1.ウサギ
魔法使いは言いました。
「ニンゲンが現れた時、君達にかかっている魔法は解かれる——そのニンゲンに、導いてもらうのよ。君達の幸福のために」
そして、彼女は扉を閉ざしました。
魔法使いは深い眠りについたのです。
♢ ♢ ♢
この映画館では魔法が使えます。
耳をすましてロビーを歩くと、足元でミシミシと小さな音がしました。
よく見ると、床に敷かれたじゅうたんには、粉々のガラスの破片が散らばっています。
辺りを見回すと、『近日公開』と書かれたポスターのケースに、たくさんのひび割れが入っていました。
「気をつけるように伝えなくちゃ」
ぼくは小さくつぶやきました。
誰かが怪我をしてしまっては大変です。
こうやってぼくは毎朝、点検のためにこの映画館を歩き回っているのです。
映画館の警備がぼくの役目だからです。
ぼくは、ウサギです。
この映画館に住み着いています。
もちろん、たった一匹で、こんなボロボロの映画館に住んでいるわけではありません。
ぼくの他にも、三匹の動物が住んでいます。
この時間だと、他のみんなはまだ、二階のシアターの中で眠っています。
ぼくが一番に早起きをして、眠りについていた映画館を起こして回るのです。
この朝の時間が、ぼくは少し好きです。
ぼくがあちこちの電気をつけてまわっている間に、サルくんが食事の支度をするために起き出します。
それから、イヌさんとバクちゃんを起こしたら、みんなでロビーのテーブルで朝食をとります。
あとは、二階のシアターで映画を観たり、昼寝をしたり、ポップコーンをつまんだり。
そんな風に楽しく毎日を過ごしています。
ぼくらは、魔法にかかっています。
動物なのに、言葉を話すことが出来るのです。
だから、仲良く暮らす事ができます。
それは全て魔法使いのおかげです。
ぼくが今いる一階の中央には、エスカレータという階段があります。
これを上れば、シアターがある二階に行くことが出来ます。
二階には、五つのシアターがあります。
エスカレータを上がった正面には、『1』と書かれたシアターがあり、その中ではイヌさんが眠っています。
左手のシアターの番号は『2』で、サルくんがいます。
エスカレータの降り口をぐるっと回り込むと、『3』のシアターがあり、中ではバクちゃんが夢をみています。
その先にあるのがぼくのシアターで『4』と書かれています。
その先には『5』のシアターがありますが、今、ここは空室です。
こんな風に、ぼくらはニンゲンで言うところの『マンション』とか『アパート』みたいに、シアターを住み分けて暮らしています。
エスカレータという階段は、ニンゲンが生きていた頃は、自動で動いたそうです。
階段だけではありません。
ロビーの端にある入り口の扉も、昔は入ろうとするだけで、魔法のように勝手に開いたそうです。
入り口のすぐ近くにあるチケット売り場や、その先のポップコーン売り場には、色鮮やかな光が昼でも夜でも輝いていたそうです。
それが今では、入り口の扉は粉々に砕け、カウンターの電球は、ジジッという死にかけの音をたてています。
この映画館はボロボロです。
それは、ニンゲンが滅びたからです。
ニンゲンが滅びてから、この映画館はしばらく使われないままでした。
でも、そのうち、五匹の動物と、一人の魔法使いが住み着いたのです。
それが、ぼくらなのです。
魔法使いは、ぼくらに魔法をかけました。
言葉を自在に使える魔法です。
だからこうして、ぼくは言葉を話せるのです。
♢ ♢ ♢
ロビーの一角に、ぼくらが『魔法使いの部屋』と呼んでいる部屋があります。
魔法使いは、ここにとじこもったまま、出て来ません。
ぼくは入った事がないけれど、きっと、中には、実験器具とか、呪文の本とかが、ぎっしりと詰まっているのだと思います。
「おはようございます」
ぼくは魔法使いの部屋の扉の前に立って、声をかけました。
箱のような部屋からは、何も聞こえてきません。
「なにか、困った事はありませんか」
——別に平気だよ。
今度は、そう、声がした気がしました。
耳に優しい、不思議な声。
魔法使いは、この部屋に閉じこもって、この映画館を守っているのです。
もしも、ぼくらにかかった魔法がとけてしまいそうになったら、さっそうと現れて、素敵な声で、呪文を唱えてくれるにちがいありません。
——私の事より、君は大丈夫? 目が真っ赤だよ。
魔法使いの声は、ぼくをからかっているように、耳をくすぐっていきます。
「ぼくはウサギですから、もとから目は赤いです」
——君は少し臆病だからね。
部屋から、そう聞こえた気がしました。
そう。
ぼくはとても臆病でした。
いつも耳をすまして辺りをうかがい、ビクビク、オドオドしていました。
ぼくの味方になってくれるウサギは二匹だけでした。
一匹はお兄ちゃん。
もう一匹は、月にいるウサギです。
お兄ちゃんがぼくの事を守ってくれたのは、遠い昔のことです。
ぼくは、最近のお兄ちゃんの事が嫌いでした。
怖いからです。
昔は優しかったけれど、大きくなって、友達が出来てからは、ぼくに対して冷たくなりました。
友達と一緒になって、ぼくをいじめる事もありました。
どうして、弱い物いじめなんかするんだろう。
いじめられている自分がすごく惨めでした。
でもそれ以上に、ぼくをいじめてくるお兄ちゃんに、なんだかぼくはとてもがっかりしてしまったのです。
結局お兄ちゃんは、仲間に馬鹿にされたくなくて、強いふりを一生懸命していたのだと思います。
お兄ちゃんも、ぼくと同じ、臆病ウサギなのです。
そう思ったら、馬鹿馬鹿しくなってしまいました。
そんな時、ぼくは月ばかり見上げていました。
月にいるウサギが、ぼくの話し相手でした。
もし、ぼくに魔法が使えたら、月に行って、ウサギに聞こうと思っていました。
「そちらの暮らしはどうですか?」
「そちらから、ぼくらの事は見えますか?」
「ぼくらはとても馬鹿でしょう?」
だけど、この映画館で暮らすようになってからは、月を見上げることはなくなりました。
理由は三つあります。
一つは、もうお兄ちゃんがいないからです。
お兄ちゃんの、ころころ変わる機嫌に振り回されなくなりました。
それから、ぼくに味方ができたのです。
この映画館で暮らすみんなは、気を許せる仲間なのです。
おかげで、月ウサギに話しかける必要はなくなったのです。
それから最後にもう一つ。
魔法使いが、ぼくらにこう忠告したのです。
——外には、悪い魔法使いがたくさんいるんだよ。とても危険だから、外には出てはいけないよ。