8.イヌ
この映画館では魔法が使えるの。
鼻のきく私にはわかるの。
魔法の匂いが映画館の中に満ちあふれているの。
匂いというのはつくづく不思議だと思う。
いつのまにか慣れちゃって、わからなくなる。
香水がいい例でしょ。
つけている本人は、感覚が麻痺しちゃうもの。
匂いって、他人の方が敏感なのね。
だからイヌの私より、部外者のニンゲンさんの方が鼻についたのかもしれない。
ポップコーンの香ばしい匂いに紛れて、かすかに漂う魔法の歪な匂いに。
匂いといえば、私の面倒をみてくれてたニンゲンは、とても良い匂いがしたの。
かがみこんで私をなでてくれる時、肩のあたりからいい香りがして、私が鼻をすり寄せると、くすぐったそうに笑った。
私はほめられるのが好きだったの。
「よしよし」と頭をなでられるのが好きだった。
だから私は頑張ったんだ。
「いい子いい子」と言われたくて、とても頑張ったの。
「ご飯ですよ」という時の匂い。
「えらいえらい」という時の匂い。
「待っててね」という時の匂い。
もう一度かぎたいの。
もう一度会いたいの。
だからこの映画館で。
迎えに来てくれるのを待っているの。
♢ ♢ ♢
「魔法使いは」
ニンゲンさんが叫ぶ。
「魔法使いはどこにいるだ」
シアターの中でかがみ込んでいたニンゲンさんは、突然起きあがり走り出した。
二階の通路を走り回るニンゲンさん。
そのあとを、私たちが追う。
「早織姉ちゃん、早く出てこい」
ニンゲンさんが、シアターの扉を荒々しく開けていく。
一つ一つ中をのぞき込んで、魔法使いが隠れていないか確認している。
まるで、かくれんぼの鬼だ。
「ちくしょう」
サルが舌打ちする。
「映画館の中ではお静かに、だろ? あいつそんなルールも知らないのか」
ニンゲンさんが扉を一つ一つ開くたびに、魔法の規律が一つ一つ壊れていく気がする。
どうしてニンゲンは、開けちゃいけない扉を開けるのだろう。
私たちはニンゲンさんを追う。
けれど追いつかない。
彼を止められない。
ニンゲンさんが一階に下りていく。
もう動かないエスカレータを駆け下りて。
その後を私たちが続く。
エスカレータに足音が響き渡る。
私は走った。
全速力で、ニンゲンさんの後を追った。
なんで追いつかないの。
夢中で叫んでいた。
どうして、イヌはキャンキャン叫ぶ事しかできないんだろう。
あの時も、私は叫んでいるだけだった。
ウサギのお兄ちゃんが、私たちの前から姿を消したあの時。
魔法使いの居場所が、見つかってしまうのは時間の問題だった。
エスカレータの下に、隠れるようにしてある扉。
開けると広がるエレベータホール。
その奥の、四角い部屋。
閉ざされた昇降機——止まったままのエレベータ。
それこそが魔法使いの部屋の正体だ。
「なんなんだ、この匂いは」
魔法使いの部屋の前で、ニンゲンさんがつぶやく。
ホールにはみんなが集まっていた。
ウサギくんに、サル、バクちゃんさえも。
魔法の匂いに酔ったのか、少しフラフラする。
この場所の匂いに耐えられないから、私はここには近寄らないようにしていた。
しっかりと、ホールの入り口の扉を閉ざしていた。
私だけじゃない。
サルも、バクちゃんも、魔法使いの部屋には近づかなかった。
ウサギくんだけが、毎朝扉の前に立って、声をかけ続けていた。
返事なんてあるわけないのに。
ううん。もしかしたら、ウサギくんの耳には、聞こえていたのかもしれないね。
魔法使いの声が。
その時だった。
「やめて」
小さな声がした。
みんながぎょっとして振り返る。
バクちゃんだ。
バクちゃんが、しゃべった。
「やめて。何も、見たくない」
小さな手で、目を押さえている。
かすかに、体が震えている。
夢と映画しか見ることの出来ないこんな小さな子に、ニンゲンさんは、何を見せつけるの。
「そうですよ」
ウサギくんが、バクちゃんをかばうように立った。
臆病なクセに、精一杯お兄さんぶってる。
「ぼくは何も聞きたくないです」
サルも言う。
「オレも何も触りたくない」
「私だってそうよ」
私も、震える声で言った。
ああ。早く、ここを立ち去りたい。
「現実の匂いなんて、ごめんだわ」
「でも」
ニンゲンさんが思い詰めた声で言う。
「それでも俺は、ここを開けるぞ」
「やめてよ」
私は吠えた。
「どうして。どうしてニンゲンは開けちゃいけないものを開けるの。どうしてそのままにしておかないの」
「それはさ、早織姉ちゃんの口グセなんだ」
ニンゲンさんが低い声で言った。
その言葉に体がすくんだ。
まるで首につながった鎖を、後ろから引っ張られたみたいだった。
ニンゲンさんは、取っ手のない扉に手をかけた。
やめて。
魔法をとかないで。
ニンゲンさんが、ぐっと力をこめる。
匂いがあふれ出す。
魔法使いの部屋の扉が開いた。
中には、魔法使いが横たわっていた。
男の子を抱きかかえて。
魔法使いに優しく抱かれているのは——人形のようにだらりと動かないあの子は——。
ウサギのお兄ちゃんだ。
魔法使いの手には、魔法の杖のかわりのように、カッターナイフが握られていた。
「早織姉ちゃん」
ニンゲンさんがかすれた声をだす。
呼びかける声に、魔法使いは答えない。
エレベータの中から、むせ返る匂いがあふれてくる。
「早織姉ちゃん」
これがあの匂いの正体。
ポップコーンの香りに紛れて、この映画館に漂っていた匂い。
かつて生き物だったものが、動かない別のものに変わってしまった事を知らせる匂い。
死んでしまった匂い。腐ってしまった匂い。
私たちは、吐き気を堪えられず、その場でえずく。
「早織姉ちゃん」
魔法使いは、返事をしなかった。
エレベータの床には、黒ずんだシミが広がっていた。
♢ ♢ ♢
私たちは、黙ったまま、ロビーに移動した。
誰も何も言わず、しばらく、そのまま座り込んでいた。
「魔法が使えたら」
ウサギくんが口火を切った。
彼は耳をふさいでいる。
「魔法が使えたら月に行きます。月ウサギと握手して語り合うんです」
「魔法なんて、使えるわけないだろ」
ニンゲンさんが首を振る。
「オレは魔法が使えたら、ニンゲンを滅ぼして、自由に暮らす」
サルは腕組みをしている。
懐に手を隠して。
「魔法なんて、あるわけないだろ」
ニンゲンさんは認めない。
「私はね」
どんなに打ち消されても、それでも私たちは、魔法を使いたがるの。
鼻を手で覆い、私は言う。
さっきの匂いが気になるわけじゃない。
ただ鼻の奥がツンとして、しゃべれなくなりそうだっただけだ。
「魔法が使えたら、会いたい人がいるの」
迎えに来て。
待っているから。
優しくて
いい匂いのする
おかあさん——。
「魔法が使えたら」
ニンゲンさんが、立ち上がった。
「俺は、そうだなあ。早織姉ちゃんの酒グセを直す。早織姉ちゃん、酔っぱらうとひどくてさ」
みんながニンゲンさんを見上げる。
「俺の部屋のドアの前で、仕事のグチとか、映画の感想とか、ずっとダラダラしゃべってんだよ。本当に迷惑でさ。しゃべりながら、おでこを扉に打ち付けるクセがあって、次の日には忘れてるもんだから、『たんこぶ出来てるんだけど、なんでだと思う?』なんて聞いてくるだ。本当に、馬鹿なんだよ。早織姉ちゃんって」
ニンゲンさんが目をつぶった。そして、開く。
「だけど」
呪文が始まる。
「だけど、魔法は使えない」
これは魔法をとく呪文だ。
「だから世界は変えられない。だから世界を元には戻せない」
目を閉じ、耳をふさぎ、口をつぐみ、手をひっこめ、鼻を押さえて、私たちは魔法を使おうとした。
だけどニンゲンさんの言葉が、防ぎようもなく私たちにふりかかる。
「だからさ、一ヶ月前に始まった戦争をなかったことには出来ないんだ」
世界は戻せない。
平凡な日常には戻れない。
「わかるだろ」
魔法がとけてしまう。
「だってお前らも、人間なんだから」
私は映画館が好きだった。
日曜日になると、お母さんが連れてきてくれたから。
手をつないでくれた。
ポップコーンを買ってくれた。
次に観たい映画を言い合った。
「お前ら、その動物ごっこ、いつまで続けるんだ」
ああ。魔法が、とけてしまった。