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【1】①

「今日はここまで。毎日暑いから体調崩さないように。もう遅いから気をつけて帰りなさいよ」

「はーい」

 講師の言葉に口々に応えながら、椅子を引くガタガタという音が教室に響く。

 佳純は、中学生になるとすぐ高校受験に向けて塾に通い始めた。

 部活動や習い事と両立できるように、と開始は十九時半に設定されている。講義は約二時間で、家まで三十分掛かる佳純が帰宅するのは二十二時を過ぎることになってしまう。


 しかし家の近くには希望に合うところがなかった。

 どうせ電車通塾になるのなら、と少し遠いが条件の合う今の塾に決めたのだ。

 中学に入学して初めて迎える夏季講習。

 週に英語と数学の二日のみだったのが、講習では平均してそれぞれ週数回の予定が組まれていた。

 塾は大きな駅のすぐ目の前で、遅い時間でも人通りが絶えることはない。

 電車の中も、今まで休みの日に遊びに行くために乗ったときよりも、むしろ静かで落ち着いていると感じるくらいだ。

 そもそも乗車時間は十数分なのだが。


 ただ自宅は郊外の住宅街なので、駅で共に降りる人は意外に多いものの駅前通りを進んで曲がり角を経るごとに櫛の歯が欠けるように減って行く。

 駅からそう遠くはないのに、自宅へ向かう角を曲がった先には同じ電車の乗客はもう誰もいないのが常だった。

 佳純自身は子どもだったこともあり、まったく気にしたこともない。

 しかし母は、娘が遅い時間に一人歩きする羽目になることを大袈裟なくらいに心配していた。


 そのため、博己が毎回駅まで迎えに来てくれていたのだ。

 母自身が担う予定でいたのを知った彼が、「お母さんだって女の人だろ、危ないって!」と説き伏せたそうだ。

 彼は父の姉の息子で義兄(・・)だった。

 小学校二年生の時に、一人で博己を生んで育てていた伯母が亡くなったことで佳純の家に引き取られた。

 両親とは養子縁組しているため、血縁としては従兄だが続柄も兄で、文字通り『兄妹』として育てられている。


「佳純」

 改札を出たところで、待っていた博己が右手を軽く上げた。


「お兄ちゃん!」

 年が離れているため、彼と一緒に遊んだ覚えはあまりなく、せいぜい「相手をしてもらう」レベルでしかなかった。

 同じ学校に通ったことさえない。小学校も入れ違いだったあめだ。

 佳純にとっては、物心ついた時には傍にいた兄、というより小さな親に近いような存在の博己。

 ()として、佳純を何かと思いやって大切にしてくれる。


「お兄ちゃん、いっつもゴメンね。めんどくさいでしょ?」

「いやぁ? バイト料貰ってるしな、お母さんに。だからこれは俺の『仕事』。気にすんな」

 何でもない風に(うそぶ)く彼。

 けれども佳純は母に聞いて知っていた。『バイト料』が月千円だということを。つまり、週二回の通塾で一回当たり百円程度なのだ。

 これではまるで小学一年生のお手伝いの相場ではないか。

 母によると、「無料(タダ)じゃかえってお母さんも佳純ちゃんも気を遣うから、博己くんも仕方なく受け取ってるんじゃない? 千円」らしい。

 しかも夏期講習が始まって日数が増えた今も、額は据え置きだという。

 ちなみに『お礼』としてもっと出すつもりだったのを彼が固辞したのだとか。

 母としてはどうしても受け取って欲しかったのだろうが、遠慮する博己の気持ちもわかるため無理強いできなかったのかもしれない。


 そういえば、家に来た当初は呼び名も当然ながら「叔父さん、叔母さん」だったという。

 しかし母が、「佳純が真似するから、博己くんが嫌じゃなければお父さん、お母さんって呼んで欲しい」と頼んだそうだ。

 確かに本心でもあったのだろうが、半分以上口実でははないかと佳純は思っている。博己が気兼ねなく、両親をそう呼べるように。


「学費も全部出してもらうのに、小遣いまでなんて……」

 高校時代、アルバイトをしたいと切り出して「勉強に差し支えるから」と母に止められた際に、彼が口にした言葉。


「それくらい当たり前でしょ? 親なんだから」

 あっさりそう告げる母に俯いていた義兄の姿を覚えている。

 十歳になるかならないかだった当時は思い至らなかったが、泣いていたのかもしれない。おそらく二人は、佳純が開いたドアの外から見ていることには気づいていなかった筈だ。

 博己はずっと、『家族』に申し訳ない気持ちを抱えて生きて来たのだろうか。

 それは両親の実子である佳純には想像さえ及ばない重い現実だ。


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