点と線 「モナドの声を聞く 序文」
わたし達の科学は
人間が点と線とを覚えて
それを利用し始めてから、
大きく進歩しました。
それは人間が
数字を活用する技術
「数学」の誕生です。
わたし達はこの数列の上を
行ったり来たりしながら、
公式を見つけ出したり、
解を探したり
まさに正しさの基準として
数学を利用して来ました。
線は無数の点のつながりであること、
点は二本の直線の交わった一点であること、
線はその長さによって範囲を表すことができることなど、
点と線の運用は
わたし達の科学の出発点にあります。
そんな数学の基本でありながら、
数列と公式によって
わたし達の世界の全てが理解できると、
ほとんどの物理学者達は考えています。
それは正しくもあり、
けれども大きな間違いです。
点と線の概念は確かにあります。
そしてそれを活用することは
決して間違ったことではありません。
けれども我々が数学で利用する数字や数列は、
計算の前提として作り出された「道具」であり、
これは0という数字にしても同じことです。
わたし達には科学に対する信頼として、
数学が知識の前提になるという認識や、
その理解があります。
しかし数字や数列は、
人間の文化や歴史としての側面も色濃く、
それは理論的な哲学のひとつに
過ぎないということを
わたし達はまず理解しなければなりません。
つまり普遍の真理を表すと
考えられている方程式でさえ、
その根底には人間の考え方や捉え方といった
思い込みが先立っているのです。
例えばこれから
数字の0についてのお話をします。
0は特別な点として用いられ、
数列の基準ともなる特別な数字です。
しかしこれさえも人間の発明品であり、
「数字や数列」と、「点と線」の概念は、
重なりさえすれ
それは決して同じものではありません。
まずその事実を確認するために
この特別な点である0と、
その他の点との違い、
例えば無理数や他の整数などとの違いを
調べていきましょう。
そこに数列に隠された真実があります。
それが点と線の持つ「本来の自然科学」です。
では本題に入る前に
そのことについて少し語らせて下さい。
わたし達の先祖の数学者達は
「点が何かを知らなかった」ために、
点にその呼び名となる記号を与えました。
それ以来わたし達は
やはり「点が何か」を考える前に
「存在する記号」として
数列を理解するようになりました。
わたし達のおかした大きな間違いは、
点に記号を与え
「存在するもの」
として理解したことです。
「前提のある科学」は
最後まで前提を残したままになります。
「0は無いもので、点は存在する」
その前提に疑問を感じることもなく
そこから始めることによって、
わたし達人間は
大きな弊害を(もちろん利益もですが)受け取ってきました。
これは「この世界は神様がつくった」と、
そこから始まる疑似科学と
何ら変わることがありません。
その事実を理解できた時、
道具としての数列の問題点も
数字を科学の基盤として活用することの課題も、
おのずから分かってくることでしょう。
正しい理解がなく、
わたし達がただ「それが正しいから」と
覚えこんできただけの知識に、
きっと驚かれるに違いありません。
だって誰も本当のことを知らずに、
これまではただ勝手につじつまを
合わせてきただけのことだったのですから。
結論から申しますと、
わたし達の科学は
まだ始まっていません。
「本当の科学」を始めるためには、
わたし達には
正しい知識が必要です。
これはそれを理解するための学習です。
では数字の0に
話を戻しましょう。
0は最も特別な点であり、
科学と同じ距離に哲学的な意味も漂う
不思議な数字です。
まずはこの「0という数字」の持つ意味から
探っていきたいと思います。
0は「あるのか、ないのか」と
よく疑問視されています。
けれども0を置くことによって
数列全体を始めることも出来る、
全てのものの基準点が0です。
0を境に正反対の異なる世界が表記されます。
正にあらゆる数字の中庸にあり、
世界のど真ん中に位置する点が0です。
「数列が存在する」こと自体が0に由来し、
0は全ての点の支配者ともいうべき
圧倒的な概念を持ちます。
全ての始まりが0なのです。
「0を置くこと」自体に、
基準を決める人間の意志が反映されています。
では0は、
どこに定めることが正しいのでしょうか。
ただこの「0に付けられた意味」、
つまり「0はあるのか、ないのか」議論には
けっこう簡単に結論が出せます。
0の概念は「ないものがある」で正解です。
何故なら0を置かなければ「全てがない」からです。
「0がある」ということは
数列もある、ということです。
そして「0という言葉」自体は
「あるのにないもの」ですよね。
まあ、これらのレトリックには
特に重要な意味はありません。
しかしこの0は、くせものです。
0は「あれば便利だから」という理由で
人間が勝手に創り出しました。
そして0は、
数学的には大変役に立ちます。
けれどもその圧倒的な支配力は、
0を使用した途端に
世界を半分に折り曲げて、
正負の概念を強制的に作り上げてしまうほどの
強烈なものです。
数字の0は道具ですよ?
昔の頭の良いインドの方が考え出しただけの人工物です。
しかし数列に0を置くだけで
既にその世界観だけで、
数列世界全体に先に
同じ結論を与えてしまうのです。
では0は、
一体どこにあるべきものだったのでしょうか?
0を使うことによって
先に導かれてしまう結論。
マイナスの世界がある!
という概念は、
計算の結果ではなく
実は0を使用した時点で
「最初から決められている」
約束事です。
全ての数字の合計値は0!
これも0を起点とする数列によって生まれた
前提としての決まり事(哲学)です。
本来数列ではないものの「全て」に
0を使っても、
本当に良かったのでしょうか。
マイナス2個のリンゴが
「足りないことを表す表現」ならまだ良いでしょう。
しかし2個のマイナス属性のリンゴが現実に存在する、
などという解釈になれば
目も当てることはできません。
けれどもまず
最初に理解して頂きたいことは
「ないものが存在する点」が0です。
0の概念の正体は
「ないものがある」
これで正解です。
このようにあまりにも特別過ぎる点0は、
明らかに他の点とは違います。
しかし0は
この宇宙に最初から存在した起点などではなく、
後付けにその意味を考え出された道具であることを
覚えておいて下さい。
それは真理を発掘した結果
発見されたものでもなく、
どこにでも存在する「何かの模造品」であることも
すぐに証明します。
では次に
0以外の他の点にはどんな意味があるのか、
あるいは他の点はどんな概念を持つのか、
それを見ていきます。
まず1番に
考えてみたいのは無理数です。
無理数の代表格は円周率ですね。
これはπです。
およそ3です。
3.145926535897‥
無理数は小数点以下に
予測のつかない数字が延々と続く点です。
まさに終わりの来ない、
決してたどりつくことの出来ない点、
それが無理数です。
けれども無理数もきちんと
「そこにある点」なんですね。
たどり着けないからといって、
円周率が「存在しない」訳ではありません。
簡潔に表すことが出来ないから記号で、
もしくは数式のままで、
そこに「存在すること」を表しているだけなのです。
でも数字であらわすと、
無理数には本当にどこまで行っても
決してたどりつくことが出来ません。
というか、無理数は
絶対にたどり着くことのできない点です。
「そこに確かにあるのに、
どこまで行っても確定することのできない」点、
それが無理数です。
だから「存在する円周率」は
記号で表記するしかないのです。
ここで大事なことは
円周率に代表される無理数は
「存在しない」訳ではないということです。
単に数字で表記出来ないだけであり
ちゃんとそこに「存在する点」だという認識です。
この「存在する点」を理解するために
今度は循環小数を考えてみましょう。
0.333…と小数点以下に
同じ数字がエンドレスに続く点、循環小数。
循環小数も
確かにそこにあるのに
「少数点以下の表記」では
やっぱりたどりつくことは出来ません。
けれどもこの循環小数は
1/3と分数表記にすると正確に確定することが出来ます。
これは3倍すると1となる数字で
キチンと安定してますよね。
0.333…と1/3は「同じ点」です。
このように少数表記では
決してたどり着けない点「循環小数」も、
分数表記でならちゃんと確定する事ができました。
これは循環小数も
円周率と同じように、
たしかにそこにある「存在する点」だからです。
しかし、どこまで行っても続く
「終わらない一つの数字」が、
確定された状態で「存在する」とは
一体どう言うことなのでしょうか?
1/3と確定できる点と
0.333…と表記しきれない点が、
同じ点である、とは、
一体どういう理屈なのでしょうか?
片方では確かに存在する点が、
基準を変えることによって存在出来ない点になる、
ということですかね?
いやいや、どちらも同じ点であり、
それは存在する点ではあるけれど、
数列が対応できてないだけでしょうか?
そこでいま一度、
我々が最も安心して確定することの出来る点、
「普通の整数(自然数)」の性質を確認しておきましょう。
数列上のいたるところに均等に配置され
確かに存在する信頼できる点、
それが普通の整数(ここでは自然数のこと)です。
あるのかないのかわからない前者たち
終わりの見えない無理数などと比べると、
ややこしくもなく、潔ぎのよい普通の数字です。
わたし達も
整数はどこにありますか?と聞かれても
ここです!と
自信を持って示せることでしょう。
えっ、どこですか?
あなたの指の先に!?
よくわかりません!
よくわからないのでその点を
1000倍ほどの大きさに拡大してみるとしましょう。
先ほどあなたが示した小さな点は、
結構大きな円であったことがわかります。
これは点ではありません。
おそらくその拡大された黒丸の中心に、
点の本体はあるのでしょう。
ではその円の中心をもっともっと、ずっと、
出来る限り拡大してみましょう。
「整数の場所」にあった確かな点は、
果たしてその中にもありますか?
いえ、何度くりかえしても、
幾らくりかえして見ても、
点の本体は見えて来ません。
1.0000…
2.0000…
3.0000…
つまりわたし達が
確かに存在すると思っていた普通の整数も、
実は決してたどりつくことの出来ない、
「循環小数の仲間」だったのです。
「確かに存在するのに、
何処にも見つからない点」
決して言葉のあやなどではありません。
全ての点が探せないことが事実です。
円周率が記号で表わすことしか出来ない点だったように、
あるいは分数で表せる点がエンドレスな循環小数だったように、
実は全ての整数も
記号で表わすことしか出来ない点だったのです。
例えば、1や2や3といった「記号」でしか‥
「確かに存在するのに
何処にも存在しない点」
それが数列上の「全ての点」に与えられた
本来の性質です。
それは例え
わたし達に何と名付けられようと、
変わることのない「事実」として存在します。
無理数や循環小数だけが特別な「存在しない点」
ではなかったのです。
整数を含む全ての点が
決して確定することのできない
「存在するのに存在しない点」です。
円周率は何処にあるのか?
終わりのない数字に向けられてきた
わたし達の疑問は、
本来は全ての数字、あらゆる点へと
向けられるべきものだったのです。
ではあの圧倒的な存在であった
「数字の0」は
どうでしょうか。
「何処にも存在しないのに、
確かに存在する点」0。
「何処にも存在しないのに確かに存在する点」0と、
「確かに存在するのに何処にも存在しない点」その他の全ての数字との
違いはなんでしょうか?
この両者に違いがありますか?
実は「0もその他のあらゆる点」も
全てが同じものなのです。
数字や0は、
もともと点や線を利用する為に
わたし達人間が発明した道具です。
しかし「宇宙に存在する線の概念」に
0はありません。
この世界に数字はないのです。
何より全ての存在する点が
「0と同じもの」なのです。
全ての記号や数字はわたし達人間が、
物事を理解しやすくする為の
勝手な約束事、ものさしです。
全ての点と0との間に違いはない、
と私は言いました。
線を構築する全ての点が0と等しい!
これが数字によって隠されていた
「本当のこと」です。
では何故そんなことになるのでしょうか。
点とは何か、
線とは何か、
わたし達はもう一度最初から
本当の事を理解し直さなければなりません。
「この点を1と呼びます」と覚えてきた
その前の段階から‥
それなくして「本当の科学」は成り立ちません。
はじめに0を置き
宇宙を折り曲げることの不自然さ、
基準点のない宇宙に
ビックバンなどという0点を持ち込み、
無理矢理の物理法則をでっち上げることの愚かさ、
このままでは人間の中心、知識が危険です。
科学はわたし達の「正しさの基準」です。
信じる為の宗教ではありません。
わたし達が理解するための知識であり
それが事実として
世界に対する理解となるのです。
世界から学ぶことが
本来の人間の科学であり学問です。
そして事実を歪めるものが
誤った知識であり
残念ながら「現代科学」です。
だからこそ世界の始まりから、
わたし達は本当の事を理解していきましょう!
点は無数に集まって線を構成します。
けれども全ての点は「位置を現す情報」しか持たず、
面積や長さといった「何かの部分」を持つことはありません。
では点は幻想(単なる情報)で、
存在しないものかというと
そうではありません。
何故なら「線から点を取り出すことは可能」だからです。
並行ではない2本の直線が交差した部分が
「点」です。
これによって
線の中に「点が存在すること」は
明確に証明されるでしょう。
点は「存在」します。
逆に「点」を正確に表記出来る表現も
「2本の線の交差した部分」以外にはありません。
このようにして
2本の線の交差によって
「線の中に点が存在すること」は
はっきりと理解できます。
点という概念は現実に存在します。
けれども点は「長さの部分」を持ちません。
線という「長さの概念」の中にありながら、
点は「長さの概念(部分)」を持たないのです。
面積も長さも持たないのに
「確かに存在する」点。
わたし達の科学に欠けている大切なもの、
それがこの「実体」という概念です。
「実体」が哲学ではなく、
科学であることは明白です。
そして「数字」が科学ではなく
哲学だったのです!
数字ではない、
この「実体」を基盤として
わたし達の科学は
そこから始まらなければなりません。
よく分からないからといって
怖がらなくても結構です。
「実体」とは「点」のことですから。
体積も面積も長さも持たないのに
確かにそこに存在する点、
それが「実体」です。
わたし達はこの実体が
何故点から始まるのか、
その謎を理解する必要があります。
何故、
面積も長さも全ての部分を持たない点が
存在することになったのか、
その現実を理解しなければなりません。
宇宙の始まりはビックバンではなく、
「出現した点」です。
先ほどわたしは、
全ての点と0の間に違いはない、
と言いました。
「この宇宙には何も存在しなかった」
これが始まりの0(原点)です。
つまり
「この宇宙には何も存在しなかった」
という0の状態が
「全ての点が存在する状態」と等しいのです。
無からビックバンが始まった訳ではありません。
無と等しい状態として点が無数に存在し、
それが線を構築したのです。
そして「全ての点が存在する状態」
は線です。
更に「全ての線が存在する状態」
は面です。
「全ての面が存在する状態」
それが空間なのです。
宇宙はこのように
「無と同じもの」として
誕生しました。
無と点は同じもの。
点と線が同じもの。
線と面は同じもの。
お分かりでしょうか?
この「同じもの」という現実がやがて
質量とエネルギーが同じもの、という
等価原理に繋がるのです。
無を理解すれば
原理を理解することまで出来るのです。
原理は決して前提などではありません。
原理には原理たる理由があります。
理由のない原理が
間違っているのです。
宇宙は純粋でした。
ここに大統一理論が
生まれます。
科学は信仰ではありません。
どうか皆さん、
私のブログ
「世界の存在証明
無を理解する科学」から、
わたしと一緒に歩いて下さい。
わたし達は今、
現実を
正しく理解する必要があります。
あなたの視点、
「わたしの第3の瞳」を
どうかお貸し下さい。
そしてわたしの視点、
「あなたの第3の瞳」を
どうかご覧になって下さい。
では実体を科学として取り扱う物理学、
「モナドの声を聞く」の
連載をはじめます。
どうか皆さま、
よろしくお願い致します。
2017 11/19
The third eyes こと 富史見 和輝