鳥籠エクソダス
この街にも、かつては空というものがあったらしい。
住居エリアの上層に広がる無機的な天井を見上げながら、アトリはぼんやり、そんなことを考えた。今、アトリ達の暮らしている街には、空は存在していない。その上空を覆っているのは、街を守ってくれているはずの、強固な白皙のシェルターだった。
地下世界の傘となっている巨大な防護シェルターは、建造されてからすでに数十年の月日を経たのだという。
――地上は危険に満ちている。
それが街の施政者達の常套句だった。
――外の世界では今もなお、油断ならない豪雨が降り続いている。だから我々は鉄壁の傘の下、この地下世界で団結するのだ。
バカみたいだ、とアトリは思う。彼はまだ表情にあどけない影を残す、大人になり始めたばかりの少年だった。何もかもが鬱陶しく思える年頃であり、願望と現実の間の落差に打ちのめされる年頃でもあった。柔和な印象を与える顔をちょっとだけ顰め、短く刈り込まれた黒髪のうなじを、指先でかく。
「どうしたの、アトリ?」
不意に顔を覗き込まれ、アトリは我に返る。見慣れた顔がすぐそこにあった。
友人のリーナだった。細い眉とスミレ色の瞳。肩口で切り揃えられた琥珀色の髪の毛は、耳の上でヘアピンで留められ、吹く風にかすかに揺れている。地下世界の擬似太陽に照らされたリーナは、どこまでも健康的で美しかった。
「……何でもないよ」
アトリは呟く。この街の住民はシェルターから外に出ることを禁止されている。もし、その企てが露見しただけでも、軽くはない刑罰を課される決まりになっていた。
「……空が見たいの?」
唐突に言われて、アトリは咽てしまう。心を見透かされたような気がした。リーナは舗道脇のブロックに腰掛け、脚をぶらぶらとさせている。
「ど、どうして?」
「だって、ずっとシェルターの天井を見上げてるから」
くすりと笑い、リーナは歌うように言葉を続ける。
「その名前。アトリって、ずっと昔にいた鳥の名前なんだって。お母さんが教えてくれた。鳥は空を飛ぶものよ。私達の世界にはいないけれど。私、ネットの図鑑で見たことがある。羽根があって、羽毛に包まれてるの。で、空を飛ぶの。アトリはそのこと知ってた? 自分の名前が鳥から付けられたって」
アトリは首を振る。自分の名前がどうのなんて、考えてみたこともなかった。今は亡き母親は、自分が産まれた当初、何を考えてこんな名前を付けたのだろう。鳥はこの地下世界には存在していない。空さえないこんな場所で、飛翔する生物の名を付けるなんて、タチが悪い冗談のようにアトリには思えた。
「そんなの、関係ないさ。自分の名前になにが込められているかなんて。親も名前も、自分では選べないだろ? 別に、空が見たかったわけじゃない」
「そう。ごめんね」
リーナは屈託のない笑顔を見せる。アトリはなぜか無性に恥ずかしくなり、再びそっぽを向いた。話題が変わり、空と名前に係る話はそれで終わった。だが、そのときの会話は、アトリの心に強い印象を残した。
――外を見に行かないか?
ヒカルにそう誘われたのは、学校帰りのバスの後部座席で、アトリが強い眠気に耐えている時のことだ。
乗り合いバスの車窓越しに、第3区画の退屈な街並みが流れている。見事なまでに統一された、灰一色のビルの群れだ。林立するコンクリートのお化け達。眺めているだけで上質な睡眠薬の代わりになる。
車窓からぼんやりと顔を背け、アトリは隣の座席のヒカルを見る。ヒカルは意味深な笑みを見せながら、唇からすきっ歯を覗かせた。浅黒い肌に歯が白い。
「……外?」
土曜日の昼下がりで、バスの車内にはアトリとヒカル以外の乗客は誰もいなかった。もっとも、アトリ達が暮らしているエリアはこの第3区画の東端にあり、わざわざそこからバスで遠距離通学をしようという奇特な高校生は、彼ら以外にはいなかったのだけど。
「外って、今もう外にいるじゃないか。それとも、そういう意味じゃない?」
「じゃなくて、ここの外側にある世界」
笑って、アトリはかぶりを振った。ヒカルが冗談を言っていると思ったのだ。
「シェルターの外側ってこと? それって第1級禁止事項に抵触するだろ。第一、どうやって?」
「アトリは興味ないか? 俺らの曾々爺さん達が暮らしていた世界ってものに」
口元を勝気そうに歪め、ヒカルはアトリの肩を叩いた。時折、ヒカルはこうした表情をすることがある。何かアイディアを隠し持っている時の顔、悪巧みをする時の顔だ。
「おまえ、知らないか? 最近ネットで流れている噂のこと」
「……噂?」
思わず、アトリは声を潜める。全オートメーション化された私営のバスとは違って、ここは運転手がいる公共のバスの中だ。
「ほら。第5区画で大規模な工場爆破事故があったってニュースでやってたろ? あれで、そこの上空のシェルターに、でかい亀裂が入ったんだってさ」
「それ、本当?」
「らしいぜ。なんでも、長さ10mはある巨大なヒビ割れだそうだ。ひどい爆発事故だったんだな。亀裂が入ったことに関しては、政府が揉み消してニュースで流れなくなったらしい」
「バカバカしい」
アトリは肩を竦め、呆れの吐息をつく。
「核でも防ぐような極厚のシェルターだぜ? どっかの工場が爆発しただけで亀裂が入るわけないだろ」
殊更、バカにした声を張る。それで会話を打ち切る気だった。シェルター脱走は第1級禁止事項にあたり、口にしただけでも周囲の大人達から目を付けられる。運転手の目があるバスの車中で、確証もない与太話には係りたくなかった。
「待てって。ほら、これ見てみろよ」
ヒカルが食い下がった。制服のポケットから折り畳まれた紙を取り出して、アトリの目の前で広げ始める。
A5サイズの用紙の中央に、プリントされた画像がある。不鮮明な画像。どこかを写した写真なのだと判る。
紫色にかすんだ画面の右端に、刃物で抉ったような裂け目が走っている。これが第5区画のシェルターの映像なのだろうか。しかし、これだけではどう贔屓目に見ても、判断する材料が足りないと思えた。
顔を上げると、すぐ目の前にヒカルの勝ち誇った顔があった。
「それが証拠。どうだ、見事に裂けているだろう? これからきっと、亀裂を修繕する業者がそこまで届く足場を組んでくれるはずだ。いや、多分もう組み上がっているだろうな。夜、警備の目をかいくぐって亀裂まで辿り着ければ、そこはもう外の世界ってわけ」
アトリは絶句する。勝気な性格のヒカルは、幼ない頃から時々、ろくでもない悪戯を考えては周囲を驚かす悪癖があった。
「これだけじゃ、判らないよ」アトリは首を振る。
「だから確かめに行くんだろ。おまえ、外の世界を見てみたくないか? この街の外側がどんな風なのか、見てみたいって思わないか?」
「……考えさせて」
かろうじて、そう答えるのが精一杯だった。アトリとヒカルは幼い頃からよく行動を共にしていたが、引っ張っていく役はいつもヒカルが受け持ち、アトリは彼に付き添うことが多かった。ヒカルのことは嫌いではないが、強引な性格には手を焼かされる。それに、シェルター脱走が見つかれば、二人共、重い罰を受けることになってしまう。
「なるだけ返事は早い方がいい。できれば今夜中がいいな。亀裂を埋めるのに何日かかるのか判らないけど、ほら、第5区画って遠いだろ? メールくれよ。駄目なら俺、一人で行ってくるから」
アトリは呆れた。「一人って……。わざわざ一人で行くことないだろ。僕が駄目なら、他の奴を誘えばいいじゃないか」
「判ってないな。俺は、おまえだからこの話をしたんだぜ? もし他の奴だったら、画像すら見せていないさ。……ま、考えてみてくれ。このチャンスを逃したら、もう外を見る機会なんてないかもしれないぜ?」
バスが音もなく停車して、停留所の名前を告げて乗降ドアが口を開ける。ヒカルは座席を立ち上がり、認識票をバスの端末に翳して清算を済ませ、それから余裕たっぷりにアトリを振り返った。
「じゃあな。気が向いたらメールしてくれ」
ヒカルが降車してバスが走り出した。アトリが降りる停留所はまだひとつ先だった。
擬似太陽が、西の地平に沈もうとしている。ホログラムで造られた巨大な茜色の幻像だった。
乗り合いバスを降車したアトリは、自宅に歩いて向かう途中、ポケットに入れていた携帯用コンピューター端末を操作し、空中にホロウインドウを幾つか呼び出した。
そのうち一つをネット上の音楽庫に接続し、BGMとして流行りの歌がランダムで流れるように設定する。眼前に浮いたホロウインドウで大手の地図作成サイトにアクセスし、この街の地図を呼び出した。ヒカルが言っていた第5区画の工場付近の地図は、特に詳細なものを求めた。この第3区画から第5区画までの距離は、大体80キロメートルといったところだろう。
地下世界の面積は、およそ二十万平方キロメートルだと言われている。少なくとも、公にされている数字ではそうなっている。それが第1から第7までの区画に分けられ、中央で指揮をとる行政の下、区画ごとに幾許かの自治権が与えられている。もっとも、外の世界はどうあれ、シェルターの内側は安全と平和そのもので、街の住民は決められた規則を守り、ただ平穏な暮らしを営んでいれば良かったのだけど。
バカみたいだ、とアトリは思う。
何もかもが管理された生活に、少年は息苦しさを憶えていた。毎日、決められた時刻に昇り、決められた時刻に沈んでいく太陽。綿密にカロリー計算された食事。望ましい運動能力を維持するために、負荷をどれくらいかければいいのかさえ押し付けられる。
無軌道というものが存在していない。まるで鳥篭の中みたいだ。
アトリの自宅があるビルの足元には、猫の額ほどの公園があり、申し訳程度だが子供達の好むような遊具も幾つか設置されている。アトリが通りかかると、ふと、砂場から手を振る人影があった。リーナだった。恐らく、弟の世話をしているのだろう。
「アトリ、今帰りなの?」
声をかけられ、アトリは周囲に展開させていたホロウインドウを閉じ、リーナへと向き直った。
「うん、そう。リーナは? 弟と遊んでるわけ?」
「そうよ。母さん、帰りが遅いから」
リーナはアトリと同い年だが、高校には通っていなかった。行政が認可した自宅学習プログラムをネットで履修すれば、通ったのと同じだけの単位は取れる仕組みになっている。
「弟の世話なんて、育児AIにさせればいいのに」
「駄目よ。ちゃんと人に触れさせて育てないと、きっとおかしくなっちゃうもの」
「そうかなぁ……」
ちゃんと人に触れて育った人間でも、おかしい人はきっと一杯いると、アトリは思う。
「立ってないで座ったら?」
リーナに言われて、アトリは公園のベンチに腰掛ける。街のどこからか音楽が流れ始める。遠い昔から、これだけは変わっていないらしい。ドボルザーク。遠き山に日は落ちて。5時だ。
「ああ、もうこんな時間。帰って夕飯の支度をしないと……」
「宅配サービスに頼めばいいだろ、そんなの?」
「自分でやるのが好きなのよ」
アトリが面倒くさそうに呟くと、リーナが嬉しそうに弟の名前を呼んだ。もし、外の世界を見に行こうと誘っても、リーナはきっと一緒には来ないだろう。彼女は自分を取り巻く環境と折り合いを付けて、地に足を付けて生きていくことができる人間だ。反発も言い訳もせず、自分がいる場所を受け入れ、より良くしていこうという努力ができる人間だ。自分とは違う。
「リーナ、もしさ……」
「――ん?」
弟を抱きかかえたリーナとビルの入り口をくぐる。25階立ての高層マンションだ。認識票をビルの端末に翳してオートロックを解除する。セーフティシステムがアトリ達の姿態を照合し、通行可能のサインを出す。
「もしさ、豊かさと自由さ、どちらかを選べって言われたら、君はどっちを選ぶ?」
「……? その二つって、お互いに打ち消しあうものなの? 両立はできない?」
リーナがきょとんと振り返る。アトリは下らない質問をしてしまったとバツの悪い思いをした。
「じゃあ質問を変える。もし、君が大人になって、この街を好きなように変えられる立場に就いたとしたら、どんなふうに変えたいと思う?」
意味のない仮定だろうとアトリも思っていた。リーナはちょっと呆気に取られた顔をしていたが、すぐまた前方を向き、エレベーターの釦に指先をつけた。
「……うーん。就かないと思う。そんな仕事には」
「たとえばの話だよ」
上階で停止していたエレベーターが下降してくる。意味のある答えを期待していたわけではなかった。アトリはただ、心のうちの迷いを振り切る一助になるものを求めていた。リーナの腕の中で、幼い弟がうつらと船を漕ぎだした。
「そんなの判らないわ。ねえアトリ、正しいことや耳当たりのいいことを喋るのは簡単だけど、それを実行に移すのは、とても大変なことでしょう? そりゃ、ここで、みんなが幸せに暮らせるようにしたい、っていえれば格好いいだろうけど、わたしはそういうの好きじゃないのよ」
「……融通がきかないんだ」
「バカ。現実的なのよ」
エレベーターがロビーに到着して扉が開き、アトリ達はなかに乗り込んで停止する階を指定した。音もなく扉が閉まり、エレベーターが上昇する。
「やっぱり、ずっとこの街で暮らしていくしかないのかな」
「だれの話?」
「んん、なんでもない、独り言」
僅かな沈黙の後で静かに扉が開き、リーナがひらひらと手を振りながらフロアに出て行った。誰もいないエレベーターの内側でアトリは背を凭せかけ、眉と唇を曲げて天井を見つめる。
了承のメールを送信してからも、アトリの心にはまだ幾らかの迷いが残っていた。
ヒカルからの返信は遅れている。眼前に浮かび上がるホロウインドウを注視しながら、アトリは自分に言い聞かせる。大丈夫だ。外の世界を見たら、それだけですぐに帰ってくればいい。見つかりさえしなければいいのだ。この街の外側がどうなっているのか、それを確かめてくるだけでいい。
やがて、ホロウインドウのメーラーソフトが安っぽい電子音を鳴らし、メールの受信を知らせた。ヒカルからだ。アトリはメールをクリックし、密に詰まった文面に目を通した。どうでもいいような挨拶と世間話の後に、決行日時とことの詳細が続いている。持って行くものと着ていく服装、当日のルートまでが事細かに指定されている。食事は道中のコンビニエンスストアで調達し、服装はできるだけ目立たないような普段着で。
文面の最後にアトリの意見とアイディアを求める文章が添えられており、ヒカルと記名されていた。異論がない旨をメールで送信する。考えなしな特攻ではなく、綿密に考えられた計画が完成していた。善は急げというわけで、出発は明後日の深夜、2時ということになっている。擬似太陽がまだ昇らないうちに、運転手のいない私営バスに二人で乗り込み、西へと向かうのだ。
学校を無断でサボることになるから、上手い口実を考えておけよ。ヒカルは最後にそう言った。シェルターを脱走してきました、なんて言えないだろ。そんなこと言ったら校長が卒倒しちまう。
ヒカルとの応答を終え、明後日の準備に取り掛かったアトリは、気持ちが妙に高揚していることに気が付いた。思えば、この小旅行は、以前からずっとアトリが望んでいた無軌道そのものであったのだ。自分は鳥篭から出て外の世界を覗くのだ。そしてもし状況が許すなら、外の世界に飛び出して、そのままそこで暮らすのかもしれない。自由な空を、自らの翼で羽ばたくのだ。与えられた食事ではなく、自分の力で生きる糧を得ていくのだ。それは素晴らしいことのように思えた。窮屈なこの街の生活とは、雲泥の差があるように、アトリには思えた。
決行の日。
アトリは気持ちが昂ぶってしまい、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかったのだが、11時を過ぎる頃になって、ようやく少し微睡むことができた。
軽い睡眠をとり、目覚めたのは午前1時30分を少し回った頃だった。深更といってもいい時刻で、辺りは濃度の濃い暗闇に閉ざされている。アトリは足音を抑えてキチネットまで忍んで行き、冷蔵庫から牛乳を取り出して渇いた喉に流し込んだ。洗面台の前まで行き、髪を濡らして寝癖を整える。
持参する予定のバックパックには、大したものは入っていない。小旅行といっても深夜に出発し、シェルターの向こう側の世界を覗くだけで、早ければ朝方には戻ってくるのだ。可能性は低いだろうが、本当にシェルターの外部に脱走した時のことを考えて、着替えと手持ちの金は多めに持って行くつもりだった。だが、この街の通貨が外で使えるのかどうかは、アトリにも判らなかった。
待ち合わせ場所は公園だった。私営バスの停留所のそばにある人気のない公園に、ヒカルはすでに来ており浮かれた笑みを溢していた。
「よう。来たなアトリ、遅いぞ」
「まだ1時45分だよ」
「俺は1時30分から待ってた。待ち切れなかったんだ」
「僕もさ」
バスは時間通りにやってきた。公共のバスとは違って全オートメーション化されている私営のバスは、24時間体制で絶えずこの街を運行している。ここから第5区画までは1時間と少しあれば到着できるだろう。第5区画のバス停で降車し、そこからは徒歩で現場へと向かう。足場を昇って亀裂に辿り着き、外の世界を覗いて何食わぬ顔で降りてくればいい。現場に監視の目が多くなければ、後はどうにでもなるはずだ。乗降ドアが口を開き、アトリ達はバスに乗り込んだ。
第5区画に入って八番目の停留所で降車した。人気のない工場区で、バカでかい建物とドラム缶を上下に引き伸ばした形状のタンク、30メートルはある球形の建造物が整然と居並ぶ光景が、ずっと先まで続いている。ヒカルは携帯型コンピューター端末を操作してホロウインドウを呼び出し、表示させた第5区画の地図をナビゲーションモードに切り替えた。画面に赤と青の光点が点滅し、女性の声が次に進むべき道を告げた。
「まっすぐ行って左。目的地まで4キロだってさ」
「……本当にあるのか?」
疑わしげにアトリが呟く。今、アトリの胸のうちでは、少しずつ不安が増していた。上空のシェルターを見上げてみるが、まだ太陽も昇っていない時刻では、視線の先に広がっているのは重く閉ざされた暗闇だけだ。
「俺を信じろって」
ヒカルは変わらず強気で楽天的だ。その根拠がどこにあるのかアトリには判らないが、彼がいつもの態度を崩すことはなかった。
三十分程歩いて左折すると、二人の前方で視界が開け、土木現場用のフェンスに囲われた、瓦礫と平坦な土地の占める一帯が不意打ちのように広がった。建物が密集する工場地区の中、そこだけ更地になっている場所の中央に、摩天楼を思わせる金属の塔が聳えている。合金性のパイプで組み上げられた、天を突くような塔である。巨大な塔の右端に、モーター駆動の小型エレベーターが設えてあり、塔の左側、更地になった土地を間借りするような謙虚さで、土木現場用のプレハブ小屋が設置されていた。かすかに蛍光灯の白い灯りが漏れている。打ちっ放しコンクリートの床面に、闇の中でも判るくらいに黒く焼け焦げた跡が広がっている。
アトリは一瞬、言葉を忘れた。
やがてヒカルに脇腹を突付かれ、平静な気持ちを取り戻すまで、彼は放心するように目の前に聳える塔に心を奪われていた。これがシェルターの亀裂を修繕するために、爆発事故の跡地に組まれた足場なのだろうか? では、噂は本当だったのだ。
時計を検める。午前3時50分。擬似太陽が昇るまで、あと2時間以上ある。
「おい、行こうぜ」
ヒカルの声に誘われて、アトリは土木用のフェンスによじ登る。蛍光灯の光がこぼれる小屋をそっと窺うと、中では現場作業員らしき男が二人、パイプ椅子に座って煙草をふかしていた。
ヒカルが舌打ちする。さも悔しげな口調で、
「見張りの奴らだ。これじゃエレベーターは動かせないな。仕方ない、作業員用の階段で行こう。アトリ、それでいいよな?」
アトリは頷く。ここまで来て、流石に今さら引き返すなんて気持ちにはなれなかった。物音を立てないように塔に忍び寄り、足場を組む作業員が使う、金板と骨組みだけの頼りない階段に足をかける。カン、カン、というかすかな足音を殺すようにして昇り始める。塔はどれくらいの高さがあるのだろう。少なくとも、街が濃密な闇に包まれたこの時刻では、上空を見上げても塔の先端までは見通すことができない。心臓がせり上がってくるような感覚をこらえながら、アトリは一段ずつ階段を昇っていく。
不安を憶えたのは、塔の側面から見える東の空が、徐々に白んできた頃だった。昇り始めてすでに2時間近くが経過しているというのに、いまだ頂上に行き着かないのだ。アトリは時計を検める。午前5時35分。夜明けが近付いていた。
「やっぱりエレベーターを使うんだったぜ、くそ」
ヒカルが毒づき、矢継ぎ早にスラングを口から吐き出す。シェルターの天井がこれほど遠いとは、彼にも予想外であったらしい。
アトリが宥めて、ペットボトルをヒカルに投げる。バックパックに入れて持参してきた清涼飲料水だった。ヒカルが受け取り、それを忌々しげに飲み下す。
塔の頂が見えたのは、それから10分程たってからで、二人が頂上に辿り着いたのは、さらに30分が経過してからだった。その頃には、夜明けの空は刷毛ではいたような清浄な白に染まっていた。遠い街並みの彼方には、もう太陽が顔を覗かせている。
静謐な朝だった。
塔の頂上には誰もいなかった。動くものは存在しておらず、奇妙にすべらかで光沢を放っている床のあちこちに、土木作業用の大型クレーンが、見捨てられた太古の恐竜みたいに鎌首をもたげて死んでいるだけだ。眩しい陽射しに眸を細めながら、アトリは暁の空を言葉もなく眺めていた。擬似太陽の人工的な光も、今ここでこうして浴びていると、一種の神聖な力さえ有しているように思えてくる。ヒカルが戯れにアトリの肩を殴り、アトリは身体をぶつけて彼に応える。
シェルターの傷跡は頭上にあった。塔の屋上から雪白の堅固な隔壁までは、5メートル足らずの距離しかない。亀裂は奇妙に裂けており、10メートル以上に渡って硬いはずのシェルターを捻じ曲げている。最初に呟いたのはアトリだった。
「……変だ。いくら事故で工場が爆発したと言っても、こんな高所の壁に穴が空くわけない」
その亀裂は、どう見ても爆発を受けて破損したものではなかった。爆風がもたらす黒煤の汚れも見当たらず、真っ白なシェルターに走った一筋の傷は、まるで柔らかい金属を缶切りで捻じ切った跡みたいだ。
やがて、ヒカルが亀裂の真下に歩み寄り、そこに口を開けている虚ろな穴を覗き込んだ。
「……な……んだ……これ?」
呆然と呟き、その場で魂を抜き取られたみたいに立ち竦んだ。アトリがそばに走り寄り、ヒカルと肩を並べて頭上の傷跡へと視線をあげる。
そこには、何もなかった。
外の世界も、真っ暗な暗闇も、虚ろに空いた穴さえも存在していなかった。ただ、シェルターを抉るようにして走った亀裂があり、その空間を漆黒の無といえる何かが埋め合わせているのだ。それが今まで一度も目にしたことのない何かであるのは、ヒカルと同じく放心して立ち尽くしているアトリにも、直感として感じ取ることができた。
「……何もない」
呟いた声が二人のどちらのものであるのか、アトリには判らなかった。
そして、そのときだった。
静謐な朝の空気のなか、突然、渇いた音が響き渡り、アトリのすぐ隣でヒカルが身体を硬直させた。破裂音だった。
アトリが声をあげる暇もなく、ヒカルは膝を折り、その場に崩れ落ち、生きのいい魚のように全身を痙攣させた。口から鮮血を吐き出して、胸元に震える右腕を添えた。胸のあたりが血に濡れている。アトリは咄嗟に彼へと駆け寄り、滅茶苦茶に叫びながらその上膊をつかんだ。
状況を見極める余裕はなかった。二度、三度と立て続けに渇いた音が響き渡り、アトリの肩で何かが爆ぜた。視界が反転して身体が空中で仰向けになり、その体勢のままアトリは床に倒れ込んだ。鋭い槍で肩甲骨を貫かれたような感触があった。肩のあたりが火を噴くように熱い。そして激しい痛みが襲ってきた。
「――二人を拘束しろ。メモリーを洗って初期化、再起動を行う」
声が聞こえた。知らない男のものだった。心を感じさせない冷厳な声だった。アトリは襲いくるひどい痛みをかろうじて堪え、首をめぐらせて声がした方を振り向いた。現場作業員ではなかった。紺色の、厳めしい制服に身を包んでいる幾人もの男達で、そのうち一人が自分に拳銃を向けている。統治政府の憲兵だった。では、自分達は、シェルター脱走で第1級禁止事項に抵触した嫌疑をかけられているのだ。
しかし、とアトリは思う。
歩み寄ってきた男の腕を振り払い、言う。
「何も、銃で撃つことは、ないじゃないか!」
憲兵が拳をふるい、アトリは顔面に拳骨を叩き込まれた。衝撃と痛みがあり、目の前が一瞬、光で黄色く染まる。指先で拭うと鼻血がでていた。自棄になってアトリは叫んだ。
「第1級禁止事項に触れたからって! ヒカルを見ろ、胸を撃たれてる。……し、死んでしまったら、どうするんだ!」
恐々ながら左方に視線を向けた。ヒカルは意識を失って倒れたままだ。シャツが夥しい血の色で濡れている。これは、命の危険が迫っているのではないか? ともすれば鳴りそうになってしまう奥歯を噛み締めながら、アトリは男達を睨みつける。
「……問題ない。初期化して再起動すれば、おまえ達の傷は修復する。この街の禁忌に触れてしまった者は、すべてそうするのが決まりになっている」
男は、言った。アトリは訳がわからず首を振る。
「何を言ってるんだ、初期化? 再起動? 人をコンピューターみたいに言うな! 街の禁忌って何だよ。意味がわからない」
「……言葉通りだ。おまえ達は、実は人間ではない」
アトリは、呆気に取られて男を見た。しかし、男がふざけている様子は見受けられない。
「もちろん私達も。我々は、現実世界のスーパーコンピューターの演算によって形成され続ける、自律型のAIに過ぎない。この街も、仮想空間につくりだされた都市運営シミュレーションのモデルケースの一つだ」
「……今……なん……て?」
時間が扁平に引き伸ばされたみたいだった。朝の静けさがあたりに満ち、アトリと男の声だけがそこに存在するかのようだ。
「おまえは、シェルターに空いたあの裂け目を見て、何も違和感を憶えなかったか? あれは、穴ではない。工場爆破事故によってスーパーコンピューターの演算上に起こったバグそのもの。――ドット欠けのようなものだ。だから穴の内部に空間は存在しないし、そこから外の世界にでることもできない。……そもそも、外の世界があるのかどうかは、私達、体制側の人間ですら知らない。我々はただ、自らに与えられたプログラムを実行に移しているだけだ」
「……信じられない」
アトリは、呟いた。男は無慈悲にかぶりを振る。
「信じられる信じられないは、おまえの問題だ。我々はそれに関知しない」
「僕達は、……僕とヒカルは、これからどうなるんですか?」
「……さっき話した通りだ。初期化してメモリーを洗い、再起動して元のポジションに戻す。ここでの記憶は消えるが、日常生活に支障はでない。今まで通りの生活が戻ってくるだけだ」
アトリは、泣き笑いをした。
「はは。バカみたいだ。僕、まるで間抜けだ」
飼育されている鳥が、篭をでて生きていけるわけがないのだ。自分はおろかで子供じみた幻想を見ていたのだ。この世界のすべては管理され、その中でアトリは無力な一人の少年に過ぎなかった。男がアトリのこめかみに拳銃をあて、冷たい鉄みたいな無表情のままで、引き金をひいた。
「ねえ、アトリ?」
公園のベンチに座っていると、どこからかリーナの声がした。
見回すと、マンションの入り口に、彼女が一人で立っているのが見えた。
「……どうして、ずっとシェルターの天井を見上げているの?」
アトリは、首を振ってみせる。
「さあ、どうしてかな。……自分でもわからない」
アトリには、ここ一週間の記憶がなかった。二日前、気が付くとアトリはこの公園のベンチに座っており、どこで何をしていたのか、これから何をするつもりなのかが、頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。だが、不思議なことに、こうして染み一つないシェルターの天井を見上げていると、不思議と心が休まるのだった。
「……空が見たいの?」
リーナが、穏やかに声を紡いだ。笑って、
「この言葉、たしか前にもアトリに言ったよね。あ、アトリはそのこと憶えていないんだっけ?」
アトリは、頷く。
「何も憶えていないんだ。ここ一週間くらい。でも、不思議と気分は悪くない。……どうしてだろう」
「さあ、なんでかな」
判らないというように、リーナは首を傾げる。
「でも、ほら。きっとシェルターを見上げているからだよ。シェルターの向こうには、空が広がっているんだもの。ねえアトリは知ってる? お母さんから聞いて、これ、前にもアトリに話したんだけど、アトリっていう名前はね。……ずっと昔に地上に生きていた、鳥の――」