あるべきものの不在と、不在の認識(ハウィル視点)
短めです。
予定通り夕方になって『塔』を訪れた魔導卿は、研究員たちの歓迎振りにいささか驚いているようにも見えた。
「何があったんだ」
わずかに驚いたような声音で質問した魔導卿に、
「卿に質問したい魔術狂どもが、手薬煉引いて待ってます」
とハウィルが教えると、
「……ああ、うん、先日はやりすぎたかな」
めずらしく魔導卿が反省していた。
塔を訪問した際にはディルク研究員をはじめとした相手に、魔術に限定した議論をしていたらしい。双方にとって有意義であったらしく、どうやら熱が入りすぎていたようだ。
「質問の時間をとっていただければとの希望も出ておりますが、後日再調整の方向で話をしても?」
「そうだな、今日は調査が目的だ」
少し苦笑気味に応じてから、魔導卿は目的の部屋に足を向けた。
『塔』という名前で誤解されるが、『塔』はその名の由来になった5階建ての建物を除けばすべて、普通の建物が並ぶ近代的なつくりになっている。最古の建物である塔を中心に持つ広場の周囲を3階建ての建物が囲んでいる構造で、ライゼの部屋はその周辺の建物である北館の、地下一階の北側にあった。
建物の周辺を掘り下げることで地下にも十分な光が入るようになってはいるが、室内の空気はじっとりと冷たい。
「資料類は運び出したのかな」
部屋を見渡した魔導卿が、まずそう質問していた。
「いいえ、そのままで維持しております。こちらで魔術をお使いになるのに制限はございません、ご確認ください」
応じたのは、案内役の『塔』の魔術師だった。
「魔道具を使わせていただければ十分だよ。ああそうだ、ここを掃除したかどうかも教えてくれるとありがたい」
「『塔』としては実施しておりません。研究員本人が清掃の手配をすることになっておりますので」
案内の魔術師が、埃っぽさに咳をこらえながら返した。
本棚に積もった埃の様子から判断する限り、研究室の掃除が行われた様子もあまりない。窓もしばらく開けられた様子はなく、窓にはめられたガラスもすっかり曇って、陰鬱な雰囲気を増していた。
そして床には魔法陣用の専用紙が広げられ、そこには一風変わった陣が描かれている。数箇所に焦げ後があるのは、失敗したものだからだろう。紙の端には、血痕と思われるどす黒い染みも残されていた。
「ライゼの借りていた下宿は、人をやって抑えてある。私物はあちらに置いてあるようだな」
魔導卿がそう言いながら、いつのまにか寄ってきた黒くて丸い魔導具を掌に収めた。
ゆっくりと宙に浮かびながら移動するそれは、高性能の写真機だ。魔導卿が銀塩写真と呼ぶ一般的な写真機ではなく、半魔術式で精密な画像を残す性能を持っている。指示されてハウィルが室内に放っておいたものだが、どうやら撮影は終了していたようだった。
「これ以外に魔術を行使した跡がないように思うんだが、ライゼの研究はなんだったんだ?」
「表向きは、古代ラソ王国時代の空間魔術です」
「表向きというと?」
「成果が出ておりませんでしたので。文献も集めておりませんし、形だけだったのでしょうね」
「ふむ。集めていない、というのが良く判らないのだが」
本棚に目をやっているところから察するに、魔導卿にはこの部屋に『ない』ものが判らないのだろう。
魔導卿は魔工技術の開祖とも言うべき人だが、古典の知識には疎い。
ハウィルと案内の魔術師の視線がなんとなくぶつかり、ハウィルは相手がいささか驚きながらも、どこか安心したような表情を浮かべているのに気がついた。
「それは彼のほうが詳しいと思いますが」
ハウィルでも説明できる事ではあるが、今後のための心証も考えれば、ここは『塔』の魔術師に任せてみるのも良いだろう。
「ああ、説明をお願いできるかな」
魔導卿も特に反対する様子を見せず、ハウィルの提案に乗ってきた。
「はい。実は、ライゼ研究員は古代ラソ王国研究にあたって必携とされる、バーノの古典魔術文法集を持っていないのです」
「ああ、必須文献がないのか。それは誰でも持っている?」
「古代諸王国の研究をするのであれば、バーノの古典魔術文法集の他にも、ラタイの古代文字画集、サグーの古代魔術論大系は欠かせません。もちろん学生であれば図書館で借りている者もおりますが、研究員ともなると私物で所持していることがほとんどです」
「その、ラタイやサグーも無い?」
「はい。これでは、古代魔術を研究していた者の本棚とは呼べません。古代ラソ王国を研究対象とするなら、バーノを加えて3人の著作は持っているべきなのです」
「本が薄くて隠れてる…という事はなさそうだね」
確認のためにありえない事をあえて聞いたと、明らかに判る口調で聞いた魔導卿に
「全てを並べますと、本棚の棚が一段必要になります」
と、魔術師がしめくくった。
「ふむ、ありがとう。参考になった」
「この程度でよろしければ」
うやうやしく一礼した魔術師は、胸に当てた右手で『師との問答に感謝いたします』のサインを作っていた。
もちろん魔導卿には通じていないが、魔術師なりの礼儀だろう。『塔』の内部には独自のやり方がある。
「ハウィル君、君には『ここに存在しないもの』を含めた、研究室内の異常の報告を頼む。伝統的魔術師としておかしな点を中心にしてくれ」
「かしこまりました」
ハウィルとしても無論、否やはなかった。





