第53話 船出
翌朝、マルティナたちはいかだで島を離れた。別れ際に、キルケーは小袋を渡してきた。
「風の精を封じ込めている。何かあれば使うといい」
いかだを漕ぐこと1時間余り、水平線上に船のマストが見えた。さらに1時間後には、商船の甲板に収容されていた。
「一体どうしたというんだ、こんなところを漂流して」
エンリコと名乗った船長は、当然の質問をぶつけてきた。
「乗った船が沈没して、漂流していたのです」マルティナが返した。
「そうか、それは災難だったな」船長は一同を見回して言った「その格好は巡礼者か。君らは神に好かれているらしい。助かっただけではなく、目的地まで行けるのだからな」
一同は顔を見合わせて笑った。もちろん魔女の手引きによることなど言わない。
「もちろん、タダ乗りってわけにはいかないけどな」
「もちろんです。お代は支払いますし、なにかお手伝いできることがあれば」
「そうだな……といってもオール漕ぎぐらいしかないし、今は順風だから……まあ、休んでいてくれ」
「ありがとうございます」
船長は立ち去った。一同はふう、とため息をついた。
「しかしよく信用したね、あの魔女の言うことを。船が来なければどうするつもりだったんだい」
セリーヌの問いに、マルティナが答える。
「嘘を伝えて彼女に得はないよ。どのみち島から出るには彼女に頼るしかない」
「まあ、航海が上手くいくことを祈りましょう」
斎がそう言った。手には件の仏像が握られていた。
***
2日がたったころ問題に直面した。
海が凪いだのである。
風がなくては船は進まない。ガレー船であればオールを漕ぐが、これは帆船である。オールを使うこともあるが、それは出入港の時くらいである。
「弱ったなあ」
エンリコ氏が頭を抱えているのを見て、マルティナはあることを思いつく。
「これを使いますか?」
マルティナはキルケーにもらった小袋を取り出した。
「それは?」
「風の精を閉じ込めています。これで風を吹かせることが出来れば、船は動くかと」
「なんと、魔法が使えるのか!」
エンリコ氏は声を上げた。マルティナは、袋の紐を解いた。
すぐに風が吹き始めた。船は滑るように進み始める。一同は万歳と叫んだ。
***
3日後のことである。航海士が、異変に気付いた。
「船長、妙です」航海士が四分儀を片手に言った「太陽高度が高い。思ったより南にいます」
「どれくらい南だ」
「数十リーグは南かと」
「それはたいへんだ。このまま行けば、あの海域に入ってしまう」
あの海域とは、葡萄酒色の海である。
「風の方向を変えることはできないのか!」
船長はマルティナに詰め寄った。マルティナは首を横に振った。
「行先は風の精によります。私にどうこうはできません」
「なんということだ……」
船長は頭を抱えたが、しかし、マルティナは顔色を変えない。
これはキルケーの仕組んだことだ。マルティナは確信していた。この風は、確実に、ヤオス島に我々を誘っている。
とすればすることは一つである。ただただ、キルケーを信じ、そして祈るしかない。マルティナは両手を合わせ、天を仰ぐのであった。




