9.ニンゲン
あの戦争が正確にいつから始まったのか、本当のところ、俺はよく知らない。
ニュースを見てなかったわけではないけど、テレビでも新聞でも、ネットでも、戦争についての報道はどこか虚構めいていた。
だから、自分たちが当事者である意識は低かった。
情報は錯綜していた。
ミサイルを落とされたというその日、すでに中学を卒業していた俺は、高校に向けて勉強していた。
一週間後には、その事件は事故だということになっていた。
テレビを観ながら、また馬鹿な大人がごちゃごちゃ言っている、そう感じていた。
それから、一転、相手国への社会的制裁がどうとかいう話になった。
友達同士でも、よく話題になった。
みんな少し浮かれていた。
たとえるなら、そう、オリンピックが開催されているときのような興奮だ。
ネットで状況を確認するのが日課だった。
あの頃の俺たちは、繰り返し報道される被害状況から『人が死んでいる』事を意識的に考えないようにしていた。
たぶん、あえて自分たちの感情を麻痺させていたんだと思う。
自分で自分に魔法をかけていたようなものだ。
そしてそれから二週間たち、温かい陽気になった頃、嫌な音をたてる爆撃機が空を飛んで、俺の住む地域は、街も人もボロボロになった。
早織姉ちゃんだけではないのだ。
近所中に行方不明者がいた。
みんな、自分が生きるだけで精一杯だった。
だから俺は一人で、帰ってこない早織姉ちゃんを探した。
道路は瓦礫だらけで、電車は動いてないから、映画館まで行くのは大変だった。
だけど俺は、早織姉ちゃんに会いたかった。
学校の体育館で、知らない人だらけの中、一人何もできないでいるのは嫌だった。
俺は避難所を抜け出した。
雨の音がうるさかった。
だから、大声をあげて泣きながら歩いたけど、誰にも聞かれずにすんだ。
瓦礫に埋まった家族の事。
無力な自分の事。
失われた平凡な日常の事。
雨の音で、全て誤魔化しながら歩いた。
映画館は、ぱっと見た限り、比較的綺麗な方だった。
奇跡的に爆撃を受けなかったのだ。
中に入って驚いた。
そこには、四人の子どもたちが住み着いていたのだ。
俺より年下の小学生から中学生ぐらいの子どもたち。
そしてその子どもたちから、奇妙な話を聞かされる。
人間は滅びました、と。
自分たちは動物です、と。
この映画館では魔法が使えます、と。
この子たちはおかしくなってしまったのだと思った。
お互いをウサギだとかサルだとか呼び合っていて、いやに真剣で、とても狂気じみていた。
でも、しょうがないとも思った。
確かに、こんな状況だったら、汚い人間であることなんて、否定したい。
目をそらし、耳をふさぎ、口をつぐんで、手を引っ込め、鼻をふさいで暮らしたい。
早織姉ちゃんは、魔法使い役だったらしい。
彼女はみんなの望む別世界を創り上げたのだ。
迷い込んだ俺にとっては、ここはまったくの異世界だった。
本日はご来場いただきまして、まことにありがとうございます。
当劇場では魔法が使えます。
動物の係員は、言葉をしゃべれます。
ポップコーン食べ放題、ジュースも飲み放題でございます。
たくさんのシアターを備えておりますので、さまざまな世界へのアクセスが可能です。
魔法使いの言葉に従い、快適なお時間をお過ごし下さい。
映画館はみなさまのシェルターでございます。
さあ、魔法にかかりましょう。
そうやって、魔法ごっこをしていたのだ。
早織姉ちゃんのふざけた声が聞こえるようだった。
「魔法が使えたらね、お母さんに会いたいの」
そうイヌが言う。
中学生ぐらいだろうか。
長い髪を一つにまとめて結んでいる。
「戦争が始まって、避難している途中、はぐれちゃったから」
生意気だった彼女は、今は鼻をすすり上げている。
「ニンゲンはどうして、みたくない現実をみちゃうの。いいじゃない。魔法があったって。動物がしゃべったって。私たち、子どもだもん。子どもは、信じるのが仕事でしょ。私、信じてる。お母さんにもう一度会えるって。お母さん、ぜったい迎えに来てくれる。信じてる」
でもさ。
疑わないっていうのは、想像するのをあきらめるってことだろ。
「無条件でまるごと信じる魔法なんか、使わないでくれよ」
本当はそんな事、言いたくもなかった。
「魔法使いは、ぼくが泣いてたら『君、目が真っ赤だぞ』って『君の名前は、今日からウサギだね』て、言いました」
ウサギは小学生の男の子だ。
細いヒザが、なんだか痛々しかった。
「『仲が悪い二人は、イヌとサルだ』とか『いやな夢を見なくなるようにバクって呼ぼう』ってみんなの名前を決めたんです。楽しかったです。それまでは、耳に残った爆撃機の音が怖くて、いつもビクビクしていました」
魔法使いが、彼に仲の良い味方をつくってくれた。
だから彼は、想像上の友達——月のウサギに話しかけるのをやめた。
「楽しいのは、お兄ちゃんの機嫌がいい時だけでしたけど」
「お兄さん?」
「前は、こいつの兄ちゃんも一緒に住んでいたんだ」
サルが、ふてくされたように言う。
声変わりしてない彼は、イヌと同い年ぐらいだろうか。
「あいつは、戦争が始まる前から、壊れてたんだ」
「壊れていたって?」
「ぼくのお兄ちゃんは」
ウサギが、小さな声で言った。
「学校のウサギを殺した、らしいです」
それは確か、早織姉ちゃんから聞いたことがある話だった。
「その子は、今は?」
「さっき見ただろ」
「え?」
サルに言われて聞き返した。さっき?
「エレベータの中だ」
じゃあ、早織姉ちゃんと倒れていたあの子が、ウサギのお兄ちゃんか。
何があったというのだろう。
なんで早織姉ちゃんは、死なないといけなかったのだろう。
みんな黙ってしまった。
そこへ小さな手が、俺に向かってノートを差し出した。
小さな女の子、バク。
ノートには、二年四組と書かれている。
「これ……読んでいいのか?」
バクがうなずく。
学校で書かされていた日記のようだ。
最後に、今日の日付が書いてあり、そこから先は空欄だ。
この子は戦争が始まり、学校に行けなくなってからも、毎日、日記をつけていたのだ。
俺は、ノートに目を落としたまま、口を開いた。
「早織姉ちゃんはさ、映画館が本当に好きだった。『そんなに映画館が好きなら、住んじゃいなよ』って一度言ったことがある。そうしたら、それはヤダって言われたんだ」
みんなが俺をみつめる。
「映画を見終わって、楽しかった、怖かった、つまらなかったって、いろいろ感想言うのが好きなんだってさ。ずっとシアターの中にいたら、何もしゃべれないじゃない、って言われてよ」
本当に早織姉ちゃんは勝手だった。
「だからさ、なんで早織姉ちゃんが——魔法使いがここに住み着いたのか、それが知りたいんだ」
俺は、バクの日記を読み出した。
これで、すべてがわかるのだ。