表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/11

8.イヌ

 この映画館では魔法が使えるの。

 鼻のきく私にはわかるの。

 魔法の匂いが映画館の中に満ちあふれているの。


 匂いというのはつくづく不思議だと思う。

 いつのまにか慣れちゃって、わからなくなる。

 香水がいい例でしょ。

 つけている本人は、感覚が麻痺しちゃうもの。

 匂いって、他人の方が敏感なのね。


 だからイヌの私より、部外者のニンゲンさんの方が鼻についたのかもしれない。

 ポップコーンの香ばしい匂いに紛れて、かすかに漂う魔法の歪な匂いに。


 匂いといえば、私の面倒をみてくれてたニンゲンは、とても良い匂いがしたの。

 かがみこんで私をなでてくれる時、肩のあたりからいい香りがして、私が鼻をすり寄せると、くすぐったそうに笑った。


 私はほめられるのが好きだったの。

「よしよし」と頭をなでられるのが好きだった。

 だから私は頑張ったんだ。

「いい子いい子」と言われたくて、とても頑張ったの。

「ご飯ですよ」という時の匂い。

「えらいえらい」という時の匂い。

「待っててね」という時の匂い。

 もう一度かぎたいの。

 もう一度会いたいの。

 だからこの映画館で。

 迎えに来てくれるのを待っているの。



   ♢   ♢   ♢



「魔法使いは」


 ニンゲンさんが叫ぶ。


「魔法使いはどこにいるだ」


 シアターの中でかがみ込んでいたニンゲンさんは、突然起きあがり走り出した。

 二階の通路を走り回るニンゲンさん。

 そのあとを、私たちが追う。


「早織姉ちゃん、早く出てこい」


 ニンゲンさんが、シアターの扉を荒々しく開けていく。

 一つ一つ中をのぞき込んで、魔法使いが隠れていないか確認している。

 まるで、かくれんぼの鬼だ。


「ちくしょう」


 サルが舌打ちする。


「映画館の中ではお静かに、だろ? あいつそんなルールも知らないのか」


 ニンゲンさんが扉を一つ一つ開くたびに、魔法の規律が一つ一つ壊れていく気がする。

 どうしてニンゲンは、開けちゃいけない扉を開けるのだろう。


 私たちはニンゲンさんを追う。

 けれど追いつかない。

 彼を止められない。

 ニンゲンさんが一階に下りていく。

 もう動かないエスカレータを駆け下りて。

 その後を私たちが続く。

 エスカレータに足音が響き渡る。


 私は走った。

 全速力で、ニンゲンさんの後を追った。

 なんで追いつかないの。

 夢中で叫んでいた。

 どうして、イヌはキャンキャン叫ぶ事しかできないんだろう。

 あの時も、私は叫んでいるだけだった。

 ウサギのお兄ちゃんが、私たちの前から姿を消したあの時。


 魔法使いの居場所が、見つかってしまうのは時間の問題だった。


 エスカレータの下に、隠れるようにしてある扉。

 開けると広がるエレベータホール。

 その奥の、四角い部屋。

 閉ざされた昇降機——止まったままの()()()()()

 それこそが魔法使いの部屋の正体だ。


「なんなんだ、この匂いは」


 魔法使いの部屋の前で、ニンゲンさんがつぶやく。

 ホールにはみんなが集まっていた。

 ウサギくんに、サル、バクちゃんさえも。

 魔法の匂いに酔ったのか、少しフラフラする。

 この場所の匂いに耐えられないから、私はここには近寄らないようにしていた。

 しっかりと、ホールの入り口の扉を閉ざしていた。


 私だけじゃない。

 サルも、バクちゃんも、魔法使いの部屋には近づかなかった。

 ウサギくんだけが、毎朝扉の前に立って、声をかけ続けていた。

 返事なんてあるわけないのに。

 ううん。もしかしたら、ウサギくんの耳には、聞こえていたのかもしれないね。

 魔法使いの声が。


 その時だった。


「やめて」


 小さな声がした。

 みんながぎょっとして振り返る。

 バクちゃんだ。

 バクちゃんが、しゃべった。


「やめて。何も、見たくない」


 小さな手で、目を押さえている。

 かすかに、体が震えている。

 夢と映画しか見ることの出来ないこんな小さな子に、ニンゲンさんは、何を見せつけるの。


「そうですよ」


 ウサギくんが、バクちゃんをかばうように立った。

 臆病なクセに、精一杯お兄さんぶってる。


「ぼくは何も聞きたくないです」


 サルも言う。


「オレも何も触りたくない」

「私だってそうよ」


 私も、震える声で言った。

 ああ。早く、ここを立ち去りたい。


「現実の匂いなんて、ごめんだわ」

「でも」


 ニンゲンさんが思い詰めた声で言う。


「それでも俺は、ここを開けるぞ」

「やめてよ」


 私は吠えた。


「どうして。どうしてニンゲンは開けちゃいけないものを開けるの。どうしてそのままにしておかないの」

「それはさ、早織姉ちゃんの口グセなんだ」


 ニンゲンさんが低い声で言った。

 その言葉に体がすくんだ。

 まるで首につながった鎖を、後ろから引っ張られたみたいだった。


 ニンゲンさんは、取っ手のない扉に手をかけた。

 やめて。

 魔法をとかないで。

 ニンゲンさんが、ぐっと力をこめる。

 匂いがあふれ出す。

 魔法使いの部屋の扉が開いた。



 中には、魔法使いが横たわっていた。

 男の子を抱きかかえて。

 魔法使いに優しく抱かれているのは——人形のようにだらりと動かないあの子は——。

 

 ウサギのお兄ちゃんだ。


 魔法使いの手には、魔法の杖のかわりのように、カッターナイフが握られていた。


「早織姉ちゃん」


 ニンゲンさんがかすれた声をだす。

 呼びかける声に、魔法使いは答えない。

 エレベータの中から、むせ返る匂いがあふれてくる。


「早織姉ちゃん」 

 

 これがあの匂いの正体。

 ポップコーンの香りに紛れて、この映画館に漂っていた匂い。

 かつて生き物だったものが、動かない別のものに変わってしまった事を知らせる匂い。

 死んでしまった匂い。腐ってしまった匂い。

 私たちは、吐き気を堪えられず、その場でえずく。


「早織姉ちゃん」


 魔法使いは、返事をしなかった。

 エレベータの床には、黒ずんだシミが広がっていた。



   ♢   ♢   ♢



 私たちは、黙ったまま、ロビーに移動した。

 誰も何も言わず、しばらく、そのまま座り込んでいた。


「魔法が使えたら」

 ウサギくんが口火を切った。

 彼は耳をふさいでいる。


「魔法が使えたら月に行きます。月ウサギと握手して語り合うんです」

「魔法なんて、使えるわけないだろ」


 ニンゲンさんが首を振る。


「オレは魔法が使えたら、ニンゲンを滅ぼして、自由に暮らす」

 サルは腕組みをしている。

 懐に手を隠して。


「魔法なんて、あるわけないだろ」


 ニンゲンさんは認めない。


「私はね」

 どんなに打ち消されても、それでも私たちは、魔法を使いたがるの。

 鼻を手で覆い、私は言う。

 さっきの匂いが気になるわけじゃない。

 ただ鼻の奥がツンとして、しゃべれなくなりそうだっただけだ。


「魔法が使えたら、会いたい人がいるの」


 迎えに来て。

 待っているから。

 優しくて

 いい匂いのする

 

 おかあさん——。



「魔法が使えたら」

 ニンゲンさんが、立ち上がった。


「俺は、そうだなあ。早織姉ちゃんの酒グセを直す。早織姉ちゃん、酔っぱらうとひどくてさ」


 みんながニンゲンさんを見上げる。


「俺の部屋のドアの前で、仕事のグチとか、映画の感想とか、ずっとダラダラしゃべってんだよ。本当に迷惑でさ。しゃべりながら、おでこを扉に打ち付けるクセがあって、次の日には忘れてるもんだから、『たんこぶ出来てるんだけど、なんでだと思う?』なんて聞いてくるだ。本当に、馬鹿なんだよ。早織姉ちゃんって」


 ニンゲンさんが目をつぶった。そして、開く。


「だけど」


 呪文が始まる。


「だけど、魔法は使えない」


 これは魔法をとく呪文だ。


「だから世界は変えられない。だから世界を元には戻せない」


 目を閉じ、耳をふさぎ、口をつぐみ、手をひっこめ、鼻を押さえて、私たちは魔法を使おうとした。

 だけどニンゲンさんの言葉が、防ぎようもなく私たちにふりかかる。


「だからさ、()()()()()()()()()()()をなかったことには出来ないんだ」


 世界は戻せない。

 平凡な日常には戻れない。


「わかるだろ」


 魔法がとけてしまう。


「だってお前らも、()()()()()()()



 私は映画館が好きだった。

 日曜日になると、お母さんが連れてきてくれたから。

 手をつないでくれた。

 ポップコーンを買ってくれた。

 次に観たい映画を言い合った。



「お前ら、その()()()()()、いつまで続けるんだ」


 ああ。魔法が、とけてしまった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ