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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

創作百合短編集

塩味の、土曜日のメイク・アップ

作者: 今田椋朗


 なので、すっぴんがいい。

 選べるなら、そっちを選ぶ。

 ナチュラルメイクは、延長線上ではなく、二次的な選択肢だ。

 アイシャドウは薄く、無くてもいい。


 ヤツの目に影は落ちない。




 写真集。

 切れ長でいて、目尻が柔らかく垂れ傾向な、アーモンドアイのアイドルのファースト写真集を、教科書で埋まった引き出しの中から鉱山夫のように掘り出してくる。

 

 肩から力が抜けていて、どこか冷えた視線で、それでいて初々しい表情が気に入っている。

 写真慣れしたベテランの、女優になってしまって、もうアイドルと呼べない表情では、遠すぎて、実感がこもらないから、買わない。


 一ページ目。

 私は、彼女の垂れ目と目を合わせる。

 時が止まった彼女が目を逸らすことはないから、遠ざかるのは常に私から。


 二ページ目。

 背中にウェーブがかかったロングヘアが滝みたいに落ちていて、心拍数が増える。

 ポニーテールを解いた後の姿だと、勝手に思い込んで。


 三ページ目。

 ブラウスから放たれる彼女の陶器のような白い肢体を撫でつけるように、見渡す。

 食器洗浄機のように丹念に、隅々に、全体的に。


 私は制服のスカートを脱いで、出しっぱなしの布団の上に座り込む。

 膝の上の写真集のページを押さえる爪は短い。

 しばらく、ネイルをしていないし、新色の広告も目に入らない。



 言い訳しながら、投げやりに、吐き捨てるように、拭い去るように、それでいて集中力は到達のために必要だ。

 彼女は商品。販売者。生産者。

 私は消費者。

 健全な資本主義。

 白い肢体。

 垂れ目。

 唇。



『ユズ、来週土曜の大会、観に来て』



 脳裏に、ちらつく影が、ついに姿をみせる。

 きっと自分の影だって分かっている。

 でも、それはヤツの、『相棒』の顔で、声で、やってくる。

 堰を切ったように。

 そもそも、私が作れるダムの、あんまりの薄さ。

 ちょうど私の肉体のような、薄っぺらさ。



 ひとことで言えば、罪悪感、なのかもしれない。


 アイドルに『相棒』の顔をすげ替えて投影すると、おそろしく感度が高まることは、紛れもない事実として、受け止めるしかなかった。

 回路に、乾電池を直列に割り込ませるように、圧力が高まるのは、心臓と、下腹部。


 私の指はどうしようもなく電圧を求めた。


 一度、濁流に飲み込まれたら、なす術はないのだと知った。


 束の間の溺死を、ティッシュで拭った。

 汚い。汚い汚い。

 肺に酸素を取り込んで、私から出てくるものたち。

 私のためだけに、私に、かしずくよう歪めた幻影の彼女たちの輪郭の残り香で、いつか窒息すると思う。

 

 私は自分の首を、直径や円周を測るように両手で包み込んだ。

 小さい私の手の輪に、いつも呆気なく収まる、ライフラインの実感のない実感は、崖から飛び降り続けるような腹の底の浮遊感に似ているからか、脳裏に浮かぶのはダムの湖面だった。

 

 ダムの高い高い位置エネルギーを、足を踏み鳴らして確かめる。

 コンクリートの途方もない要塞の、尊大で雄大な存在は、スニーカーのゴム底の感触ただそれだけを抽出する。

 それはただ固い地面だから、別にその辺の道路のアスファルトと同じ感触なのかもしれないけど、想像の中で違うのは、奥底の思考回路が勝手に補完しているから、なのかもしれない。


 ダムなんて行ったことがないし、何も知らないからこそ生まれるイメージだ。

 それから、柵をよじ登って、身を投げる。

 たぶん公園の鉄棒を握る感触を流用している。

 

 青い青い、どこまでも深いダム湖に、永遠に近付き続ける。

 顔の肌感覚で落下の風圧を味わっていない。

 ただ、足を踏み外し続ける、足だけの感覚。


 着水するイメージに辿り着くことは、今までも、きっとこれからも、ないのだろう。

 奥底を確かめたいとは思わない。


 四ページには、辿り着く。

 五ページの時点で、もう手が届かない感じ。




 いつのまにか、目覚ましが鳴る前に起きるのが習慣になっている。

 学校のない土曜日でも。


 髪を上げて顔を洗って、保湿する。

 湯を沸かす。母はまだ寝ている。


 朝日はゆるやかな坂を昇る途中の足取りの覚束ない老人みたいな眼差しで、気配りの出来そうな柔らかい視線を向ける。

 だから、寝起きの目は落ち着いて慣れていった。


 朝食は、野菜生活、ブルーベリーヨーグルト、体温のバランスを取るための紅茶。

 液体燃料を流し込む作業だ。

 アルバイトはガソリンスタンドではないが、クルーのような笑顔を練習しながら。


 私は、車のようにそれ自体に意志がない。

 主体性が欠けているから、スマイルも和紙のようにペラッペラ。

 それでも、私の処世術なのだった。



 白無地の長袖Tシャツに、黒ショートパンツ。

 デニムにするか迷ったが、裾口の幅を大きくとった、ゆったり広がるシルエットのものを穿いた。


 細い脚がさらに細く見える。


 粘土細工で、骨組みの針金にまだなにも粘土をくっ付けていないみたいに見える脚を、なぜかマジョリティーはこれを礼賛している。

 私は時々、美醜について分からなくなる。

 

 肌を出したくないが、タイツを引っ張り出すのが億劫なので、折衷案として黒のニーハイを選んだ。

 手前にあった。

 いつか、この靴下に躊躇いを覚える日が来るのだろうか。


 身長が低く、あまりラフな格好をすると子どもっぽくなるので、大人っぽい灰色タータンチェックのベレー帽で垢抜けの案配を取る。


 目立たないように、地味過ぎないように。


 今日は自転車に乗るつもりなので、髪を抑える狙いもある。

 試しに、セミロングをベレー帽に収めてみたが、思ったよりボーイッシュにならなかったし、なにか違うと思った。

 肩に届くストレートヘアは、毛先を巻いたりしていない。

 それに対して、私の思考回路は、はちゃめちゃにパーマがかかっているだろう、お風呂の排水溝ネットの中身みたいに。

 


 誰かに会うわけではないのに、最低限、髪と顔と服装を整えた。

 なんとなく、流れに身を任せるような選択の連続で、自分のためのオシャレとは呼べない気がした。


 疲れて眠る母を刺激しないように玄関扉を操作した。


 団地の共用外廊下は、昨晩の驟雨の残響のような、乾いた霧で満たされていて、ドアノブの金属を冷やしていた。

 踵を返して、カーディガンを羽織ってから、外に出ることにした。


 近くで、カラスが一回だけ鳴いた。


 いやに切実な響きで、耳障りだった。


 

 白黒スニーカーのゴム底が、高い声でさえずる。

 廊下の床は、水分を含んでいるようには見えないけど、雨上がりの気配が重たく横たわっていた。


 リュックも黒色で、今日はモノトーンコーデというわけだ。

 バイトも何もない空っぽの土曜日の蟻地獄に抵抗するように、自転車で彷徨うのは、今日に限った話ではない。

 勉強したり、本を読んだり、そういうのは平日に息苦しいほどやっている。


 クロールで、たまには顔を水面から出そう、それくらいの、なんとなくで、外出する。

 とは言え、日頃全力で泳いでいて、息苦しいわけではなくて、平泳ぎあるいは背泳ぎかもしれない、ただプカプカ水に浮かぶだけで生じる、気だるさを解消したい。


 頭蓋にいつの間にか溜まる、鉛のような、冷たく重いなにかを、抜き取りたい。

 手垢で濁った鏡を拭き上げたい。


 でも、何をしても、どうせハズレのスクラッチをこするみたいに虚ろな心地なんだろうと、すぐ予防線を張る癖は、自分にも誰にも期待を持てない弱さだと分かっている。

 分かってはいるけど。

 


 団地を出て、片側二車線の交通量のある通りまで、とりあえず漕ぎ出す。

 粗い舗装の水捌けの悪い道路を出来るだけ避けて、信号がない交差点を縫うように進んで、その四車線に突き当たる。

 北上すると、その道路は高速道路と交差する。

 途中に、回転寿司チェーンとドン・キホーテが向かい合っている。

 ノイジーな空間に身を沈めたくなって、ドンキに入った。


 駐車場に、店に入るつもりのなさそうな、よれよれジャージ短パン男の副流煙が薄く延びていた。

 その熱帯雨林のようなすね毛に、思わず身の毛がよだって、私は足早に店内に向かった。


 原始人を連れてきたなら、脳がオーバーヒートして気絶すると思う迷宮で、私が購入するものは覚えている限り、洗剤とか化粧品とか乾電池くらいだ。


 ハンドクリーム、化粧水、ヘアオイル。

 アイライナー、マスカラ、まつげ美容液。

 プチプラは身の丈に合っている。

 その時その時、割引されているものたちを選んでいる。

 最近、アイライナーはペンシルタイプが合うことに気付いたくらいで、無数の選択肢のあるメイクの海には飛び込めず、波打ち際でぱしゃぱしゃするのがやっとだ。



 なんとなく、鈍色のヘアカラーを手にとっていたら、

「あー、似合いそう」

 見知らぬ女に話し掛けられた気がして、訝しみながら声のする方へ振り向いた。


「やば、声に出てた」

 高校生くらいの、同い年か、少し年上か、やはり見知らぬ女が、口に手を当てながら、こちらを見ていた。

 有り体に言えば、明るくて人懐っこい陽キャで、悪く言えば、頭が悪そうな、具体的根拠のない自信が容姿や仕草の節々から溢れている、そんな感じの女だ。


 ストリート系で、長袖のだぼだぼのパーカーだけ着ているようで、下は穿いているのかいないのか分からない。

 剥き出しの脚は長いうえに、厚底の靴を履いているから、私は彼女を見上げる格好となった。


『ユズ、来週土曜の大会、観に来て』


 その首の角度は、私にとって日常的なもので、一瞬だけ『相棒』がちらついたが、振り払った。


 キャップを後ろ前にして、明るいロングボブを抑えつけながら、彼女は身軽に話し続けた。


「ていうか、髪!まじでサラサラなんだけど、何使ってるの?」


 絡まれるくらいなら、面倒くさがらず髪を帽子に収めたのに。

 ほとんど溜め息混じりに、なけなしの社交性を用意した。

「夏はUVカットのを選んでたけど、今は特に……名前も覚えてないやつだけど」


「どこの美容室?」

 パーカーの紐を引っ張る彼女の指は、長く細く滑らかで、意外と気品のある造形をしていた。


「○駅前の△、一週間くらい前に……」

 私はベレー帽の位置を気にするふりをしながら答える。


「ふうん、シャンプーは?」

 たぶん、彼女は脊髄で口を動かしている。

 どこも見ていなさそうな、その柔らかい目は乾燥しているように見えた。

 脳みそを寝かしつけている人のにおい。


 だから私は周波数を寄せていくように、雑に答える。

「ずっといち髪だけど、なんとなく……」


 だぼだぼパーカー女は、ロングボブの毛先を広げてみせて、

「ほら、あたしさ、ずっと染め続けてパサパサになっちゃって」

 それから私の背後に回って、

「んー、やっぱり染めないほうが良い気がするなあ、その色も似合いそうだけどね。」


 髪を触られないように、私はパーカーの正面に向きなおした。

 私は鈍色のヘアカラーを棚に戻した。

 立ち去ろうかと思った。


「暇でしょ?あたし暇で暇で、つきあってくんない?」

 一発屋歌手の軽薄なラヴソングでも歌うような響きだったが、不思議と不快ではなかった。

 ラジオでそんなものが掛かったら私はクイズ芸人のように俊敏にスイッチを切る。



 私は浴槽洗剤一つをレジに通して、パーカーについて行くことにした。


 無神経な強風に身を晒し続けたくなったから。

 頭が悪そうで、無害そうで、つまり気を使わなくていいから。

 流れに逆らう理由が見つからなかったから。

 彼女の厚底靴の新品同様の光沢、彼女の白い手指の爪に清潔感があったから。

 単純に暇だったから。

 

 理由付けを試みても、たいして見つからなかった。

 


 自転車のハンドルを握る手の甲に、雨が一粒落ちてきた。

 しかし、雲は少なく、降り始める気配のない青を見せていて、どっちつかずだった。

 昼前だが陽光は弱々しく、病室の居心地に似ていた。


 パーカーが、小さな車輪の自転車に乗って、私の隣に横付けた。


「あたし、チエ、ね。」


 言外に、こちらの名前の開示を要求していることは分かるが、答えたくはない。

 しかし、知恵あるいは千枝と書いても、彼女の最初の印象と正反対の名前だと思った。

 心愛だとか結奈だとか、そんなイメージだった。


 私のちっぽけな頭の、日常生活で偏っていく思考を、ブルドーザーで均したい。

 チエは、重機になりうるだろうか。


「教えてよ、名前」

 明確に訊かれてしまって、答えないのは変だ。

 こちらも脊髄で会話すればいいのだ。

 今日一日だけの関係なのだから。

「ュ…………スイ」


『ユズ、来週土曜の大会、観に来て』


「スイ、ね、じゃあ観覧車乗りに行こっか」

 チエはサッパリとした笑顔で白い歯を見せて、小さな車輪の自転車を進めた。



 私は咄嗟に『相棒』の名前を名乗ってしまった。


 漕ぎ始めに、歩道の小さな水溜まりを踏んでしまった。

 ロングボブは、振り返らない。

 


 私たちは、ロータリーなんてない、町を泳いでいたら突然現れるような駅に、おもむろに自転車を駐め、そのまま普通電車に乗った。


 各駅に、しらみつぶしに停車することがフツーなのだろうか?

 だとしたら、一足飛び、二駅飛びに目的地に向かう優等列車は、フツーじゃないのか。

 しかし、どの電車も同じ箱に見える、蒸し暑い日本に拉致されたペンギンや競走馬たちの見分けがつかないように。


 剣道でいうところの中堅の途中駅で降りて、乗り換えるために橋上駅舎を移動する。

 チエは厚底の靴で一段一段踏みしめていく。

 明るい外巻きロングボブが、肩で滴る。

 

 階段を各駅に停車する、それがフツーなんだろうけど、私には、おっとりしているように見えた。



 それに対してヤツは、階段でもエスカレーターでも、二段か三段を跨いで上る。

『ユズ、来週土曜の大会、観に来て』


 彼女の、陸上部特有の体内時計感覚なのかもしれない。

 その振り子時計か2ストロークエンジンのように無機質な歩様が、私をピザとかうどん生地にする。

 ……また『相棒』の影だ。

 私は動物のように頭を振った。


 なんとなく、このまま流れに身を任せていったら、私はヤツに焼かれるなり茹でられるなりして、その胃に収まるんじゃないか。


 そんなイメージが具体的になる前に、ショートパンツとニーハイの合間の腿をつねった。

 痛みで、まあまあなんとかなる気がするから。


 チエは、そんな私に一瞥もくれず、やってきた優等列車のクロスシートに悠々と陣取った。

 私は対面に、斜め向かいに座る。

 オセロの初期位置のように、カバン、チエ、リュック、私。


 チエとは、ずっと口を噤んでいても、脱力できていて、居心地は悪くなかった。

 たぶんお互いに、たいして何も求めていないのが分かるから。

 それでいて行動を共にする、百倍に薄めた友情のような何か、あるいは、共犯のような。



 電車が無神経に唸りを上げてフツーの駅を幾つか通過して、太陽が精一杯かき集めた昼の光が頬を撫でたとき、チエは口を開いた。


 まるで、会ったときからずっと楽しくお話し続けた文脈をリュックに詰めて背負わせるみたいに、明るい声で。


「あたし、観覧車乗りたくて」


 そういえば、そんな話だったか。

「大観覧車?A駅の?」


「それそれ、あと、気になってるレストラン、イタリアンは好き?」

 ぶっきらぼうと呼ぶには、愛嬌がありすぎたチエの口調は、屈託ない、くらいでちょうどいいか。

 どこか吹っ切れている感じが、いいと思った。


「好きだけど、小食だよ」


「あたしも。

 ピザとパスタ、どっちも食べたかったから、はんぶんこね」


 道連れの理由なんて、そんなものだ。

「いいよ、それで」




 私たちは、都心のA駅の改札を出て、そのまま流されるように駅ビルの百貨店まで歩いた。


「スイ、ちょっと見ていかない?」

 チエは、化粧品売り場で足を止めた。


 私は黙って頷く。


「なんかさ、こういう所って、敷居が高い?ていうか」


 私は『敷居が高い』の誤用を咎めたいが、どこからか駄々をこねる子どもの高い声が耳をつんざき、それでなんかどうでもよくなった。


 辺りには子連れママが何組もいて、連合して煙に巻いている感じに見えた。


 販売員がやってきて、私はチエの背に隠れた。


 チエは販売員とフランクに話して、下地か何かを購入した。

 デパコスに背伸びを感じなくなるときが、大人になるということなのだろうか?



 駅ビルを出てしばらく歩くと、都会にぽっかり開いた穴みたいな憩いの公園が視界に入る。


 公園の奥に、神さまが雲上から落っことした世界の歯車が突き刺さったみたいな観覧車がある。

 

 コスモスが、植え込みのあちこちで、歌うように咲き誇っている。



「スイ、お腹すいてる?あたし、ペコペコ」

 チエは前を向いて歩きながら訊く。

 

「ちょうどいい時間だし、そのまま案内してよ」

 私は公園を尻目に答える。


 私たちは公園を素通りして、レストランに向かう。


 私たちは人生の一瞬だけ近接する双曲線。

 私たちは同じ方向に足を向けても、目線は同じにならない。

 チエと私は交わらない。


 私を軸に、波状グラフのようにまとわり付くのは、『相棒』の影。

 あるいは、ヤツが軸で、私は滑稽に振り回されているのかもしれない。

 ああ、たぶんそっちだ。


『ユズ、来週土曜の大会、観に来て』


 私の感情が三角関数だとしたら、余弦定理のような便利な道具で、ヤツの頭の角度を求められるだろうか?

 赤銅色のトラックの曲線しか無さそうな頭の中を覗いても仕方がない。


 とはいえ私と、ヤツと、チエで三角関係にはならないだろうが、ヤツの鉄仮面が嫉妬で溶け出すところは見てみたい。


 しかし、トラックを何周しても涼しい顔の、切れ長の垂れ目が歪む様子は、まったく想像できなかった。



 上の空でついて行っていたから、チエが不意に立ち止まって、ロングボブの跳ねる肩に私は鼻をぶつけた。


「着いた、写真で見るよりオシャレじゃん」


 口ではそう言いつつ、端末を取り出さないらしい。

 チエは映えに虫みたいに群がる女ではないらしい。



 真っ白い外装に、滑らかな漆喰の内装。

 二人席テーブルは二組、いずれも空席。

 カウンターは五席ほどで、三人が間を空けて座っている。

 レストランと呼ぶにはコンパクトに纏まり過ぎていて、カフェのイメージが先に来た。

 しかし、香ばしい魚介類とオリーブの香りで小世界を物語っていて、開放的な動線だが、目に見えない輪郭線を跨ぐ感覚があった。


 非日常に胸を少し踊らせながら、私はテーブル席に座った。

 チエはカバンを引っ掛けて、私に視線を合わせて、私はリュックをお願いした。


 チエが座って、店員がやってきた。


「なんでも食べるよ」

 私は腿の靴下の位置を整えながら言った。


「オッケー」

 これと、これお願いします。

 初めての店で淀みなく注文するあたり、チエはずいぶん計画を練っていたのだろう。


 シンプルなガーリックオイルパスタ。

 ナスがごろごろ入っている、ヤツの切れ長の瞳のように黒々と艶っぽく濡れているから、フォークを刺すのを躊躇ってしまった。


 ピザも美味しかった。



「スイってモテるでしょ?」

 唇を拭きながら、パーカーが言った。


「まあまあね……あ、違う」

 『スイ』は『相棒』の名前の一部だ。

 それ以上、訂正する気は露ほどもなかった。


「余裕たっぷりだね、なんか、いいな」

 チエは私を見ているようで、見ていない。


 ロングボブをキャップで抑えなおして、

「じゃあ次行こっか。」


 雨上がりのにおいがするパーカーの背に、私はついて行った。


* 


 私たちは、駅前まで戻り、洋服や雑貨を見回った。


 私は、ヘアクリップを手にとって、立ち止まった。


「そういう感じのが好きなの?スイは」

 チエは同じものをもう一つ手にとって、しげしげ観察した。

 そのクリップは、ジェットコースターの軌跡のように一回宙返りしている、華奢な針金だ。


 毛量があっても纏まりそう。 

 私は『相棒』のおおざっぱなポニーテールを思い浮かべていた。

 うなじと、制汗剤のにおいも。


『ユズ、来週土曜の大会、観に来て』


 いつも百円均一の黒いヘアゴムで、着飾ることにあまり興味のないヤツは、そのままでも独特の説得力があるからか、不思議と、その容姿は好印象として受け取られている。

 クラスメイトたちに、陸上部員たちに。


 私が切れといったら、ヤツは坊主にするのも躊躇はしないだろう。

 時折、ほんとうにそう言いつけてしまいそうになる。

 坊主になった彼女を、周囲はどう受け取るのだろうか?

 無意味な想像だ。

 ヤツは、『相棒』は、私の謎の八つ当たりのような破壊衝動をぶつけていい人ではない。



 ヤツのロングヘアは、小学生のときに私が伸ばせと言ったから、それを今も律儀に守っているのだ。

 

 私は長い髪に触れたくなった。

 しかし、目の前のチエの明るいロングボブには、食指が動かなかった。


 チエは、果物のモチーフのヘアピンを物色している。

 私は、パーカーの後ろから、柑橘類を探した。

 無意識に、目が探していた。

 蜜柑やレモンはあっても、『柚子』は無かった。


 理由不明な残念と、買わずにすんだ安心のようなものと両方あって困惑した。


 ヤツには既に、過去に、柚子のヘアピンを贈っていたことを思い出して、私は顔が熱くなった。

 紛失するか破損していてほしかったが、ヤツの性格上そんなことはあり得ないだろうと思う。


 

 結局、手持ち無沙汰にヘアクリップを一つ購入して、私たちは何かに導かれるように、観覧車に向かった。



 パーカーは自販機に向かった。

 私は観覧車を背にして、ベンチに座る。


 辺りの、公園の植え込みのコスモスに、笑われている気がした。

 この美しい花壇を荒らしたくなった。

 どうしようもなく、蹴散らしたい。


 私は有り余ったエネルギーを散らすように、ベンチでばた足をする。

 プールサイドのように。

 一体なにに溺れているのだろうか?

 私は、いつのまにか、土曜日の空虚なすり鉢状を滑り落ちて、蟻地獄に捕まってしまったのだろうか?


 私は立ち上がって、コスモスの一角に対峙した。

 花弁が、ヤツの唇になって喋りはじめる。


『ユズ、来週土曜の大会、観に来て』


 それが、自分でもおかしくて、私は口角を上げる。

 きっと、ひどい笑顔だ。

 右の頬が、釣り針にでも掛かったように、引きつっている。

 酷薄で、虚ろで、みにくい。


 コスモスはヤツの名前とは違う花だ。

 ヤツの、『相棒』の名前は、『スイレン』。

 睡蓮の長いまどろみ、まだ読んでいない。



 既にぐちゃぐちゃの脳内で、花壇をめちゃくちゃにしてみた。

 足元が、ふわふわプカプカし始めた。

 既視感があった。

 分かった。

 

 ダム湖に落ち続けるのと、コスモスを踏み荒らすときの、それら想像の浮遊感は同じだった。



 白い手が、視界に入ってきた。


 チエはペットボトルのお茶を一本手にとって戻ってきた。

 パーカーは、一口いる?なんて言わずに黙って飲んだ。

 無駄に気を使わないところが良いと思った。

 


 私たちは観覧車に向かった。


「たぶんちょうどいいタイミングだと思う」

 潤った声で、チエは言った。

 券売機に向かう私を引き留めた。

「チケット、あるから」


 私たちはゴンドラに入って、向かい合って座った。

 ちょうど日が暮れて、空は赤く染まり始めた。


 チエのにおいが少し変わった気がした。

 ほんのり甘い、たぶん本来のチエの空気。


「……。」

「……。」

 チエとの沈黙は、学友とのそれと違って、私は肩の力を抜いていてよかったが、狭い密室ではさすがにそうはいかなかった。


 チエの唇は躊躇って、もぐもぐと歯間に挟まったものを気にするかのように動いていたが、私たちのゴンドラが九時の位置になる頃、ようやく言葉になった。


「あたし、カレシにふられて、おとつい」

 ロングボブの毛先を摘む。

「唐突だったけど、唐突じゃなくて」

 パーカーの裾を摘む。

「うすうす気付いてたんだけどね」

 お茶のペットボトルを握る。


「でも、幸せだったから、もういいの」

 チエの瞳は乾いていた。

 たぶん、涙はとっくに尽きているのだ。


「……。」

 私は相槌も打たず、黙って夕焼けを見続けた。

 それでいいと思った。

 なぜなら、私がいるだけでチエのそれは独り言にはならないから。

 

 独り言を、自室の白い壁にぶつけるようなことは、あまりにも自分に真摯で真剣すぎて、壊れてしまうくらい、寂しさの輪郭をくっきりかたどってしまう。


 だから、私が水になって、全部ぼやかして、曖昧にする。

 魚が棲めるくらい。

 醤油一滴の排水に対して、浴槽何杯分必要なんだったか忘れたけど。



「夕焼け、今日はすごいね」

 チエは身震いした。

 たしかに、少し肌寒いかもしれない。


「……チエ」

 私は腕を広げて、パーカーに向き合った。

 チエは大型犬がじゃれつくみたいに、私の胸中に収まった。

 あるいは私が小動物なのかもしれない、体格差があった。

 ゴンドラが十二時になった。


 チエは泣かずに、私の長袖Tシャツに埋まり続けた。

 赤の他人の私が、チエの寂しさを何倍にも希釈していたら、私は目蓋が重くなってきた。


 夕焼け空の、細長い雲の縁に赤紫が滲んでいて、複数の傷口が裂けているようにも見えた。

 あるいは、サツマイモにも見えた。

 虚ろな灰色の土曜日が背景だった。


 いざ都会の街並みを見下ろしてみると、なんだかなにもかも小さくて、全部おもちゃみたいに見えて、こんな狭い所に何万人も固まって生きているなんて滑稽に思えてしまう。


 ロングボブとキャップを見下ろしながら、この観覧車が根元から倒れたら、一体何千人死ぬのだろうと、ふと思った。



 チエは体温が高かった。

 充電中のリチウムイオン電池のように。


 ゴンドラが、ガタッと音を立てた。

 それで、ぼんやり眠気のような何かが私から抜け出した。

 

 私たちのゴンドラが四時の位置まで降りてきた。

 チエは気まぐれな野良猫のように、そそくさと私から離れた。


「ありがと」

 ゴンドラから降りながら、パーカーは背中で言った。

 振り返ったチエの、見習い執事のように差し出された手を取って、私はゴンドラから降りた。


 そのままお互いにタイミングを見失って、風が吹いたら離れそうな軽い力で、私たちは手を繋いだまま駅に向かった。


 チエの方が背も高かったが、手の大きさは大差ないようだった。

 スタバだとショートが、マクドだとSサイズが似合う手だ。


 私の冷たい手が、体温の高いチエの滑らかな手で跳ね返って、私はサイズの合わない手袋をしている気分になった。


 なんだか腎臓か肺の裏側か、なにかがムズムズするのは、例えば背中に貼るカイロがいつしかズレ落ちて、無断で服の中を上下左右に平泳ぎされるような、そんな感じだった。



 私たちは電車に乗って、来た道を戻った。

 口頭での会話は必要なかったから、黙り続けた。

 

 ロータリーも、なにもない駅で降りて、駐めてある二つの自転車の前まで、私たちは手を繋いでいた。


 私は手をはなして、そのまま誤魔化すように手を振った。

「……バイバイ」


「バイバイ」


 私は振り返らなかったから、彼女の体温以外を忘れてしまった。

 あるいは、間延びしてリズム感が悪い退屈な映画を、やっと見終わって、でも何も感想が浮かんでこないような空虚に近かった。



 カーテンのように雲で覆われていても明るい月夜で、私の影は伸びたり縮んだり、左へ右へ、忙しなかった。


 その夜風は、スーパーの野菜コーナーで吟味しすぎていつの間にか底冷えするような感じだった。


 外出しても、屋内のイメージしか湧かないのは、きっと自分が殻に籠もっているから。



 

 日曜日はバイト。


 月火水木金は、『相棒』と朝夕、団地と学校を往復する日常を、いつ書いたのか忘れた筋書きをなぞるように、私はやり過ごす。

 

 ここのところ、スイレンの目線がうるっさくてイヤになる。

 今週の金曜日は、気まぐれに夏を思い出すような晴れだが、天気予報は雨だった。


 その降る気配のない朝、私の住む五階の外廊下で、スイレンは待ち伏せていた!


 今までは、同じ二号棟の五階に住む私と、六階に住むスイレンで、偶然のような、なんとなく朝の通学路で合流していた。


 それは十年程の付き合いで得た、なんとなくで、それまで口約束のようなものも必要なく、引力か磁力みたいなもので行動を共にしていた。


 だから今日のスイレンの、やけに直接的な言動は珍しくて、私は戸惑った。



「柚乃、忘れてないよね?明日、土曜日」

 エレベーターを待ちながら、スイレンは切れ長の垂れ目を私に向ける。

 そのポニーテールが翻って生まれた風に、私の頬は撫でられた気がした。

 そんな、においがした。


「……大会でしょ」

 私は相棒から目を逸らす。

 エレベーターを気にするようにして誤魔化す。


「絶対来て」

 感情が削げ落ちた声、ヤツはいつもの仏頂面だろう。

 見なくても分かる、それこそ大仏みたいに正面から見ると微笑を湛えている、いつもの意味分からない顔をしているのだろう。

 

「……わかった」

 私は、退屈そうな色を調合して、ジャムバタートーストのように声に塗って、それで返事した。

 たぶんそれは茶色と灰色の不協和音。


 ふと、パンを咥える相棒の間抜けな顔を想像した。

 ずいぶん幼い顔だったから、たぶん小学生時代の記憶を使ったのだと思った。

 制服は、今着ている高校のものだったから、ちぐはぐだった。



 私たちは、いつもの早めの時間の電車で、着席した。

 ラッシュ前の車内は二十人程度だ。


 スイレンは当然のように、私の隣に腰掛けた。


 肩が触れて、むずむずするから、私は少し距離を取った。

 すると、あろうことかスイレンは大きな手を伸ばして、私のうなじを通り越して反対側の肩を掴んで、ぎゅっと引き寄せた。

 いくらなんでも様子がおかしい!


「ちょっと?」

 私はきつく眉を寄せて、隣の女を睨み付けた。


「なんで離れるの」

 相棒は、軽蔑しているように見えなくもない、いつもの冷たい、切れ長の目を私に向ける。

 相変わらずヤツの表情は読めない。

 

「ち、近いんだけど」

 心臓が縮まる。


「いまさら?」

 スイレンは、くいっと左の口角を上げた。

 でも笑顔には見えない。


「……人前、だし」

 私は抱き寄せられ続けて、ぞわぞわしてきた。

 内臓が雑巾のように絞られて出てきた重い血が頭と足に向かっていくときの、ついでの悪寒。



 スイレンは、三日月形に唇を歪めた。


 表情らしい表情がようやく表れたが、不気味なのは変わらなかった。

 切れ長で、それでいて垂れ目の曲線がより柔らかく山なりになった。


 下まぶたを持ち上げるだけで、不思議と、冷ややかな印象が温かい慈しみの色に裏返るのが、私は不気味に感じる。

 それを、ほとんど私にしか向けないところも。


「ふうん、人前じゃなきゃいいんだ?」


「……っ!!」

 私は失言で頭が真っ白になった。

 相棒の顔を直視できなくて、ぶんっ、と反対側を向いた。

 

「ユズは、いいにおいだね」

 スイレンのささやき声が耳元のすぐ近くで響いて、くすぐったさで私の上体が跳ねた。

 足も、思わず空気を蹴飛ばした。


「な、なにを」


 狼狽えたせいで遅れて気付いたが、スイレンは私の髪を嗅いでいるようだった。


「ユズ、明日ワタシが勝ったら……」


「私で遊ばないで」

 私は被せるように言った。


 混雑してきても、私の肩に置きっぱなしだった、『相棒』の大きな手の重力を、脳内に焼き付けるのに忙しかった。




 その帰りも、スイレンはやけに積極的だった。


 私が放課後に図書室で待っていることを教えていないのに、スイレンは部活を終えた足でやってきた。


「ユズ、やっぱりここにいた」

 

 声のする方に振り返る。

 スイレンはアルカイックスマイルで仁王立ちしていた。


 私は文庫本を閉じて、黙って立ち上がった。


「ユズは毎日ここでワタシを待ってるの」

 歌うような節回しだったから、スイレンのそれが疑問なのか平叙なのか、私は分からなかった。


 スイレンは喋り続けた。

「ユズ……何を読んでいたの、松浦理英子……?」


「ユズ、今日は家に来ないか」


「ユズ、手を繋いでいい?」


 私は口を噤んだまま、顔を伏せながら、図書室を出て、校舎を出て、校門を出て、大通りから数区画離れた細い道で最寄り駅に向かった。

 

 その道で、私はスイレンの手をそっと摘まんだ。



 電車を降りて、いつもの帰り道、人目がないことをいいことに、スイレンは私の手を握った。


 長い指を絡めてきて、私の小さな手はすっかり食べられてしまったようになった。


「ユズ、明日の大会、ワタシが一番だったら、ワタシは陸上部をやめる」


 スイレンと私の脈動が、手のひらで交錯する。


「……どうして」


「そうだね……たぶん、十分やりきったと思うんじゃないかな、そのとき」


「……一回、一番になれば、満足なの」

 

「もともと、陸上に強い感情があるわけじゃないからね、ワタシは」

 

「……あんなに、頑張ってたのに?」

 私は、相棒の表情を見たくなったけど、手を繋いでいることが足枷になって、むず痒くって、出来なかった。


「ワタシはユズに、まだ、走っているところを見せたことがないのだけれど、いつ見ていたの」

 スイレンは握る力を強めた。


 私は表情を隠すように、俯いた。

 放課後、課題も読書も終えた図書室で、やることがなくなったとき、陸上部の活動しているグラウンドが見える、校舎の二階の化学準備室の向かい側の窓辺から、相棒の長身を探して、背中を追っているなんて、言えるわけがないから。



 私とスイレンの心臓のリズムが、互いの指間を通じて、揃っていった。



 団地の二号棟に着いても、エレベーターに乗っても、手を繋いでいたから、いつものように黙って離れられなかった。

 私は自分の住む五階を通過して、スイレンとその家族が住む六階まで、のこのこついてきてしまった。


「ただいま」

 スイレンは私を逃がさないように手を握りながら、靴を脱いでいる。


「おかえり、あら、ユズちゃんじゃない、お久しぶりね」

 スイレンの母は変わりなかった。

 スマートなショートボブと、顎の鋭角なラインが格好良く、二重まぶたの垂れ目が柔らかい。


「……こんばんは、お久しぶりです」

 私がそう言うまで、スイレンは手を放さなかった。



 手を洗って、カーディガンを脱いで、そのまま私は台所で晩ご飯の用意を手伝う。

 調理器具の配置も変わりなかったから、スムーズに進んだ。

 私用のエプロンだけは、少し小さくなっている気がした。


「ユズちゃん、良いカレイ買ってきたから、今日は煮付けをお願いね」


 スイレンの母は隣で小松菜のおひたしを皿に盛って、それから洗濯物を取り入れに向かった。


 私は昔教わった通りに工程をたどる。


 ひたすら煮汁を回していると、スイレンが台所を覗きにやってきた。


 三日月形に口を歪めていて、それからゆっくり下まぶたを持ち上げる、その時間差が不気味だ。

「スイ、その顔、きもちわるいからやめて」


「な、……ユズ、ひどいな、そんなことを言うなんて」

 相棒は目と言葉だけで驚きつつも、唇はにやにや笑っている。


 背中にちくちくと視線が刺さって、不快だ。

「……じろじろみないで」

 

 お玉を置いて、振り返ろうとしたら、私は背後から抱きしめられた。

 柔らかいものに、身動きが取れなくなった。


 身体を巡る血液が摩擦熱で沸騰するくらいスピードを増して、腰が砕けそうだったけど、私のお腹に回されたスイレンの大きな手が支えになった。


「課題とか、終わらせたの?」


「終わらせたから、電池切れなんだ」

 スイレンの息使いが、くすぐったい。


 私は煮魚の火を消した。

 それで、スイレンは私を開放した。



 スイレンの父も帰ってきて、私たちは四人で晩ご飯を食べた。

 スイレンに抱き付かれたせいで、カレイの味が薄くなってしまったかもしれなくて、私は内心ヒヤヒヤしていたが、杞憂に終わった。


「ユズちゃんに読んでほしい本があるんだ」

 スイレンの父は切れ長の目を細める。

 鼻筋など、スイレンは父親似だということがよく分かる。


 ハードカバーの本を数冊借りた。

「ありがとうございます、この前お借りした本、母も面白かったって言ってました」


「やっぱり、ユズちゃんのママさんとは合うみたいだね」


 スイレンの母が、タッパーに詰めながら言った。

「ユズちゃん、お母さんの分のおかず、持って帰るでしょ」

 

「ありがとうございます」


「スイ、明日大会に出るの、ユズちゃんも見に来るの?」


「……はい」

 ちらっと、スイレンの顔を窺うと、切れ長の垂れ目を柔らかくして、にやにや笑っている。

 いつの間にか制服から部屋着に着替えていて、ポニーテールを解いている。

「ユズ、お弁当作ってよ」


「……。」

 私は黙って、制服の上にエプロンを付けて、台所に立った。



「じゃあまた明日ね、ユズちゃん、ありがとね」


 私は両手に紙袋を持って、六階を後にした。

 スイレンは部屋着のまま、私の学校鞄を持って五階までついてくる。


「ユズ、今日はありがとう、明日は頑張れそうだ」

 玄関に荷物を置きながら、相棒が言った。

 私は靴を脱いだ。

 私の母の靴は、見当たらない。



 ポニーテールを解いた長い髪に、触りたい。


 見上げると、切れ長の垂れ目が真っ直ぐ私を捕捉していた。

 スイレンは今度は正面から私にハグをした。


 私は、そろりと相棒の背中に手を回して、髪に触れた。





 スタート。


 カラフルな陸上部のウェアを上下に、十数人が走り出す。

 次第に隊列になっていく。

 マーブルチョコの工場は、こんな感じかなと思う。

 色とりどりのチョコたちのゴールは、パッケージなのだろうか、胃なのだろうか。


 私の相棒は、五番手に落ち着いて、しばらく赤茶色のトラックを周回する。

 私はトラックを見て、何も関係ないけど、チャーリーとチョコレート工場のワンシーンを思い浮かべた。



 途中、相棒より背の低い、木の枝のような選手が徐々に進出して、先頭になり、そのまま差を広げていく。

 素人目でもハイペースだと分かる。


 私のポニーテールは、五番手で悠々と追走している。

 顔はよく見えない。

 私は退屈で、じれったくなる。

 私はジャンパースカートの裾を摘む。



 大逃げを打つ選手と、その他の選手たちとの差はなかなか埋まらない。


 私はベレー帽の位置を気にする。


 突然、長身の選手のギアが入って、速度を上げていく。

 ポニーテールを靡かせて、三番手、二番手。


 後続も追いすがり、終盤の熱が高まる。


 ポニーテールが、木の枝に迫る。


 あともう一歩!


 火花!





 スイレンは、先輩や同輩、陸上部員たちに囲まれて、戻ってこない。


 あの切れ長の垂れ目が、私に向けるときと違って、爽やかに見える。

 ……ヤツの外面だ。


 先輩たちとねぎらいあって、同輩たちと他愛ない話を続ける、私の相棒の長身。



 私の相棒。

 私の忠犬。

 私の用心棒。

 私の…………。


 私の女!





 喫食スペースで、私たち四人は合流して、お弁当を食べた。

 

「おめでとう、スイ」

「お疲れさま」

 スイレンの父と母の、目尻を下げながら言う、その仕草は双子のようにそっくりだった。


「……。」


「ユズ、ワタシ、勝ったよ、ぎりぎり」

 もう汗は引いていたけど、スイレンの声は弾んでいた。


 私は何て言えばいいか分からない、違法建築の積み木のように感情を重ねていて、下手につついたら何もかも崩れそうで、だから黙り続けた。



 午後、もう娘の出番はないので、スイレンの両親は先に帰った。

 私は、陸上部の解散まで少し待つことにした。


 観客席の隅に座った。

 カバンから、ありふれた風景画の文庫本を取り出して、続きを読む。


 紙の色が急に変わって、日が落ちたことに気付いた。



「ユズ、帰ろう」

 顔を上げると、切れ長の垂れ目が私を射抜いていた。

 私は文庫本をしまって立ち上がった。


 私たちは帰路についた。

 スイレンに、あれこれ話し掛けられたけど、私は黙り続けた。



 

 団地敷地内の公園で、足を止めた。

 昔、ここで毎日のように遊んだ。

 ブランコ、滑り台、鉄棒、最低限の遊具が揃っている。

 ところどころ、塗装が剥げている。

 

 日は沈んで、青と紫を薄く薄く、何回も何回も塗り重ねた夜に、満月が不自然なまでに明るく浮いていた。


「ユズ……おこってる?」


「別に」

 私は俯いたまま言った。


「……ワタシは陸上をやめる」

 スイレンは淡々と続ける。

「ユズと遊ぶ時間を増やしたい」


「っ!そんな理由で?

 私は、スイの未来を奪いたくない!」


「未来……?

 ワタシの未来はユズだ」


「……じゃあなんで、私に、真っ先に……」

 一着を取ったなら、部員たちより先に、一番最初に、私のところに戻ってきてほしかった。

 こんなつまらない嫉妬、言えるわけがない。


 それが溢れるところは、やっぱり目だった。


 視界がぼやけて、それからブラックアウトした。


 鼻先に、スイレンの胸が押し付けられた。

 それから、ゆっくりと確かめるような手付きで、抱きしめられた。


「ユズと、いっしょにいたい、だけなんだ」

 煮詰めきって濃厚な感情が、私の耳に、脳に、注がれる。

 嗚咽を聞かれたくなくて、私はスイレンの耳を手探り、両手で塞いだ。

 それに驚いたのか、スイレンは私から十五センチメートルほど離れた。

 離れたといっても、私が見上げると、顔は至近距離で、鼻先で鍔迫り合いしているようだ。


「ユズ、もうワタシは待てない」

 私の女は、切れ長の垂れ目から熱湯を溢れさせながら、言う。

 月光を含んで、私の頬にこぼれ落ちる。


 それでも無表情に見えなくもない、どこかクールで、淡々としている、スイレンはそういうヤツだった。

 

「ユズ、……キスしたい」


 私は、ぎゅっとまぶたを閉じた。


 唇が重ねられた。


 私の両手はポニーテールをとらえながら、首に回していた。



 いくらなんでも長すぎる!


 窒息する直前に、私は乱暴にスイレンを振り払った。

 ぜいぜいと、息も絶え絶えに言った。

「そんなに、していいって、いってない!」


「ユズは運動不足だね、毎日一緒に走ろうか」


「……陸上部の肺活量に、付き合ってられないから、もうやめて」


「うん、……毎日、キスの練習、しよう」

 三日月形に唇を歪めて、言った。


「よくばり」



 私の女は、もう涙が乾いて、目の周りが塩田のようになっている。

 私だけの、私のための、不格好なメイク。


 それ以外は要らない。




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[一言] タイトルに惹かれて読み始め、独特な世界観を堪能させて頂きました。 ユズが戸惑いながらもスイレンを受け容れていく様子(いえ、元々受け容れていたのかも?)が少しずつ丁寧に描かれていて、繊細な作品…
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