避難所
「荷物はすべてこちらで管理させていただきまーす。ポケットの中身も、この机の上に全部出してくださーい」
「え、はい……」
少し妙だなと思ったが、「はい」とつい答えてしまったからには仕方がない。マニュアルがあるのだろう。非常事態だ。素直に従った方がいい。そう考えたおれは、折り畳み式の長机の上にポケットの中身を並べた。
それにしてもすごい地震だった。こういった災害時には中学校の体育館が避難所になることを知っていたから、荷物を纏めてやってきたが、よかった。おれだけでなく、みんな集まっているようだ。自宅アパートは停電し、いつ断水するかもわからない。何より、独りだと心細かった。
「鞄も机の上に置いてくださぁい!」
体育館の出入り口には折り畳み式の長机が置かれており、その机の後ろに女が三人、横に並んで受付をしていた。
おれはその中の一番左、入り口に近い女にリュックサックを渡そうとしたが、真ん中の女に怒鳴られてしまった。左の女は「女性に重いものを持たせるなんて最低。普通、わかるでしょ」とブツブツ呟きながら机の上に置いたリュックの中身を物色し始めた。
「財布に……ライターは使えるからこっちに、とタバコ? あなた、喫煙者?」
さっきおれを怒鳴りつけたPTA会長のような雰囲気を漂わせている真ん中の女が、おれをジロリと睨みながらそう言った。女はおれの返事を待たずに両隣の女たちと目配せし、「最低」「臭いと思った」などと吐き捨てるように言った。そして、女は財布などを机の上から消しゴムのカスを落とすように、段ボール箱の中へ落とした。
「え、あ、あの、それ、ごちゃ混ぜになっちゃうんじゃ……」
「はい? なんですか!?」
「いや、だから財布。返してくださいよ」
おれがそう言うと、真ん中の女はこれでもかというほど呆れた表情を作り、言った。
「あのねぇ、まとめて管理した方がいいでしょ? 泥棒被害とかトラブルのもとなんですよ」
「ふふっ、この人、泥棒みたい……」と右の女がおれを睨みながら呟いた。
「だ、だからってそんな雑に、ゴミみたいに扱わなくても……」
と、おれが言うと女たちは鼻で笑った。おれは何かがおかしいと感じた。女たちはリュックの中身を食べ物とそれ以外に分類し、食べ物以外をリュックに戻すと自分たちの後ろの方に雑に放り投げた。
「え、と、あの」
「はぁい?」
「おれが持ってきた食べ物も預かるんですか?」
抗議のつもりでおれは言ったのだが「見ればわかるでしょ」と真ん中の女はため息をついた。
「あのねぇ、みんな怖いの。不安なの。怯えてるの。あんな大地震なんて、みんな初めてなの。慌ててここに避難しに来て、あなたみたいにどこで盗んだか知らないですけど、食べ物を持ってきていない人が大勢いるの。だからね、分け合ってなんとか今を耐え凌がなければいけないのよ」
と、真ん中の女は馬鹿な子供を諭すように、辛抱強さの中に苛立ちを滲ませつつ、おれにそう言った。両隣の女はうんうん頷いた。
「いや、あの盗んだとかでは……。ほら、乾パンとか水だってありますし、前もって備えていたんですよ」
「どうだか……」
「それって当てつけ? 災害に備えてない人への。最低ね! 最低!」
「落ち着きなさい。盗んでないかどうかは後で調べればわかることよ」
おれは目頭を押さえた。涙が出そうになったのもあるが、話がまったく通じず目眩がしたのだ。
「それで、あなた既婚者?」
「え、違いますけど」
「だと思った。じゃあ、校庭のあの辺で待機しててください。用事があれば、こちらから声をかけますのでー」
「え、あの辺って……あの辺ですか?」
「はぁ……何回同じことを言わせるんですか?」
「いや、まだ二回目ですけど……」
と、女が指さしたあの辺とは、日が落ちてきており外は薄暗く、あまりよく見えないが、体育館からおよそ五百メートルほど離れた場所のようだ。そこには段ボールが敷かれているようで、その上にはまるでペンギンのように身を寄せ合っている男たちがいるようであった。
そして、よくよく辺りを見回せば、体育館にもう少し近い場所にも塊があった。
と、おれは先ほどから感じていた違和感の正体に気づいた。体育館の中には女子供の姿しか見受けられなかったのだ。
「ちょっと! いつまでいるのよ!」
「なに、じろじろ見てるのよぉ……この変態」
「女性に対する気遣いができてないのよねぇ。ま、だから独身なんでしょうけど」
と、いう女たちの指には指輪が見受けられなかったが、それを指摘する間もなく、おれはのしのしと現れた巨女や、それに追従する女たちの金切り声のような罵りに圧倒され、指定された場所まで引き下がるしかなかった。
「あ、あのぉ……こっちに行くように言われたんですけど」
「おぉ、新入りさんだね……さあ、いらっしゃい。中央のほうへ、入りな。あったかいぞぉ。今夜は特に冷えるらしいからね。場所は時間交代だからね」
「あ、はい」
と、みんなから笑顔で迎え入れられ、おれはようやく安堵した。
「……あの、これは一体どういうことでしょうか」
おれは先ほど声をかけてきた男に訊ねた。
「これって……ああ、この扱いのことかい?」
「はい……」
「非常時は女子供優先だそうだよ」
「それはまあ、わかりますけど……でも、あまりにも」
「被災時に盗撮やら痴漢やら女が被害に遭うことが多いからだとよ。おれたち男からさ」
「子供でも男の子は隔離されてるらしいぞ」
「我々のことはクソオス呼ばわりだ……」
「既婚者は子供と会いやすいよう、まだ体育館に近い場所に置かれるみたいですけどね。ほら、あそこ」
「連中は時々、中に入れて貰えるらしい」
「いいなぁ……」
「と、言っても刑務所の面会みたいなものだろう」
「いや、顔がいい男や、職業によっては中で寝泊まりできるらしいぞ」
「高学歴、高収入ってやつだな」
「ああ、そういうエリアがあったよ。俺が、『あの人たちは中で寝泊まりできるみたいですけど、どうして』って訊いたら、あんたには関係ないことよ、とバッサリだったけどな」
「独身でも顔がいい男はあっちだ」
と、男たちが声を震わせながら次々と嘆くように言った。明かりは沈みかけの夕日だけで、その顔は見えないが想像はできた。
「き、既婚者も……?」とおれは訊ねた。顔云々は聞こえなかったことにしようと思った。
「そう、あの一群。はははっ、彼女らに言わせれば既婚者だからといっても安心はできないらしい。不倫や女遊び、そう最近も芸能人のニュースがあったしな」
「あの女どもに言わせれば男尊女卑の反動らしい」
「虐げられてきた女たちが今、ようやく男女平等の社会を手にしたとか」
「ウーマンリブ!」
「おれも持ってきた食料を全部取られちまったよぉ……」
「道路が陥没してるからいつ救助が来るか……」
「ここは田舎町だしな……もうどこにも食料は残ってないかもしれん」
「地震直後、まだ開いていた店で買ったやつも根こそぎ奪われたしさ」
「おれたちは害獣以下らしいぞ」
「人里に出た猪だの熊だの、かわいそうだから殺さずに保護しろとか言うくせになぁ」
「と、静かに。来るぞ」
男たちの愚痴が一斉に止んだ。
先ほどのPTA会長のような女を先頭に、女たち数名がこちらにやってきた。女は口にハンカチを当て、おれたちを見下ろしながら言った。
「手が空いているようなので、今から皆さんにはゴミ袋を探しに行ってもらいます。さ、ほら、早く立って。ああ、透明じゃなくて大きな黒いビニール袋ですよ」
「え、それはなんで……」
と、おれが言うと、女たちは「信じらんない……」「デリカシー……」「性欲猿ね……」などと口々に呟いた。PTA会長のような女は大きくため息をつくと、おれに言った。
「いいですか……はぁ……使用済みの生理用品を捨てるゴミ袋が必要なんですよ」
「え、でもそれなら普通のでいいんじゃ。さっき、おれから取ったのがあるでしょう」
おれは皮肉のつもりでそう言った。で、すぐに後悔した。
「あのねぇ、中身が見えたら嫌でしょ!? 恥ずかしいでしょ!? わからないの!?」
「で、でも、避難所は基本、あんたら女だけなんでしょ……」
もうよせ、と言うように、男の一人がおれの肩に手を置いた。
だが、止めるのが遅かった。女たちはまるで猿山の猿のように一斉に奇声罵声汚声。耳を劈くその音に三半規管が狂わされたようで、おれはふらついた。
「ふぅ……あなた、その上着脱いで。毛布とかが足りないから」
おれを罵倒し終えた女がそう言い、手を前に出した。
またあの声を聞かされるのはこりごりだったので、おれは素直に従った。
「くっさ……」
女が口と鼻を曲げながらそう言うと、女たちはクスクスと笑った。おれは俯いた顔を戻せなかった。
女たちが去ると、おれは男たちに背中や肩を優しく叩かれた。「ナイスファイト」と言ってもらえたのが嬉しかった。
そして、おれたちは町に向かって歩き出した。まるでゾンビの行軍だった。「手柄を立てれば中に入れてもらえるかもしれませんよ!」と元気に前を歩く男もいたが、現実逃避であることはその彼も気づいていただろう。しかし、誰も指摘はせず「おお!」とか「そうだな!」「がんばろう!」とおれたちは笑顔で声を掛け合った。
使い走りとなったが、町に行くことはそれほど悪い話ではないと思った。飲み水まで奪われたのだからどの道、自分たちで確保する必要があった。電柱は萎れた花のように傾き、アスファルトの道路はひび割れていた。町は閑散としており、何かが燃える匂いし、暮れかけの空に黒煙が昇るのが見えた。
黒いビニール袋は思っていたよりも早く見つかった。だが、食べ物などは微々たるものだった。周辺の家々にはまだ何か残っているかもしれないが、勝手に入るわけにもいかないので、おれたちは重い足取りで避難所に向かって歩き出した。
その最中、おれは「戻らなくても、みんなでどこか他に落ち着ける場所を探しませんか?」と提案したが、男たちは首を横に振った。日が完全に落ち、学校へ続く坂から町の方を振り返ると、町は黒く染まっていた。その中に赤く燃ゆる火が点々と見え、火事の危険と町全体が停電しているのだと痛感した。恐怖する一方で、おれはかじかむ手を擦り合わせながら、あの火を愛おしく思った。
「はい、ごくろーさま」
「……それだけですか?」
「はぁ?」
いつの間にか、おれが女たちに意見を言う役になった。先ほどのやりとりを男たちから褒め称えられ、悪い気はしてなかったため、それはいいのだが、こうも取り付く島もないとやるせない気持ちになった。対応にあたった女は先ほどのあのリーダー格の女ではないが、その尊大な態度はあれに劣らず、ともすれば先ほどのあのやりとりを見て、おれという存在自体が女たち全員から軽んじられているような気がした。
「あの、できればストーブとか……今夜も冷えるらしいし……」
「か・ず・が・足りぃなぁいのぉ。非常時なのよ。はぁ、そんなことくらい見ればわかるでしょ! あ、見るな! 変態! はぁー! カーテンが必要ねぇ……ほら、早く戻りなさい。なによゴミ袋を持ってくるのにゾロゾロと。あんたたち、ひょっとして馬鹿なんじゃないの?」
女たちのクスクスといった笑い声に体を小突かれるように、おれたちは避難所から離れ、もとの段ボールの上に戻った。何枚かは風で飛んでしまったようで、拾い集める男たちの背中はいたたまれなかった。おれもその男たちなのだと思うと、臓器が縮む感覚がした。
「寒いなぁ……」
「こ、これ、駄菓子だけど、さっきコンビニで見つけた……みんなで分けよう……」
「おぉ……好きな味だ」
「ふふっ、口の中があったまるよぉ」
配給の期待は持てなかったので、おれはその小指の爪ほどの大きさの一欠けらの駄菓子を噛み締めるように食した。馬鹿笑いと嬌声が漏れ聞こえる、明るい体育館をただぼんやりと眺めながら。
だが、それから数時間後に配給があった。魚肉ソーセージ三本とミニサイズのペットボトル一本。一人分ではないことはもう驚きはしなかった。そして夕食時を大きく過ぎており、忘れられていただろうということにも。その上、仕切りに使うからと段ボールを一枚残してすべて取られ、またその際に「汚い!」と吐き捨てられたことも驚きはしなかった。
しかし、さすがに「眠っている間に何かされるんじゃないかって女性たちが怖がっているので、これで体を縛って。自分たちでね」と紐を渡された時は驚いたが、誰も反対しなかった。配給を取り上げられることを恐れたのと、腹が減り、頭がボーっとしていたせいだろう。全員、幽鬼のような顔でただただ女たちの指示に従った。
それからしばらく経ち、「あの、ストーブを一台貰えたんですけど……よかったら皆さんもこっちに来ませんか?」と、おれたちの扱いを不憫に思ったのか、既婚者組から来た一人の男がおれたちにそう声をかけてくれた。だが、おれたちは感謝を述べるに留め、断った。
「怒られちゃうだろうからねぇ……」
「そうそう、きっとストーブ没収されちゃうよ」
「そっちに迷惑はかけらんないよなぁ」
と、こんな扱いを受けても、いや、だからこそ、おれたちは善性、それと人間性を失いたくなかったのかもしれない。それが唯一できる女たちへの抗議だと、心のどこかで信じて。
風が強くなり、寒さが増すと、おれたちはより身を寄せ合った。誰かが「サバンナのインパラという動物は、余ったオス同士が寄り集まり、群れをつくるそうですよ」と震えながら言うと、笑いが起き、温かい息が首をくすぐった。
「あれだな、おれたち、用済みになり巣から追い出されたオス蜂みたいだな」
「いやぁ、オス蜂は交尾できたからいいでしょう」
「し、し、したかったなぁ、いち、一度でいいから……」
「おれも……」
「ああ……」
「これも……自然淘汰……か……」
「みんないい歳して、結婚が……できなかったから……」
「おれたちばかりが搾取され続け……」
「死んだらどうなるのかな……」
「天国へ行けるさ……みんな、いい人だもの……」
「そうじゃなくて……し、死後、連中にどんな扱われ方をするかだろう……?」
「遺体を並べてSOSの文字を作られるのさ……」
「自分たちの行いの……正当化のために……性犯罪者扱いされるだろうな……」
「もしかしたらあの火事も……おれたちのせいに……」
おれたちは力なく笑った。風に吹かれる蝋燭の火のように、おれたちの笑い声も揺れていた。
「……これからもこんな扱いされるなら……ここを出ませんか?」
と、おれは言った。
「でも……」
「縛られてるしな……」
「それに、みんなでいたいし……」
「人が大勢のところにな……」
「また地震があるかもしれないし……」
「だが、ここは寒い……寒い……」
「ああ……孤独だ……」
「おれたちがいるじゃないですか……」
おれは言った。鼻をすすったのは寒さからだけではなかった。 みんなも、より一層鼻をすすり始めた。声も震えた。
そして、おれたちは一塊のままゆっくりと移動し始めた。温かく、不思議と空腹も感じなくなった。どこへ行くのか目標は決めていなかったが、意志は統一されており、町の方へ向かっていた。それは、灯りを、温もりを求めていたのかもしれない。
その後、地割れに落ちて凍死したか、あるいは火の中に飛び込んで焼死したかは覚えていないが、おれたちは死んだ。しかし、その肉体は消えても、おれたちはおれたちであり続けた。
時が経ち、町の復興が始まると、おれたちの姿を見かけた誰かが祟りを恐れたのか、それとも単に大きな地震の後だからか小さな神社が建てられ、おれたちはそこに収まった。
恋が成就すると評判らしいが、そんな力があるとは思えない。