7.ニンゲン
「おおい、おおい」
ウサギが、スクリーンに向かって手を振っている。何をやっているんだろう。
「おおい、月ウサギ」
ウサギの目線の先を見ると、彼の影がいた。
映写機の光をさえぎっているせいで、スクリーンにウサギの影が映っているのだ。
影の背後には、月面の景色が投影されている。
ああ、なるほど。
確かに、月のウサギみたいだ。
「月の暮らしはどうですか?」
「そちらから、ぼくらの事は見えましたか?」
「ぼくらはとても馬鹿でしょう?」
ウサギは、影のウサギに話しかける。
俺はシアターの一番後ろに座っていた。
上を見上げると後ろの壁には小窓があり、映写機から光が差し込んでいる。
中にはバクがいる。
コクピットからこちらを眺めているように見えなくもない。
まったく、いつまでこのごっこ遊びに付き合っていればいいんだろう。
この映画館では魔法が使えるらしいけど、月ウサギと握手すらできないじゃないか。
——映画館には、魔法の世界への扉があるの。
早織姉ちゃんの言葉を、また思い出す。
——樹は、魔法が使えたら何したい?
——大人だって魔法を使えるわよ。
——大人の方が、うまく使えるかもしれない。
この映画館の魔法には、もううんざりだ。
俺は、早織姉ちゃんみたいに、映画を観にわざわざ映画館に足を運ぶ事なんてめったになかった。
テレビのロードショーか、映画配信のサブスクぐらいでしか観ない。
虚構の世界を楽しみたいなら、十分それで物足りるのに、どうして早織姉ちゃんはわざわざ映画館に行ったのだろう。
——映画館では魔法が使えるのよぉ。
「早織姉ちゃん、頼むから勉強の邪魔しないでくれよ」
——高校受かったのに、なんでまだ勉強すんのぉ。
「魔法を信じてるような、ダメな大人にならないようにだよ」
——樹はぁ、頭がいいから、魔法にかからないかもね。
「はいはい。そうだね」
——気を付けてね。
「うん?」
——映画館の外には、悪い魔法使いがいっぱいだから。
そうだ。
意識が、回想から引き戻される。
彼らのいうところの『魔法使い』は、どこにいるんだろう。
動物に魔法をかけたその当人はどこにいる?
まさかこの映画館の中に?
背筋がぞわりとした。
月に手を振るウサギ。
神経のささくれたサル。
迎えを待ち続けるイヌ。
一言もしゃべらないバク。
彼らにかかった魔法は、本当な呪いなんじゃないだろうか。
この映画館にひっそりとまとわりつく、あの妙な匂いを思い出した。
あれこそが呪いの正体かもしれない。
気持ちだけがはやる。
「戻ってくれ」
気がつくと、声に出ていた。
「戻ってくれ。頼む。いつもの平凡な日常に、戻ってくれ。戻れ、戻れ、戻れ、戻れ……」
呪文のように繰り返した。
何も元に戻らないのはわかっていたけれど。
酸素がたりない。
息を吸えない。
どうしてだろう。
ああ、そうだ。
ここは月だからだ。
じゃあどうして今まで呼吸が出来たんだ。
魔法のおかげだ。
魔法がとけてしまえば、生きる事も出来ない。
俺は、月旅行前にウサギに尋ねた。
「どうして映画館の外に出ないのか?」と。
「魔法使いが、出るなと言ったんです」
オドオドとウサギは答えた。
「外には、悪い魔法使いがいるからって」
それは、早織姉ちゃんが、よく言っていた言葉だ。
——樹、映画館の外にいるのは、たちの悪い魔法使いなの。
「はいはい。なんでだよ」
——それはねぇ、とんがり帽子をかぶってないからよぉ。
「は?」
——帽子もローブも、杖もないのよぉ。危険だね。
「ああ……まあ確かに映画に出てくる魔法使いって、そういう衣装を着てるけど。つけてないと邪道って事?」
——気を付けて、樹。
「だから何に」
——魔法使いの格好をしていない魔法使いに。
俺はしゃがみ込んでいた。
動物たちが集まってくる。
心配そうな顔で、周りを取り囲む。
広い宇宙の中で、俺は四匹の動物に囲まれていた。
狭いシアターの中で、俺はみんなの顔を見上げる。
分厚い扉を閉めてしまえば、耳障りな音はもうしない。
スクリーンを見つめていれば、目障りなものを見ずにすむ。
ポップコーンをほおばれば、苦い思いを飲み込める。
ここに隠れてさえいれば、不幸に嗅ぎつけられることもない。
触れるようで触れない、目の前にあるのは遠くの世界の出来事。
映画館は、シェルターだ。
俺もここに住みたい。
そうしたらどんなに楽しいだろう。
閉じこもっていれば、どんなに楽だろう。
♢ ♢ ♢
「ちょっと、部屋に入ってくるなよ」
——人間はぁ、開けちゃいけない扉や箱を開けちゃうのよぉ。
「早織姉ちゃん、酔っぱらってる?」
——お仕事帰りですものー。今はまだ副担任だけどね、そのうち一クラス受け持てるのよ。
「じゃあがんばって真面目に仕事しなよ」
——してますよー。
「早く家帰りなって。……早織姉ちゃん、なんで小学校の先生になりたかったの」
——自分のクラスの子にねー、ちゃんと正しい事を教えるんだー。
「早織姉ちゃんがぁ?」
——正しい事ってなんだと思うー。
「はいはい。なんだろうね」
——みんな魔法にかかってるから、正しい事なんて誰もわからないの。
「……ねえ、学校でなんかあったの?」
——ウサギ。
「は?」
——ウサギがね、死んじゃったの。みんなで可愛がっていたのに。
「ふーん。それは残念だったね。病気?」
——病気……なのかなあ。
「わかんないの?」
——わからないよ。病気でウサギを殺す?
「うん?」
——ウサギがね。殺されたんだって。六年生の子が犯人だって。カッターでウサギを斬りたくなる病気ってあるの?
「……あるかもね」
——「違う、自分じゃない」って、その子は言ってるのよ? なのに完全に犯人扱い。でもさ、弁解の機会すら与えて貰えないらしいの。公にしづらいから。管理責任を問われるんだって。
「先生達もその子が犯人だって、そう思ってるの?」
——ほとんどがね。地に足のついた教育が出来ていたなら、そんな事件は起こらないって。
「言われたの?」
——地に足つけた教育って何よ。ゴキブリだってゲジゲジだって、地面に足をつけてるわ。
「たとえが気持ち悪いよ」
——ゴキブリのような教育をしろってか。それが正しい教育だってか。
「早織姉ちゃん、ここで騒ぐなよ」
——知っている子だったのよ。うちの学年の子のお兄さんでさぁ。
「そっか」
——あたしに何が出来るんだろう。
俺に何が出来るんだろう。
何も出来ない。
「元の世界に戻りたい」
世界よ、元に戻れ。
もういやだ。
見たくないし、聞きたくないし、嗅ぎたくないし、触りたくない。
辛い思いなんて味わいたくない。
俺も魔法にかかりたい。
怖いんだ。
——早織姉ちゃんは怖いんですよぉ。
「なにがだよ」
——悪い魔法使いがですよぉ。
「そーですねー。怖いですねー」
——あとね。
「はい、はい。ゴキブリも二日酔いも怖いですねー」
——自分がね、悪い魔法使いになっちゃうの。
「うん?」
——気づかないうちに、自分が悪い魔法使いになっちゃうの。
「早織姉ちゃんが、魔法使いに?」
——うん。それが怖い。
「早織姉ちゃん、酔っぱらいすぎだって」
♢ ♢ ♢
俺には、魔法の力なんてない。
だからこれは、勘だ。
早織姉ちゃんはこの映画館にいる。
魔法使いもこの映画館にいる。
そして。
早織姉ちゃんこそが、その魔法使いだ。
——樹は、頭がいいから、魔法にはかからないかもね。
そうだね。
早織姉ちゃんがそう言うならそうかもしれない。
俺は頭がいいから、机ばかり向いていた。
俺は頭がいいから、勉強の片手間にしか、早織姉ちゃんと話をしなかった。
俺は頭がいいから、自分からドアを開けてあげなかった。
頭がいい俺は、本当に馬鹿だった。
この映画館の魔法は、俺がとく。
早織姉ちゃんと全面対決だ。
だけど、俺は心のどこかでわかっていた。
もう二度と、早織姉ちゃんに会えないと。