の顔が、ぐにゃりと崩れたように歪んだ。


「イヤ……かえさない……」


声は子どもなのに、どこか老いたような低さが混じる。


私はミオちゃんを抱きかかえ、走った。

道具室の扉を開け放ち、雨の音が混じる廊下へ――


足音が、ぺた、ぺた、とついてくる。


振り返ると、白いワンピースの影が廊下の奥に立っていた。

“ともだち”は、私を見つめたまま、唇だけを動かしていた。


「わすれないで……」


瞬間、園内の照明が一斉にチカチカと点滅し、

そして――すべての音が、ふっ、と消えた。



目を覚ましたとき、私は保育室のマットの上に倒れていた。


外は、晴れていた。

土砂降りだったはずの空が、嘘みたいに澄んでいる。


時計は午後三時三十分。


誰かの足音が近づいてきた。


「佐倉先生? 大丈夫ですか?」


副園長の声だった。

土曜日の後半シフトで交代する職員が、出勤してきたらしい。


私はゆっくりと起き上がり、辺りを見渡した。

保育室には、ミオちゃんとユウトくんが、お絵かきをしながら笑っていた。


「さっきまで眠ってましたよ、先生」とユウトくん。


「……そう……」


私は返事をしながら、胸の奥に奇妙な違和感を感じていた。


さっきのことは、夢?

でも――あまりにも“手の感触”がリアルだった。


(私は……たしかに、ミオちゃんの手を、あの子から引き離した)


職員室に戻ると、机の上に並んだ名簿が目に入った。

私はなんとなく、今日の預かり園児の記録に目を通した。


◆ユウト・K(年少)

◆ミオ・N(年中)

◇――(空欄)


(……三人目は?)


確かに、今日の朝まで、私は「三人預かる予定」と聞いていた。

けれど、その三人目の欄には、最初から何も書かれていなかったかのように、まっさらだった。


(もしかして、ミオちゃんが言っていた“ともだち”は――)


“元からここに、いなかった”のか。

“それとも、いなかったことにされた”のか。


手が震える。

胸の奥に、濡れた積み木の手触りが甦る。


ふと、壁のホワイトボードに貼られた、子どもたちの絵が目に入った。


にぎやかな色で描かれた、みんなの似顔絵。

その端っこ――ちょうど、ユウトくんの隣に、小さく、白い服を着た“誰か”が描かれていた。


目も、口も、なかった。

でも、そこに“いる”ことだけは、確かだった。


「せんせいには、ないしょ」


あのノートの言葉が、頭をよぎった。


私はそっと、絵に手を伸ばし、白い子の部分に、震える指で名前を書き込んだ。


「……ごめんね」


そう呟いた瞬間、窓の外で風が吹き、紙がふわりと揺れた。



次の月曜日。


いつも通り、子どもたちが登園し、先生たちは笑い、時計は回り続けている。


けれど私は、ときどき思い出す。


雨の音。

倉庫の隅の積み木。

“わすれないで”と唇を動かしていた、あの子の顔。


それから、あの“声”。


「なまえを、かして」

「そうすれば、いっしょにいられるから」


私は今日も勤務を終え、帰り道、園の門を振り返る。


そこに、ただ立っている。

白い服の子どもが。


目を細めて、笑っているような、笑っていないような顔で――






ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この作品では、「昼間の保育園」という一見ほのぼのとした舞台に、

静かに侵食する恐怖を描くことを意識しました。

子どもの描いた絵、倉庫の奥の影、雨音、名簿の空欄……

そういった“かもしれない”違和感が、誰かの記憶と重なれば嬉しく思います。


ホラーというジャンルの中でも、叫び声や流血とは無縁の、

“気づかないまま心に染みていく”ような一作を目指しました。


読後、ふとすれ違う子どもの視線に、少しだけ立ち止まってしまったなら――

それはきっと、“ともだち”の仕業かもしれません。

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