君の青に染まる前に
今の時代、「僕は人の心が読めるんです」なんて言っても「へー、そうなんだ。すごいねー」で済ませられる位には、人は特殊な体質というものに慣れてしまっているように思う。
それに関して苦言を呈するつもりは毛頭ない。不特定多数に情報を広めるのが簡単な時代なのだ。本物であれニセモノであれ、特殊な能力を持つ人間についての映像や音声が出回るのも頷ける話だ。
だから、というわけではないが、僕は自分の体質について誰かに話したことはない。十把一絡げにされるのが嫌というよりかは、そんな時代でも受け入れられそうにない程に、奇妙で、不可解な能力だからだ。
「おはようございます、奏せんせー!」
「おはよーせんせー!」
二人の女生徒が元気良く挨拶をしながら、僕の隣を駆け抜けていった。
「おはよう。転ばないようにね」
はーい! と返事をした時には、二人は既に校舎の中に入ってしまっていた。そんなに慌ててどこへ行くのやら。中庭の方へと駆けて行った生徒の後ろ姿を見送りながら、僕も職員室へと向かった。
道すがら、廊下の窓から中庭を見下ろすと、校舎の陰になにやら人だかりができていた。何かあったのだろうか。気にはなるが、今日は一限に授業の準備をする必要がある。後で生徒の誰かに聞いてみることとしよう。
「あら、もしかしてその服、モードルネージュの春限定モデルじゃないですか?」
職員室に入ると、若い女の先生同士の会話が聞こえて来た。
声につられ、目を向ける。
「そうなんです! よくご存じですね! 一目惚れして、思い切って買っちゃったんです!」
「素敵ですねー! とっても似合ってます!」
「ありがとうございます! 茜先生もご購入されたらいかがですか?」
「んー、今月ピンチだからなぁ……。でも、迷っちゃいます!」
裏でも表でも、意外と息が合ってるんだよなこの二人……。絶対関わり合いにはなりたくないので、僕は自分の席に移動して一限の準備を始める。
冒頭の話に戻ろう。
簡単に言えば、僕は人の言葉にルビが見える。
ただし、ただのルビではない。
口では「素敵」だと言いながら、心の中では「ださい」と思っていれば、「素敵」と言うように、その人が言葉に本当に込めた意味を感じ取ることが出来るのだ。
漢字限定の読心術、とでも言ったところだろうか。
なんでこんな能力が僕に宿っているのかは全く分からない。
小さいころから漢字は好きだった。幼稚園の頃だったか、自分の名前を漢字で書いた時、周りの友達と先生に褒められたことがきっかけで、僕は沢山漢字を勉強した。そのうち、成り立ちや普遍性なんかを知るようになって、ますますその奥深さに魅了された。
確かに漢字はとても身近にあった。
僕は人よりも相手の考えていることを読み取る観察眼に長けていて、それが身近にあった漢字が引き金となって、僕の脳内で具現化されているのだろう、と。勝手にそう思うことにしている。
なんでお前はこの世界に生まれてきたんだ、と問われて答えられる人がいないように、この能力が僕に宿っている理由を説明することはできない。あるものはあるのだ。それはもう、どうしようもないし、しょうがない。
この能力があって損したと思ったことは特にない。むしろ、教師という職にぴったりだと思っているし、フルに活用させてもらっている。
チャイムと同時に一年A組の教室に入ると、ばたばたと生徒たちが自分の席に戻り始めた。ずいぶんとざわついていたようだ。やはり何かあったのだろうか……?
「起立、礼、着席」
「おはよう。国語を担当する奏哲郎です。予め担任の先生から連絡が行ってると思うけど、今日は宿題として出していた、好きな漢字、もしくは熟語と、その理由を教えてもらおうと思う。一人ずつ、全員発表してもらうからな」
これが、私が国語の教師になってから毎年行っている恒例の授業だった。
入学したばかりの高校一年の最初の授業で、好きな漢字か熟語を最低一つ発表し、その理由を説明させる。
「じゃぁまずは……荒本」
「はい! 僕の好きな漢字は轟です! 理由は画数が多くてかっこいいからです!」
教室中に笑いが起こった。なるほど、荒本という生徒は裏表の少ない性格のようだ。恥ずかしがらず、堂々と発表した態度からは実直さや素直さが見て取れる。
初対面の生徒の性格や考え方を知り、今後どう接するのが良いのか、クラス全体のバランスは勿論のこと、個々人にどう向かうかの方針を定める。それが、僕がこの能力の使い方だった。思春期真っただ中の難しいお年頃の生徒の心の中が覗けているのだから、これほど強力な武器はない。お陰で生徒や保護者、先生方からの評判は上々だ。
「あはは、轟、かっこいいよな。先生も好きだよ。画数の多い感じはロマンだと思う。因みに轟は二十一画だけど、日本で最も画数の多い漢字はなんと八十四画で――」
勿論、これは授業でもあるので漢字に関わるプチ知識を教えることも忘れない。まぁ僕が語りたいっていうのもあるんだけど。
その後、順々に生徒は自分の好きな漢字や熟語を発表していった。
「私は、花、です、……。理由は……お花が好きだから、です……」
この子はお花屋さんになりたいのか。高校生にもなってそんな事を言ったら馬鹿にされるかもしれない、なんて思っているのかもしれない。少し自分に自信がなさそうに見える。花屋は立派な職業だ。他校との野外オリエンテーリングや職業体験なんかを通して、そういう意識を芽生えさせてあげたいところだ。
「僕は、合縁奇縁です。理由は、あー……全ての出会いに意味があったら、それって素敵だなって思うからです」
さっきからこそこそ電子辞書で何してるのかと思ったら、今調べてたのか。
大方、四字熟語辞典の序盤から取ってきたのだろう。宿題を忘れたり、それを授業中にやってしまう態度は改めさせたいが、四字熟語辞典の一番目は「哀哀父母」で授業の内容にそぐわない。それを踏まえて二番目の「合縁奇縁」を選ぶ判断や、それっぽい理由をその場で考える頭の良さ、要領の良さは評価したい。うまく転がして、どんどんやる気を引き出したいところだ。
十数分後、最後の一人の番になった。
「じゃぁ最後、霧咲」
「はい」
えらく美人な子だなと思った。椅子を引き、立ち上がった、ただそれだけなのに、妙に艶めかしく見えた。高校一年生とは思えない、独特の色気がある。こりゃ同じクラスの男子は大変だなと思いながら、彼女の言葉を見る。
薄桃色の形の良い唇が開き……彼女は言った。
「私が好きな単語は……青です」
「――っ⁈」
なんだ、今の……⁈
文字が見えなかった。いや、正確には、何かの文字は出ていたのだが、把握しきれなかった。
こんなこと……生まれてはじめてだ。
僕はぶん殴られたような衝撃を受けながら、平静を装って口を開く。
「……あー、すまない霧咲。もう一度言ってくれるか?」
「分かりました」
「私は青が好きです」
そういう、ことか。
目を凝らして良く見れば、所々に文字が垣間見えた。ただ、あまりにも文字の中に込められた気持ちが大きすぎて、重なり合い、絡まり合って、文字として認識できなかったのだ。
もちろんこれまでにも、一つの文字や単語の中に、多くの想いを乗せる人にあったことはある。例えばそれは、亡くなった奥さんの名前であったり、自分の人生を変えた名著のタイトルであったり、大切な思い出が詰まった場所だったりする。
ただ、そうして出会って来たどんな人物よりも、彼女は「青」という一文字に並々ならぬ感情を、想いを、思念を、込めているようだった。
高校一年生、まだ十六歳だ。
一体どんな体験をすれば、人生を送れば、こんな言葉を発することが出来るのか。気になると同時に僕は少し……怖くもなった。
「先生?」
「あ、あぁ、すまない。えーと……そうだな、「青」か。シンプルでいいな。その文字が好きな、理由は何かあるのか?」
僕は気取られないよう、しかし恐る恐る尋ねた。
一体どんな理由が飛び出してくるのだろう……。
「特にありません」
そんな僕の気持ちを裏切るように、霧咲はさっぱりと答えた。
嘘を付くな、と思わず叫びそうになる。
たった一文字に込められた並々ならぬ想い。あれは最早、心の闇と言い換えてしまっても差し支えない程の重みをもっていた。
なぜ言わない? なぜ、隠す?
いや……これ以上深入りしない方がいいのかもしれない。
彼女、霧咲スミレは、間違いなく僕が今まで相手にしたことのないタイプの生徒だった。そして、僕に御しきれるかも分からない程に、理解できない相手だった。
「そうか。理由なく好きな単語があるっていうのも、いいものだな。青、と言えば、日本語には『蒼、碧、藍』と、色々と表現の仕方があるんだけど、どう違うか知っているか?」
だから僕は、彼女の闇に気付かなかったフリをして、にこやかに授業を進めることにした。一人の生徒への理解を放棄することに、そこはかとない罪悪感はあるのだけれど、だけど僕は聖人じゃない。万能の神でもない。
彼女に飲み込まれてしまえばきっと、クラス全体への理解がおろそかになる。だから許せ、霧咲。僕は君の心に、踏み入らない。君の青には、染まらない。
授業をつつがなく終え、僕は教室を後にした。
霧咲スミレ。
そういえば彼女は、入試で学校始まって以来の高得点をたたき出し、教員全員を沸かせた優秀な生徒ではなかったか。
聡明な子ほど裏では何を考えているか分からない、なんて言葉を、僕は今まで馬鹿にしてきたわけだけれど……どうやら撤回せざるを得ないようだ。
廊下を歩き教員室への歩を進める。休み時間だというのに、随分と人が少ない。
窓から中庭を見下ろすと、また人だかりができていた。あちらに皆行っているのだろうか。
体育担当の武田先生が、何か叫びながら生徒の群れの中へと押し入っていく。後で何があったか聞いてみよう。
「先生」
とんとんと肩を叩かれ、振り返る。
液体のように滑らかな黒髪。染み一つない美しい肌。少し吊り上がった、切れ長な目。
霧咲スミレがそこにいた。
「ど、どうした、霧咲」
さっきのことを思い出して、不覚にも口ごもってしまった。こんなことではいけない。少なくとも本人の前では、毅然としていなくては。
「授業内容で分からないことでもあったか? ……と言っても、今日は大した話はしてないけど」
「いえ、授業はとっても楽しかったです。ふふ……先生、漢字がお好きなんですね」
硝子でできた鈴を転がしたみたいな笑い声と共に、彼女は楽しそうに顔をほころばした。
色気とあどけなさが入り交じった、背徳的な美しさがある。犯罪に巻き込まれないよう十分注意して欲しいな、なんて、全く関係のないことを思った。
「あはは、そうなんだよ。まぁこれから一年、嫌というほど薀蓄を聞かせてやるから、覚悟しとけよ。二年生、三年生には、いらない知識が増えた、ふざけんなってもっぱらの評判なんだ」
「うふふ、楽しみにしてます。あの……ところで先生」
「ん、なんだ?」
彼女は、僕の目をまっすぐに見据えて、言った。その強い眼光は、自分から目を逸らすなと、主張しているようだった。
「顔が青いですが、体調、悪いんですか?」
「――っ。そ、そうか?」
「青」という単語に、思わず身構えた。その文字の中に、さっきのような濃厚な文字の羅列は見えない。
「えぇ……。その、さっきの授業中、だんだんと顔色が悪くなっていったので心配で……。最後の方は本当に真っ青でしたよ?」
見えない。
「今も青白いですし……。ちゃんと、青野菜とか、食べられてますか? 先生、今はご実家から通われてるんですか? 一人暮らし? ご飯、手抜きなんじゃないですか? 」
見えない。
「手軽に栄養を取るなら、青汁とかおススメですよ。あ、後ちゃんと朝、太陽の光を浴びるのも大事みたいです。青空が見える日は、窓の前で大きく深呼吸するといいんですよ」
見え、ない。
彼女は喋り終えると、そこで一呼吸置いた。
相変わらず、僕から目線は外さない。僕も目線を、外せない。
「き、霧咲……?」
「ふーん……」
流れるような動作で、彼女の両手が、僕の頬に添えられた。
ほっそりとした指が、そっと僕の両頬の上を這う。
「ねぇ、先生」
瞬間。
ぐっと彼女の両手に力が入り、霧咲の顔が近づいた。
咄嗟のことで、僕は彼女を振り払うことも、抵抗することもできなかった。
前かがみになった状態で、霧咲の綺麗な顔を目の前にして、僕は硬直する。
そして霧咲はゆっくりと口を開いて――言った。
「青」
「っ――!」
「青青青」
「や、め……っ」
「青青青青青青青青青青青青青青青青青青青青青青」
どさりと、僕は膝をついた。
先ほどとは打って変わって別人のような……いや、恐らく彼女本来の、妖艶で淫蕩な笑顔を浮かべ、呟く。
「やっぱり見えてるんですね」
「なんの、話だ」
「くふふ……とぼけたって無駄ですよ。私の青に反応してるのは、分かってるんですから。他でもない、青って単語だけに」
「……」
「ふーん……目を瞑ったら回避できるんですね」
彼女の「青」を間近で見るのは、想像以上に堪えた。
何の意味合いが込められているのかは、未だ分からない。
けれど、濃厚過ぎる感情の奔流に、脳を芯から揺さぶられるようだった。目を瞑らなけば、どうにかなってしまいそうだ。
「先生、単語や熟語に込められた意味を見ることが出来る体質なんでしょう? だからあぁやって、新入生に発表させてる。聞きましたよ、あれ、毎年やってるんですってね? そして先生は生徒の心をつかむ名人とまで言われている。生徒の人気も保護者からの人気も良好。くふふ……こんなの、気付くなって方がどうかしてます」
たったそれだけの情報で、僕の突飛な体質に気付いたというのか。化け物じみている。
「君以外には……気付かれなかったさ」
「ご愁傷様です。相手が悪かったですね。折角ですし、教えてくださいよ。私の青に見えている意味を」
意識が朦朧としてきた。早く解放されたい、その一心で僕は答える。
「分からない」
「嘘ばっかり」
「本当だ。何か、とてつもない想いを抱いているのは分かる。だけど、それがあまりにも強すぎるせいか……認識することができないんだよ」
「……なるほど」
彼女は頷き、しばし沈黙した後……いいことを思いついたとばかりに、再び笑顔で言った。
「なら、これならどうでしょう」
「何を……」
「ね、せんせ。こっち見て?」
「……」
「見て?」
僕が目を開いたのを確認すると、彼女は言った。
「死」
驚愕した。戦慄した。そして……理解した。
彼女が「青」という文字に込めていたのは。
重なり合い塗りつぶし合い、互いが互いを覆いつくしてしまう程に詰め込まれた想いは。
『青青青青青』
「そんな、馬鹿な」
「くふふっ、理解してもらえたみたいですね。せーんせ」
「君は、一体……」
一体どんな体験をすれば、そうなれるんだ。
一つの文字が、他の概念に置き換わる、なんて。
青が死になるくらいに、死が青になるくらいに、その間の境界が揺らぎほつれ、なくなるような。
そんなの……それこそ、青に殺されるくらいの体験をしなくてはならないはずだ。
青に殺される。
青に、殺される。
なんだそれは。一体どういう状況なんだ。
唐突に、チャイムが鳴った。
僕にはそれが、現実に引き戻してくれた、天の鐘の音のように聞こえた。
「あら残念、時間切れみたいです」
「……待て霧咲。まだ聞きたいことが――」
「また今度にしましょう? 楽しみは後に取っておくものです。それとね、先生」
彼女は続けて言った。
「このこと、誰にも話しちゃ駄目ですからね? 言ったら私、先生に何するか分からないです。例えばそう……先生を縄で縛りつけて、動けなくして、瞼をセロテープでがちがちに固めて、目を閉じられなくして、そんな先生の前で、ずーーーーーーっと呟き続けるかも。青って」
「……言わないさ、約束する。ただ、僕とも約束してくれ。必ず、理由を説明すると」
「あら素敵。いいですよ、約束します」
それではまた、と。霧咲は優雅に自分の教室に戻って行った。
その後ろ姿は、他の生徒たちと何ら変わらない、十六歳の背中でしかなくて。さっきまでのことが夢だったんじゃないかと錯覚してしまいそうだった。
「戻るか……」
二限に授業が入ってなくて良かったなんて、凡庸な考えを抱きながら、僕は職員室へと歩を進めた。進めようとした。
「奏先生!」
「武田先生? どうしたんですか、血相変えて」
前から慌てて走ってきたのは、体育担当の武田先生だった。そういえばさっき、中庭で生徒達の中に入って行っていたっけ。嫌な予感がした。
「どうしたもこうしたもないんですよ! 死体が!」
「し、死体⁈」
「えぇ、猫の死体が中庭の隅の方に転がっていて――」
「な、なんだ猫ですか。驚かさないでください……」
主語を明確にしてから話して欲しい。てっきり、人の死体かと思って焦ってしまった。
その猫はかわいそうではあるが、仕方がない。手厚く葬ってあげよう。
「十三匹」
「はい?」
「死んでいた猫の数です」
「それは――」
常軌を逸している。少なくとも、自然に死んだのではないだろう。猫に有毒な餌がばらまかれていたのか、不良が面白半分に、ゲーム感覚で殺したのか。
いずれにせよ、確かにそれは由々しき事態だ。
しかし……武田先生はさらに驚愕の事実を口にした。
「しかも、十三匹全て、ペンキに溺れて死んでるんですよ」
「ペンキ、ですか?」
「えぇ、青いペンキです」
「――っ!」
その瞬間、僕の脳裏で様々なことがつながった。
霧咲スミレ。
彼女は青に殺されたんじゃないかと思うくらいに、青と死を重ね合わせていたけれど。
もしそれが、青で殺しているからなのだとしたら。
青い何かで、命を奪い続けているからなのだとしたら。
説明がつくのではないだろうか。
「『ブルーキラー』なんて名前が生徒の間では広がってるみたいで、今から至急職員会議を……どうしました奏先生?」
「いえ……行きましょう」
霧咲、君がやったのか?
君が殺したのか?
ぐるぐると渦巻く思考の中、 僕は彼女の青に、染められてしまうかもしれないと、そんなことを思った。