神の仔
倒産寸前の日加自動車を立て直しに成功したヘソスは『神』と崇めたてられる。
パート1 逮捕
「オレは無罪だ」
ヘソス・ゴート(Jesus Goat)は叫んだ。有無を言わさず、二人のダークスーツの男に両脇を固められ、引き摺られる様に空港ビル出口の前に停められた黒塗りのクラウンに乗せられた。容疑への十分な説明も無い。紙切れをかざし、スーツの一人から片言の英語で「金融取引法及び会社法違反の容疑で逮捕する」と言われただけだ。
その夕、ボンバルディア製のビジネスジェットでパリから羽田に着いたばかりだった。パリではクラン仏大統領と三度目の協議を経て、漸く合意に達した。フランス政府は、ルコール・オートによる日加自動車の一刻も早い経営統合を切望していた。それにより、ルコールの最大株主で経営権を持つ同政府には、持株比率に応じた日加の事業収益が転がり込む算段である。
「政府は何故日加の統合を急ぐのか?」
パリ中心部に位置するエリゼ宮は、十八世紀初頭ルイ王朝時代に建設され、現クラン大統領で二十三代目となるフランス大統領官邸である。クラシックな中世の建築様式の中に、モダンが各処に散見される。特に大統領室の執務机や椅子は伸び伸びと配置され、伝統よりも実用性重視の明確な意思が伺える。
「我が国の財政事情はご存知の通り火の車だ。国民の超高齢化に伴い、福祉や医療に益々金がかかる。一方で税収は人口減少に伴い先細りの一途だ。個人所得の増加が見込めない以上、法人からの税収でカバーするしかない。日加の売上は十分魅力的だ」
「その点は、日本も一緒です。いや、日本の方が酷いかも知れない」
『人生百年時代』などまやかしだ。寿命が伸びること自体は決して人生を豊かにしない。大和魂は武士道に宿り『太く短く』を尊ぶ。ところが官僚の皮算用は、少しでも長く働かせることで税源確保を目論む。人生の折り返し点で、後半戦を生き抜く為に何が必要か、全く分かっていない。終着点まで走り続ける『意義』が無くてはならない。それが『モチベーション』だが、今の日本社会にはこれが希薄、いや、皆無だ。そんな中でただ国民が長生きすれば、社会の活力は喪失し生産性は失墜する。名実共に国力は衰退する。
「君が嫌がる理由は何だ?」
三十九歳という若さ故か、クランは雰囲気を重んじる伝統的なフランス人とは一線を画し、単刀直入だった。『社交辞令』を軽んじる世界中に生息する若者のひとりかも知れない。オレも世辞や忖度は苦手だが、最低限の礼儀はわきまえている。レバニーズの両親の元でブラジルに生まれ、青年期をパリで過ごした。幼少期から類稀な才能、特に会話術に長けていた。九歳のヘソス・ゴートは大人を容易く言い負かした。屈服した大人たちはオレを『神の子』と呼んだ。
「今や日加はルコールの二倍近い売上まできた。今後もっと伸びる。そんな日加がルコールに吸収されることで、傷つく日加社員は多い。モチベーションを失った社員の生産性は下がる……」一度目のやり取りだった。
「方法が無いわけではありません。ワタシに対する日加社員、いや日本経済界の畏敬の念は揺るぎないものです。倒産を覚悟した日加を救い、GDP世界第三位の日本経済の復活を誘引した功績は、恩義に厚い日本人の心の中にしっかりと根付いています。大統領のご期待に沿える人材は、ワタシを置いて他にいない。一年お待ち下さい」二回目だった。そして今朝三回目の交渉が執り行われた。
「お約束の一年は過ぎていますが、この間、三光自動車の株式取得と言う予定外のイベントが飛び込んできた為で、日加社員の懐柔策は着実に進んでいます。これから日本に戻り、年内の経営統合を近日中には発表する予定です。現在腹心の部下が内々にその準備に当っています」
「わかりました。具体的な発表日時が決まり次第、教えてください。発表後に、『アナタの会長兼CEOへの復帰を、将来の最大株主として承認した』旨、発表しましょう」
そうだ。オレはCEOに返り咲き、現経営陣を総入れ替えするつもりだった。西園寺ではダメだ。経営企画で燻っていたヤツをナンバー2に引き上げ、CEOに据えたのはオレだ。初めの半年ほどは殊勝にもオレの言うことを文句も言わず聞いていたが、徐々に本性が現れてきた。
西園寺が、オランダの持株会社にベイルートのゲストハウスを買わせる為の決裁書を握り、ゴートの部屋に飛び込んで来たのは一年前の十一月だった。同じ二十階の役員フロアーに部屋を持つ二人だが、これまでは必ずオレから西園寺を訪ねていた。日本人の権威崇拝主義に倣う程度に軽く捉えていた。実は、西園寺は徹底してオレを無視していただけだった様だが。
「ゴート会長、これは何ですか? ベイルートでウチは事業展開していない。何故ゲストハウスが必要なんです? 流石にこれは国税が許しませんよ」
「まあ、そう目くじらを立てるな。『これから中東に力を入れる為、事業拠点を構えようとしている。ここはその活動基地だ』とでも……、言い方は何とでもなるだろう。もう既に物件を見つけて姉が仮契約している。早いところ、オランダの会社に引き取らせてくれ。この会社も偶には何かしないとダミーだとバレバレだ。頼んだぞ」
思い起こせば、あの時の西園寺はそれまでとはどこか違っていた。今まで見たこともない様な鈍い光を目の奥に秘めていた。
「わかりました。サインはしますが、後でどうなっても知りませんよ」
車は空港から湾岸線に入り右手に東京湾を臨みつつ、天王洲から首都高1号線を東京地検に向っていた。後部座席で左右を検察官に挟まれたゴートは、夕闇に鈍く光る海を眺めながら、今我が身に起きている不測の事態を理解しようと必死だった。
西園寺が売ったのだ。それ以外にあり得ない。でも、何故だ? 経産省か? 確か西園寺の同窓が経産省にいた筈だ。裏で日本政府が動いたのか? 日加がルコールに統合されれば、フランス政府は本望を遂げ溜飲を下げることになる。逆に日本政府の面子は丸潰れだ。経産省が検察にプレッシャーをかけた、十分あり得るシナリオだ。
「何故、ワタシを拘束し地検で何を取り調べるんだ? わかる様に説明してくれ」
両脇の他に助手席も検察官の様だが、言葉を忘れたのか誰からも反応が無い。重苦しい空気が車中を埋め尽くしていた。
オレは負けない。オレは『神の子』だ。
パート2 送検
見詰めると焦点がボケてしまうほどの真っ白な壁。声を上げれば百倍にも増幅されて帰ってきそうな静寂。
みじめだ。こんな『扱い』には耐えられない。いや、そんな筈はない……
オレが生まれたサンパウロの家は、貧困の極みだった。移民の両親が当に寝る暇を惜しんで働いたにもかからず、ゴート家の生活が豊かになることはなかった。十歳のオレは夜9時までレストランで働いた。子供の夜間就労は当時のブラジルでも禁じられていたが、社会実態を知る当局がこれを取り締まることは滅多にない。おまけに夜食の賄い付という魅力は、身体拘束のリスクを遥かに凌駕する程大きなものだった。
大人達に混じり日々罵倒され、時に殴られて労働の苛酷さは『神の子』の頭と身体に沁み込んでいった。
あの頃に比べれば、今の待遇でも天国だ。少なくとも衣食住に困る事はない。
当時のオレは、年中飢えて骸骨の様に痩せ、目の玉だけがギラギラと光る獣物の風体だった。
「ヘソス、大きくなったら何になりたい?」
「ボクは金持ちになる!」オレはいつも同じ返事を繰り返した。中房の大人たちは、周囲をはばからず金に異常な執着心を示すオレを相手に、賭けポーカーゲームに興じた。三年間無敗のオレのレジェンドはここが起点だった。
でも、オレは決して金が欲しかった訳じゃない。落ちぶれた会社を建て直した後、次に為すべきチャレンジが欲しかっただけだ。
自分の持つ内外全ての環境を駆使して、何かを達成する、それが偶々金儲けに結実しただけだ。求めたものは金ではなく高い目標と達成への満足感であり、挑戦へのモチベーションだった。
だがそれはいつの間にか変わった。金を湯水の如く使っている内に、使った費用を稼ぐ必要が生じていた。気がつくと支出が収入を上回っていたのだ。特にフローレンスと再婚した後からが顕著になった。
レバノン生まれのフローレンスは、モデルとしてそのキャリアをパリでスタートした。パリでもトップクラスのモデル養成学校にコネで入った。コネと言っても、最初から使える人脈などあった筈はない。人脈を築く為の資金力も無い。かろうじて生まれ持っての人懐っこさと170センチを超える伸びやかな身体が持てる原資のすべてだった。
程なくしてフローレンスにベタ惚れのパトロンが見つかった。これで先ずは安定的な資金源が確保できたことになる。養成学校を主席で卒業するや、そのままスーパーモデルとして第一線と言われる『パリコレ』でデビューを果たす。彼女の上昇志向は留まるところを知らず、続いてパトロンの人脈と資金を元手に現代版社交界とも言われる「ル・バル・デ・デビュタント」(通称ル・バル)へ招待された。
鮮烈な出会いだった。
場所はパリのシャングリ・ラ・ホテル。そこで開催されたル・バルのチャリティー舞踏会でお互いの有人から紹介され、意気投合し、その夜の内に結ばれた。一夜にしてオレは彼女に心酔した。ホテルのプレジデンシャル・スイートで朝食を取りながら彼女に言った。
「君と暮らしたい。幸い僕には子供がいない。直ぐに妻と話して離婚の手続きに入る」
「オーケーよ。あなたにそれができるなら」
一ヶ月後、オレはアメリカで暮らす妻のコリンと離婚した。フローレンスはどれ程の条件を妻に約束したかなどに全く興味も無いらしく、オレからそれに触れることもなかったが、法外な金額であり、これがオレの資金ニーズを高めたことも事実だった。
二人の豪華絢爛な結婚式はベルサイユ宮殿でに執り行なわれた。オレが会長兼CEOを勤めるルコール・オートはこの宮殿修復の為に数億ユーロの支援を約束する最大スポンサーの一社だった。
「次に、奥様との結婚式についてお聞きします」
担当の梶検事が淡々と聞く。それが英語の技量のせいなのか、本来の話し方なのかは分からない。兎に角、無駄口は一切無い。
いつもそうだ。これで三度目だろうか?同じ質問を繰り返して、嫌気がさしていい加減に答えると、微妙な喰い違いに目をつけて矛盾を突いてくる。常套手段だ。その手に乗ってたまるか。
「お二人の結婚式はパリのベルサイユ宮殿で挙げておられますが、その費用はどうされましたか?」
「何度聞かれても、私の答えは一緒だ。ルコールはベルサイユ補修費用の一部を負担する契約を結んでいる。その見返りにベルサイユを使える恩典が付加されている」
オレは二回目の答えと一言一句同じ単語の羅列を機械的に吐き出す。
窓も無く、外部の光が遮断されたグレー一色の取調室は黙っていると眠くなる。
「でもその恩典は、あくまで会社として使う事を許容しているのであって、個人的な使用
は想定されていないのではありませんか?」
「それはルコールと私の雇用契約の問題だ。何故、日本の検察がフランス人の個人契約にまで口を出すんだ?」
「我々はそこに介入する気はありません。その構造を知りたいだけです。同様のスキームが日加との間にも有ると踏んでますから」
そんな単純な構造だとみくびらんで欲しいね。俺のシナリオを。
オレは『神の子』だ
パート3 保釈
検察の取り調べは、朝九時から昼まで、午後は三時から五時と比較的ゆったりしたものだった。それ以外の時間は自由だったので、オレはほとんどの時間を読書に費やした。読む本は日本の司法制度と会社法に関するものばかり、半年を過ぎるころには弁護士も舌を巻くほど詳しくなっていた。
何名の検察官が取り調べにあたっているのか知る由もなかったが、日加自動車も隅々に至るまで調査対象となっている様だった。
そもそも密告者がいる筈だ。検察は最初から何人かの日加幹部に司法取引を持ちかけ情報を得ようとしたらしい。だが、大したものは得られなかった。このスキームは俺が独りで考え、作り、実行した。誰にも解明できる筈はない。
「保釈はどうなっているんだ?」
半年になろうとしていた。保釈請負人と呼び声の高い笹山弁護士に依頼したのは、兎に角、早くこの窮屈な監獄から外へ出る為だった。
この国の『人質司法』と『自白偏重主義』は有名だ。先ずはありとあらゆる状況証拠を被疑者に突きつけ自白を強要する。自白を前提に『物的証拠』を集める。時には『物的証拠』が希薄でも送検する。建前は『証拠主義』と謳っていても、実体は旧態依然とした『自白偏重主義』である。故に、何だかんだと屁理屈を捏ねて勾留延長を図り、自白させようとする。
「検察は、あなたから自供を取ることは諦めたようです。勾留中に思いつく限りの周辺人物に当たり、犯罪の片りんをかき集めようと必死ですよ」
日加はもとより、オレ個人が懇意にしていた六本木のフランス・レストランや麻布の焼き鳥屋まで聞き取りに行った。そればかりではない。東京の不動産屋やパリの定宿まで調査員が飛んだ。笹山弁護士からの情報提供である。確かに良く調べている。
「誰に聞こうが、私の不正行為の証拠など出る筈がない。そもそも私は不正などしていない。検察の動きをチェックするのも良いが、先ずは私をここから出すことに集中してくれ。もう六ヶ月じゃないか?」
「方法はあります。法外な保釈金を積む事と海外の世論に訴える、これらの掛け合わせが
上手くいけば、裁判所が認める可能性があります」
日本の史上最高額の保釈金は20億円。二〇〇四年十二月ハンナン牛肉偽装事件の浅田満被告に対してである。これ以上の金額を積めば裁判所としても面子が保たれ、世間への申し開きにもなる、との理屈だ。検察以上に裁判所は世間の目を気にする。
同様に、海外からの圧力に弱いのも裁判所の特徴である。司法の番人としては、いつも、あらゆる『人の目』を気にしているのである。
先ず、欧米の大手メディアを焚きつけて、ヘソス・ゴート勾留の根底にある日本の『人質司法』や『自白偏重主義』を書かせる。すると日本の隠れ欧米偏重派どもー最近はこうした輩をインフルーエンサーなどと呼ぶ風潮があるようだがーが勝手にこれらの記事を取り上げ、日本国内には勝手に反論が盛り上がる。それを又『言論の自由』の御旗の下で拡散する助っ人が現れる。そしてネット上でバトルが始まる。こうして当事者不在の安っぽいイデオロギーが潰し合い、時に炎上まで行き着く。こうなると、自らの恣意性への疑念を最も嫌う裁判所は、最大多数の世論を以って持論とする性向が強い。
こうしてゴートの保釈が承認されるだろう、とのシナリオである。
「一体、幾ら位だ?」
「まあ、二十と三十億の間あたりで、どうでしょう?」
「二十五までだったらなんとかする。その線で交渉を進めてくれ」
オレは笹山との面会を終えると、自室に籠りフローレンス夫人宛にA四レポート紙二十枚におよぶ手紙をしたためた。サンパウロの両親やレバノンに居る姉をはじめとする親族の動向を確認して欲しいとの要請が前半を占めた。後半部分は『パリコレ春夏コレクション』へ出演が決まっているフローレンスへの励ましだった。就中、TF1(TV)やル・モンド誌の共通の知り合いへのゴートの近況報告を細かく依頼した。パリに続き、ニューヨークのメディアに務める友人への報告も含まれていた。
勾留中の被疑者が手紙を出す際は検閲を通る。オレの手紙は手描きの英語でレポート用紙二十枚にも及ぶ。東京地検と言えども、英語が正確に判読できる検閲官は限られている。ましてや癖の強い手書き文字となると、全体の文脈から概要を把握するのが精々である。
オレの手紙は正確な意味が把握されること無く発送された。
十月も後半に入り、世間から隔絶された東京拘置所も朝晩の冷込みが気になりだした頃だった。
フランスTF2やアメリカCNNというTVメディアが一斉にフローレンスのインタビューを放映した。フローレンスの論調は、一貫して「日本の司法制度は非人道的で、夫はその犠牲者」であることを訴えた。そして最後は「ゴッド・ブレス・ユウ、ダーリン」と泪ぐむ映像が繰り返し流された。
日・米・欧の主要メディアはこぞって日本の旧態依然とした司法制度とその運用を批判した。
笹山のシナリオ通り、日本の世論は外圧により見事に不当な勾留延長を弾劾する雰囲気まで昂まった。
年が明けた二月二十四日(金)、オレは保釈された。
メディアは『史上最高額の保釈金』と市民の関心を煽りまくった。その視点には、最初こそ二十五億という金額への驚愕と僅かな羨望の念が見られたが、次第にそれだけの巨額を一夜にして工面できることへの疑念が増幅していった。笹山からその変化を聞いたオレの妙案が、例の『変装』であった。偶々弁護士団が用意できたのが工事作業者と小型トラックだった。子供じみた茶番であっても、マイナスサイドに振れた世論のオレへのイメージをプラスに転じようしたのだ。残念なことに、日本人の『生真面目さ』はオレのセンスが理解できなかった様だが。
保釈後、一時滞在のホテルで見たテレビの報道では、「もっと、堂々と出てきて欲しかった」とか「何を考えているのか?」と言った否定的なものだった。あの時、オレの心は決まった。
(こいつらには永遠にオレは理解されない。この国にオレの未来はない)
パート4 謀略
保釈時にオレが道路工事人擬きに変装して地検を出たのは、ちょっとした『あそび心』だった。今か今かと、長時間に亘って出口で待ち受けるマスコミに向けたサービスのつもりだった。
それをメディアは世論を煽り、オレを扱き下ろした。
こいつ等ときたら……、全くユーモアのセンスが無い。何と面白みに欠けた人種だ。やはり、民度の低い田舎者の集まりだ。
制約が多かった。六本木の自宅以外に、大手を振って行ける場所は笹山弁護事務所だけ。基本的には国内であれば移動は自由である筈が、実態はその都度行き先を弁護士経由で裁判所へ申告し許可をもらう必要がある。日常の買い物用のスーパーや食事を摂る為のレストランの幾つかは事前に許可を取っていた為、自由が利くが、自ずと限られた行動範囲とならざるを得ない。
何よりオレを苦しめたのは、フローレンスとの面会が禁じられている事だった。彼女がアメリカやフランスで動き回っている事実に、表向き検察は警戒しているとからとの説明だが、実はオレを精神的にいたぶろうとする心理作戦である。
勾留中にフローレンスの事を言い過ぎた感はある。ベルサイユでの挙式やパリコレで、彼女が如何に素晴らしいか、ほんの一部を披露したに過ぎない。ただ、フローレンスのことを話す時のオレがあまりに生々としていたので、彼女への深い思慕を察知したのだろう。
しくじった。オレのしたことが悔やまれる。奴らにフローレンスがオレの数少ない弱みの最上位だと悟られてしまった。
もっともフローレンスも忙しくて、オレに面会に来る時間がなかったのだろう。オレからの依頼事項は多岐にわたり、これらを一つ一つ潰していくだけでも膨大な時間と労力が必要だからだ。
マイケルを紹介して来たのは、フローレンスの姉、サリーだった。二年前の冬、クリスマスを「久しぶりにニューヨークで過ごしたい」とのフローレンスからのリクエストで、マンハッタンの常宿プラザホテルに滞在していた。彼女がイブの夕食を最近オープンしたレバノン料理レストランを予約していた。そこは五番街を三ブロックほど南に下った『イリリ(ILILI)』という店だった。リーズナブルな価格で本格的なレバノン料理や地中海料理を供してくれる。その名前、レバノン語で『私に教えて』というのも、中々気に入った。以後、オレのお気に入りリストに載り、ニューヨークに行った時はほぼ毎回顔を出していた。
そこで、偶然あの男に会った。フローレンスが個室を取ってくれたので、我々は誰にも会わずにゆっくりと心地良いタンニンの渋味に酔いしれていた。
「ヘソス、珍しい人と会ったわ。お連れしても良いかしら?」トイレから戻ったフローレンスが尋ねる。オレが承諾すると、男女一組が部屋に入ってきた。
「ヘソス、愛しき義弟よ。また、お会いできて嬉しいわ」長身のブロンド女性が両腕を大きく開き飛びかかるようにオレにハグしてきた。名はサリー、フローレンスの実姉だ。大袈裟なジェスチャーと芝居がかった仕草が初対面の結婚式で印象的だったが、この再会で再確認した。
サリーの腰に手を回して親密そうな男、彼こそがマイケル・パークスだった。サリーの恋人として紹介されたが、未だそれほど長い付き合いではなさそうだ。何故なら、腰に巻きつく手に少しばかりの逡巡が感じられたからである。マイケルもレバノン系アメリカ人で、嘗てグリーンベレーに身を置き、退役後はCIAの軍事特別顧問を務めていたそうだ。今は、独立してボストンで民間警備会社を経営しているという。七フィート近い大男である。
ブラジルや他の中南米諸国ほどではないが、アメリカにも数十万人規模のレバノン人が生活している。ユダヤ系や中国系と並んで『世界の商人』としてビジネス業界では知られている。その最大の特徴は、ご多聞に漏れず、『地下ネットワーク』である。その中にマイケルの様に、レバノン系経営者からの厄介な問題を解決する役割を負った団体が存在し、上手く機能している。移民の国である筈のアメリカでさえ、異人種故に時に理不尽な『社会的ないじめ』に苦しめられる。特に機密情報い絡んだ難癖を当局からつけられる頻度は多い。そんな時、CIAと太いパイプを持つマイケルの会社は強い。
「ゴートさん、いずれ何かお困りの事態が生じた際は、是非ご相談ください。きっと、お役に立ちますよ」自信たっぷりに言われた時は、もう二度と会うことも、ましてや仕事を依頼することなどあるまい、とオレは思った。
後から思えば、この時の偶然の出会いは、サリーに、ひょっとしたらフローレンスも噛んで、演出されたものかも知れない。
オレが保釈されてから三ヶ月にならんとする頃、ニューヨークに居るフローレンスにマイケルからコンタクトがあった。サリーを介してだった。
「ヘソスに自由を取り戻してもらう。それには日本の外へ脱出することだ。アメリカと韓国以外なら基本どこでも良い」
マイケル曰く、日本はこれら二カ国以外とは犯罪者引渡条約を締結していない為、仮に国外脱出後、日本政府から引き渡し要請があっても、応じる必要がない。但し、実際には国力の差が歴然な場合や大規模な政府間援助が約束されている場合は、断ることが難しい現実もある。確実性を優先するなら、政府への影響力を発揮できるレバノンがベスト。それも、日本からの直行便ではなく、途中で便を変える方が飛躍的に成功率が上がる。マイケルの推奨する中継地はトルコのイスタンブールかアラブ首長国連合(UAE)の首都ドバイである。
先ず日本のローカル空港からプライベイト・ジェットを使いイスタンブールかドバイへ入る。そこでコマーシャル・ジェットへ乗り換えベイルートへ向かう。地方空港は国際空港と銘打ってはいても、成田や羽田、関空と比べるとそのセキュリティの甘さは比較にならないほどお粗末だ。ましてやプライベートジェットの利用客となれば、ほとんどノーチェックと言っても過言ではない。加えて今回は出国である。何処のセキュリティチェックも入国者へは厳しいが、出国者には甘いのが相場だ。
マイケルは四、五回自らの足で日本国内の主だった地方空港を周り、セキュリティレベルをその眼で確認した。
「福岡空港からの出国がベストだ。あそこはそこそこ人も居るし、イミグレ(出入国管理)や通関手続きも早い。それに安倍さんのお陰で、どこもインバウンドの取り込みに躍起になっている。プライベートジェットの客層は喉から手を出しても欲しい筈だ」
アベノミックスがその神通力を失った今、唯一好調な実績を挙げてきたのが観光立国構想、つまり『観光ビジョン』だ。2030年に六千万人の外国人旅行者を目標に掲げている。安倍にとって最後の拠り所だ。彼がこれを世間に向けて吹聴すればするほど、海外からは「日本の出入国管理手続きの遅さ」がクレームされる。そこで、内閣官房が旗振り役となり外務省、厚生省、経産省、法務省が協議し、運用面での『外国人受け入れ時手続きの簡素化』に同意した。
当にオレのために。
パート5 逃亡
前日にマイケルと彼のチーム三名は東京に居た。
全ての指示はマイケルが発した。彼はこの計画において絶対的指揮者だった。
オレは、その朝、いつもの様に六本木の自宅を出て笹山弁護事務所へ歩いて向かった。自宅周辺には監視カメラが設置されており、二名の検察官と思われる尾行者の影があったからだ。さすがに弁護事務所の中まではついてこない。オレはここでマイケルからの指示書を受け取り、時間をかけてじっくりと目を通した。読み終わると自らシュレッダーに投じた。一切の痕跡を残さぬ為の処置で、これもマイケルの指示に沿ったに過ぎない。そのまま地下に移動し、待っていた黒のワゴン車に乗り込んだ。
オレが乗りこむと、車は静かに発車し首都高に入った。後部硝子はスモークで外からは内部がまったく見えない。二人の尾行者はオレがいつものようにこの日一日事務所で過ごすもの、とのんびり構えているのだろう。
めでたい奴らだ。
オレはこのワゴン車の中で、事前に運び込まれていた楽器用のジュラルミンケースに身を隠した。多少の窮屈さはあれど、これからオレ自身がおこす『世紀の大脱出』に胸を踊らせていた。羽田ではマイケル達がオレのケースを受け取り、国内のチャーター機で福岡へ向かった。福岡では形式だけの書類審査でプライベート・ジェットへ乗り込んだ。
あらゆるプロセスが実にスムーズに進み、ケースに隠れていたオレも、二、三度頭をケースの角にぶつけた位で、至って快適な道中といえた。
こうしてベイルートへ到着したオレは、フローレンスと彼女が用意していた市内の住処でゆったりした時間を過ごす筈だった。
入国後暫くは、各国のメディアからの取材で慌ただしいであろうことは、想定内だった。だが、その数の多さに驚き一社毎の対応では埒が開かないと考え、合同記者会見を開くことにした。実はこれもフローレンスのアイデアだった。オレは今ここでこうしてフローレンスとお互いの顔を合わせて相談できる環境に感謝している。
記者会見には、出来るだけ多くの国で発信してもらう為、一国二メディアまでと限定させて貰った。これに日本のメディアは猛烈に抵抗した。「日本は直接の被害者である。日本国民の理解を得るためには他国より多くのメディア露出が必要な筈だ」と。
オレは、「もはやお前らを信用していない。いくら日本国内で『無罪』を主張しても、最後は『お上』に尻尾を振る日本のメディアなど、本当は何処も呼びたくないくらいだ」
とは言えぬから、一応表面的には「フェア精神に則っただけだ」と答えた。
この記者会見では、オレ一人で『非人道的な日本の検察取調べ方法』や『日本の司法制度の欠点』を英語、フランス語、アラビア語、スペイン語を操って説明した。三十分余りのプレゼンの後、質疑応答に一時間ほど費やし、オレとしてはできるだけ丁寧に対応したつもりだった。
翌日の各メディアの反応は、概してオレに好意的なものが多かった。やはり従前からのフローレンスの訴えが効いているせいか、欧米メディアは特に日本の司法制度の『遅れ』を深掘りする内容が目立った。
唯一、日本のメディアだけは「以前の主張と変わらず」と根本的な問題に目を瞑り、極めて表層部分を報じるに止まっていた。
その後、三ヶ月が流れ、オレの生活にも日常の落ち着きが戻ろうとしていた時だった。
ある早春の朝、ドアを激しくノックする者がいる。スコープから覗くと、数人の物々しい警官が立っていた。
「ヘソス・ゴート、逮捕状が出ています。署までご同行願います」
「何の容疑だ?日本からの逃亡の件は、以前署長と話をして了解済みの筈だが?」
オレはドヤしつけたい感情を抑えて、意識的に抑揚を付けずに聞いた。
「いえ、今回は別件です。入国法違反の罪状です。それに、日本とUAEからは出国法違反の罪が告発されています」
ここで下っ端警官を相手にやりあっても埒が開かないことは自明。先ずは、警察署へ赴
き署長に直接問いただそう、と思い彼らに同行した。
パウロ署長は、大変もの分かりの良い立派な人格者である。来年定年を迎え、田舎で暮らすことを楽しみしている。
オレは、このパウロの説明を聞いて腹わたが煮えくり返る思いだった。何とあのマイケルがオレを裏切り、日本の検察に寝返ったと言う。
「日本からの情報に因りますと、マイケル・パークと言う人物が『偽造旅券を使ってゴートさんの出入国を手助けした』旨、日本の検察に自供したとのことです。いわゆる、司法取引というやつでしょう」
前述の様に、レバノンは日本と犯罪者引渡条約を締結していない。オレが中央政府に圧力をかけることで、引渡拒否の姿勢を貫く様に仕向けることは可能だろう。だが、インターポール(国際刑事警察機構)から『赤手配書』(国際逮捕手配書)を既に受領しているレバノン警察は、全く無視する訳には行かぬ事情は分からないでもない。
それに加え、最近レバノンの二人の弁護士が、2008年一月にオレが敵対国であるイスラエルへ入国した事実を以って、刑事告訴した。パウロ署長が来年穏やかな定年を迎えられる為にも、オレはそのままベイルート警察に逮捕され、ひとまず、日本へ送られることになった。
それにしても、あのマイケルが……
あいつらはそういう類いの輩であることにもっと気遣うべきだった。義姉のサリーの恋人だから、と勝手に信用してしまったのが、間違いだった。
でも、オレは諦めない。そろそろここベイルートでの生活にも飽きてきた頃だった。新たな挑戦に、久々に胸の昂まりを覚える。
オレは『神の子』だ。
パート6 復活
日本へ強制送還されたオレは、偽造パスポートの嫌疑、つまり公文書偽造の容疑で東京地検により送検された。本来の疑惑である金融商品取り法違反や会社法違反も決して重罪とは言えないが、地検特捜部はそれさえも確定させる為にはまだ時間がかかると判断し、先ず罪状を直ぐにでも確定できる公文書偽造、および偽造公文書行使(共に1年以上10年以下の懲役)で送検したのだ。
真っ白い壁に囲まれた取調室での単調で退屈極まりない日々が、再び始まった。
「先ず、あなたが日本を脱出した経路からお聞きします」
西村と言う主任検察官が流暢な英語で口火を切った。以前の桶川検察官は、オレを逃したことの責任を取って降格され、大阪地検へ左遷されていた。この西村と言う男、フランス、リヨンのインターポール本部へ2年程研修の名のもとで派遣されていた、前任の桶川よりは頭の回転が早そうだ。
オレは全面的に西村の供述誘導に乗った。彼は既に裏切り者マイケルから詳細に渡る事実調書を取得している。逃亡計画の首謀者であり指揮官だったマイケルは、腸が煮えくり返るがオレより詳しく内容を理解している。オレが微妙に異なる供述をしようものなら、西村に即座に揚げ足を取られ兼ねない。
検察の取り調べに積極的に協力し、罪を素直に認めたオレは、懲役一年、執行猶予三年の判決で、条件付きではあるもめでたく社会に復帰した。人の運とは面白いもので、この頃から再び上昇気運に恵まれた。
移動制限もあり、ひっそりと自宅で謹慎中、時間を持て余したオレは、ありとあらゆる分野の本を手当たり次第に読み漁った。便利なもので、電子書籍であれば、地球上のどこで誰が書いたものであろうと、指先だけで手に入る。人類がコンピューターなるものの恩恵を本当に実感したのは、ウィンドウズ95からだろう。僅か25年前のことだ。あの時、オレを含めて誰もがこれから起きる夢の世界にはち切れんばかり胸を膨らませたことだろう。そして、オレは知った。マイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツが同じ歳であることを。あの時以来、オレの目標は『ゲイツに追いつき、追い越す』ことになった。同世代でオレを超える成功者がいる居ることに我慢できなかった。どんな手段を使おうと必ずゲイツを凌駕してみせる!
奴はとうの昔に、莫大な創業者利益を享受し経営から退き、夫人と共に福祉財団を創設し、世界中の恵まれない子供たちに手を差し伸べている。資財欲を突き抜け、既に名誉欲の次元でも大輪を咲かせている。
オレにはとてもそんな奇特な真似はできないし、大体似つかわしくない。目標を失ったオレは、一週間フルに六本木ヒルズライブラリーに通い詰め、自粛状態を敢えて作った。ヒルズの49階に受付があり、会員制のためマスコミをはじめ他人の目を気にする必要が無かった。何より素晴らしいのは、世界中の出版物が絶版でない限り手に入ることだ。
アメリカGEの元会長ジャック・ウェルチ氏とスウェーデンABB元会長のパーシー・バーナウィッグの著書を集中的に読んだ。オレは新しい何かを求めて本は読まない。それは常にオレの頭の中にあるからだ。本を読むのは、オレのアイデアや遣り方の正統性を客観的に再確認するためだ。従って学者の机上の空論は、たとえそれがどんなに斬新で目新しくとも、オレには無価値だ。これら二人の様に、キッチリ実績を上げたリーダーが語る理屈だけが、オレへの指針として、また時には共感からの自信を与えてくれる。
ジャックからは競争に勝ち抜くプロセスを、そしてパーシーからは小さな本社とマトリックス組織を学んだ。
一週間後、オレはこれらを『日加改造プラン』としてまとめ、日加自動車理事会に提案した。日加は、オレが居た頃から既に業績の悪化は見られたが、この数年間でもはや再生不能なレベルまで凋落していた。98年にオレが来た頃より更に悪かった。その元凶が北米ビジネスにあることは、外から見ても歴然としている。
東洋や北斗が個人ユーザーに視点を定め、CS(顧客満足度)を上げる為の地道な活動を継続して来た結果、この異国の地にあっても日本と同じ、若しくはそれ以上の熱い固定客層を構築してきた。それに引き換え、我が日加自動車は目前の売上/収益に目を奪われ、レンタカービジネスに飛びついた。大手のレンタカー会社ともなれば、一枚の契約書で数万台規模の日加車が全米に配車される。これが年に最低二回、多ければ四回繰り返される。何の苦労も無く十万、二十万台と言う製品が売れるビジネスが何処にあろう! これら大量のレンタカーは早ければ三ヵ月、遅くとも半年後には返却され、新モデルと交換されるのだ。通常でもレンタカー上がりの車は一般車に比べ値落ちする。また同時期に大量の同一モデルが市場に放出されれば、これまた値落ちの要因となる。日加のレンタカービジネスは、これら両方の『悪』を取り込み、謂わば『最悪』の災いを齎らした。否、災いはこれに留まらない。
一気に市場に放出された大量の割安感満載の中古車は、確実に新車販売の足を引っ張る。見た目は新車擬き、新古車である。価格は新車の半値以下、新車の購買層もこの破壊的価格に惑わされ、新古車へ走ってしまう。販売店は新車を売らんが為に、値引額を増やしてオファーする。売れても儲からない、時には損さえ覚悟の売り方が長く続く筈はない。販売店はメーカーにインセンティブ(販売奨励金)の名の下で損益補填を要求する。このサイクルが麻薬の様に巡り、最悪から極悪に嵌っていく。
これが所謂プログラムカーと呼ばれ、業界のタブーとまで嫌われた所作である。尤もこれが脚光を浴びたのは、もう二十年も前の話である。今の日加には、その頃の経験も知識さえも期待できない。
西園寺がそうした貴重な海外市場の経験者を悉く排除し、『まるドメ』男や外部の広告代理店から口先ばかりの威勢の良い女どもを雇い入れ、自らの立場の安寧を図って来たからである。そもそも西園寺は海外を知らない。そればかりか、外国人と言うものに得体の知れない偏見を持っている様だ。英語は読めるが話せない。日本の昔の優秀な官僚の様だ。海外に対する負い目から、海外経験者を嫌い、彼の様に国内畑だけを歩んできた片端者『まるドメ』を重用した。自分と波長の合う輩を周囲に配し、彼らの報告に耳を傾けるから、心地の良い内容だけが陽の目を見ることになる。耳障りな実態は、幾重にも張り巡らされたフィルターに振るい落とされていく。
「もはや組織としての体を為していない。これも西園寺自身の身から出た錆だ」
奇しくも、こうしたゴートの診方に共感を覚える人間が日加自動車理事会に居た。そして、ゴートが提出した『日加改造プラン』は、この人物の目に留まった。伊那正蔵、東京セラミック(東セラ)の創業者であり、日本製造業会の重鎮である。八十を超える年齢の為、正式には何の肩書も持たないが、その影響力は時の内閣総理大臣をも動かす、と言われる大物中の大物である。この伊那が昨今の日加自動車の為体を嘆いていた。それは、単なる業績指標の悪化に止まらず、経営戦略そのものの薄っぺらさに怒りさえ覚えるほどだった。
「日加を何とかせにゃ」が、最近の伊那の口癖だった。
ゴートからの直訴状は、理事長である土橋哲夫、日本タイヤ会長、から回ってきたものだった。土橋は未だ現役の会長職にある。
「自分は業務多忙故、(暇な伊那に)ゴートと言う問題児が書いた横文字の提案書に目を通して欲しい」との意図が透けて見える。事実暇な伊那は、『日加改造プラン』なる提案書を手に、最初は暇つぶしがてらページを捲っていった。全体で100頁にもなるこの書の5頁からだった。日加の現状、問題、分析、課題と頁が進むにつれ、伊那は意図せず引き込まれていった。その内、内容があまりに共感づくめであった為、恰も自分が書いたものではないか、と自問するようになっていた。
「ゴート君と会って話がしたいのだが。できるだけ早く」
伊那からの依頼を受けて土橋は、理事会世話役に二人の会談を至急設定する様に指示した。
ゴートは突然、日加理事会世話役の斎藤から連絡を受けて、伊那との会談を受諾した。伊那がゴートに求めたことは、
「日加の再生とその為の組織の生き返りであり、方法論は提案書に記されている通り、寸分違わず実施すること」だけだった。
一週間後に臨時緊急理事会が土橋理事長の要請で執り行われた。この場で、ヘソス・ゴートのCEO兼会長への復帰が承認されえた。ゴートは伊奈との会談後、この臨時理事会までの一週間で、新たな役員人事を創り上げていた。そこには、CROなる新ポジションが描かれており、そのボックスには西園寺の名前が記されていた。
ゴートは変わった。人を使うとは、力を見せつけて従わせる『覇道』ではなく、自ら襟を正し弱きに情けを掛ける『王道』であると。
完
経営の王道を学んだヘソスは?




