6.サル
「ぼく、月ウサギを探してきます」
月に着いたとたん、ウサギはそう宣言し、岩の間を歩いていってしまった。
「自由行動ってことか」
そう言った新入りのニンゲンも、ふいっと立ち去る。
後ろを振り返ると、バクはコクピットで昼寝をしている。
オレはどうしようかな。
見回すと、イヌが軽石に腰掛けて、スクリーンを眺めていた。
——ヒューストン、聞こえるか。
——聞こえるぞ。イーグルはいま着陸した。
ニンゲンたちは着陸を喜んでいる。
やつらの会話から、オレたちがいるのは、月面上の『静かの海』という場所だということがわかった。
「オレはニンゲンが嫌いだ」
前方の輝きを見つめながら、オレは言った。
「ニンゲンは、月に行っちゃダメだったんだ」
月に手を伸ばすと溺れ死ぬ。
「ニンゲンが月に行かなければ、月にウサギがいたままだったし、かぐや姫がいたままだった。餅つき大会だってやってたかもしれない」
ウサギは、月ウサギには会えないだろう。
「ニンゲンが月に着陸したせいで、全部夢が壊れたんだぞ。魔法の世界がなくなったんだ。月は、ただの岩だらけの星に成り下がった」
どうしてニンゲンは、知らなくていいものを知ろうとするんだ。
「どうして、手を伸ばして、月を取ろうとしちゃったんだ」
「それはね、戦争のせいなのよ」
イヌが、ぽつりと答えた。
なんだか元気がなかった。
「昔、大きな国が二つありました」
昔話を読み聞かせてるみたいな口調で、イヌは話し始めた。
「どちらとも、力を持っていました。魔法のような力です。あまりにも強い力だったので、ある時、どちらからともなく、こう思ってしまいました。この力で相手をやっつけられるのではないか? と。そしてこうも思いました。自分たちと同じ事を相手も思ったのではないか? と。今すぐにでも、相手を潰さなくては、自分たちがやられる、と思いました。しかし、表面上は仲良くしていたので、なかなか、お互い手を出せませんでした」
イヌの声は、広い宇宙に吸い込まれていく。
だってここは、『静かの海』だから。
「そこで、自分たちの力がいかに優れているかを、相手に見せつけることにしました。魔法のような力が、いかにすごいかを証明するために、二つの国は、こう決めたのです。相手より先に、宇宙に行ってやろう、と」
スクリーンでは、青い星が輝いている。
月から見たあの星は、こんなにきれいなんだ。
「そしてね、片方の国でようやく、宇宙に飛び出せる技術が生まれたの。実験に使ったのが、一匹のイヌ。彼女はロケットに乗せられたの」
「イヌは、信用されてるんだものな」
オレの声は少しだけかすれていた。それが恥ずかしかった。
「でも——」
イヌは、下を向いてしまった。
「帰りの」
声がくぐもる。
「帰りの分の燃料、乗せてもらえなかったの」
聞きづらい声がそう言った。
「帰りの燃料がない? じゃあ、迎えのロケットが別に来たのか?」
「そんなわけないじゃない」
イヌが、はっ、と息を吐きながら言った。
「迎えになんて来るわけない。実験動物なんだから」
じゃあ、つまり。
「とても賢くニンゲンに信頼されていた雌イヌは、宇宙の中で安楽死させられたの」
帰りの燃料がもったいないから?
「お迎えは、来ないの」
頭が良くて、いい子にしていても、迎えは来ない。
イヌの声が震えている気がする。
「あのね」
イヌはこちらを向かないで言葉を続ける。
「もう片方の国もね、遅れをとりつつも、実験動物を宇宙に飛ばす事に成功したんだよ」
直接は戦わないで、相手を攻撃する、魔法のような冷たい戦争。
「何の動物を使ったと思う?」
予想がつく。
「チンパンジー」
ほら、当たった。
「だから、サルとイヌは敵同士なの。昔から敵国の実験動物だったから。そのせいで私たち、仲が悪いのかな」
オレは、イヌを見ているとイライラする。
イヌと話していると、ムカムカする。
なんだか小突きたくなる。
でも、今回はそれを我慢した。
気がつくと、イヌの頭に手を乗せていた。
「ニンゲンが決めた事は、関係ない」
なんで月に来てまで、イヌの頭なんか、なでてやらないといけないんだ。
向こうで、ウサギが「おおい、おおい」と手を振っている。
スクリーンにウサギの影が映っていて、影も「おおい、おおい」と手を振り返す。
「きっと、あれが月ウサギなんじゃないかな」
イヌは、ウサギの影をさしてつぶやいた。
月に映った影をニンゲンはウサギに見立てた。
あの影ウサギが、臆病ウサギの求めていたものなのか。
焦がれていた心の支えなのか。
月世界で、二匹のウサギがお互いを呼び合い、手を振っている。
なんでウサギが月ウサギに会いに来たかったのか、オレたちは知らない。
でも、なんとなく思う。あいつ本当は、兄ちゃんと一緒に来たかったんだろうな。
ウサギの兄ちゃんは、少し前まで、おれたちとこの映画館で暮らしていた。
ウサギはとても臆病な奴だけど、あいつの兄ちゃんも、臆病ウサギだった。
しかも、自分が臆病な事を隠そうとするタイプの臆病ウサギだった。
そんな兄ちゃんを、あいつは怖いから嫌いだと言っていた。
でも、兄ちゃんいなくなってからも、ウサギはなにかにつけて、彼の話ばかりする。
臆病ウサギは手をつなげる仲間が欲しいんだ。
でもな、ウサギ。
影に触ることはできないんだぞ。
映画館では、魔法が使える。
ウサギは月ウサギに会いに、バクは月の夢をみに、イヌは祖先に思いをはせに、ニンゲンは力を示しに、宇宙に飛び立つことが出来る。
——水面に映る月を取ろうとして、溺れ死んだサル。
オレは、映っているだけの偽者の月に手を伸ばしたりしない。
オレはニンゲンじゃない。
月には触れない。
だけど、こいつには触れる。
オレは、もう一度、イヌの頭をポンと軽く触れた。
イヌの頭ぐらい、いくらでもなでてやるさ。