大きな謎と、ちょっとしたトラブル(岸家視点)
岸家の朝はそれなりに早い。
夫は7時には出勤するし、まだ大学生の娘も一限目がある日はその直後に家をでるので、8時を過ぎると家に誰もいないのはごく普通のことである。
そんなわけで岸美帆が異常に気が付いたのは、娘の支離滅裂な電話がかかって来た時のことだ。
迷子になった、と話している途中でバッテリー切れになっても最初は軽く受け止めて、何をしているんだかと思った程度である。
その後に娘のスマホは充電させてもらったそうで、また連絡はしてきたものの、やはりわけのわからない事態であることに変わりはなかった。
「あんた、今どこにいるのよ」
『サービスエリア!』
場所を聞いたら関越道だった。
「どこで迷子になってんの?」
『だから言ったじゃん、わけわかんないって!』
「自慢することじゃないでしょ」
ジョギングに出たはずなのに、なんで北軽井沢なんかにいたのやら。
『とりあえず、あとは一気に家まで行ってくれるって』
わざわざ位置情報と写真付きで連絡を入れさせて現在地を教えてくるあたり、保護してくれた男性はかなり気を使ってくれたようだった。
帰ってきてからも娘の話はさっぱり意味不明だし、送ってきてくれた男性もたまたま彩夏を保護しただけで、事情は良く判っていないらしい。
移動自体が怪奇現象じみていて、警察に届けるべきかどうかも謎だ。
というわけで美帆は判断をいったん保留し、午後のパートに出かけることにした。
娘のテンションは高かったが、これは驚きが過ぎた反動で興奮しているだけだろう、と親の勘で察して、家にいるように言っておく。
夫には定時で帰って来てくれるように一報を入れておいたので、ちゃんと早めに帰宅していた。
そして
「あら、あんたも帰ったの」
普段は一人暮らしの息子も帰宅していたので思わず言うと、
「親父に連絡貰ったんだよ。というか相変わらずひどいよ、それ」
そう、すかさずツッコミが入った。
夕食の準備はとりあえずなんとかなるだろう。息子も理解していたようで、惣菜を買ってきていたし。
「なんで山の中にいたのか、全っ然わかんない……」
娘が家を出た時刻と美帆の通話記録を見比べても、とてもじゃないが160kmも移動できる時間ではない。
「わけわかんないなー……」
話を聞いた息子も、首をひねっていた。
「ホントにそんな田舎にいたのか?」
夫が疑うのも無理はないだろうが、娘は友人に連絡する際に位置情報を付けて送信しており、その点も疑う余地は無かった。
ついでに言うと、送ってくれた男性の片方が買ってくれたというご当地アイスの写真もあり、どこからどう見ても偽装には思えなかった。
というか峠の釜アイスなんてものがあるなんて、家族全員、今日まで知らなかった。
「うーん、やっぱり本当に山の中にいたとしか思えないよな」
唸りながらも現実として対応しようとしているのが息子で、
「もう一度、先方に話を聞くか。連絡先は貰ってるんだよな?」
夫は慎重だった。
「貰ってるわよ。はい、これ」
「会社の名刺か……あれ、この会社」
夫が息子をつついた。
「おい、おまえんとこのだぞ」
そういえば息子の勤務先は名称が変わったのだった、と美帆が思い出しているところで、
「え?……あ、これ、ゴルゴじゃん」
息子がなぜか驚いていたのに
「え、なにそれ。ていうか知り合い?」
娘も驚いていた。
「うん、会社の人。渾名がゴルゴ。雰囲気似てるから」
「なにげにひどくない、その渾名」
「だってなー、前は海外で誰にも言えない仕事してて、その引退理由が大事故って話だし。それにあの体つきだし」
「細マッチョだよね」
「だろ?あれで昔からエンジニアやってたとか、考えにくいんだよね」
彩夏を送って来た2人のうち、若いほうの男性の事だった。
見た目は30代終わり頃といったところで、かなり落ち着きのある雰囲気だったが、体格までは美帆は気にとめていなかった。
「2人とも、親切なおじさんだったけど」
「面倒見はいいんだよ、あの人。時々怖いけど」
「アイス買ってくれたのも、ゴルゴの寺井さんだよ」
「イメージあわないし」
息子がけらけら笑いだしたところで、
「……職場では信用されてる、て事で良いのかな」
子供達の会話を、夫が遮った。
「あ、うん」
「話を聞きたいな。電話番号は判るか」
「電話よりもネット回線の方が確実かな」
ネット回線、の一言に夫がしかめっ面になった。
「ネットしか使わないのか。連絡を入れるより先に、もうちょっと詳しい人柄を聞いておきたいな」
「オレもそんなに知らないよ?在宅勤務が多い人だから、あんまり会社こないし」
「それで仕事になるのか」
「開発担当だから、なんとかなるっぽい」
「会社にも行かないような人間、信用する気にならないな」
「父さん、頭古いよ。それに寺井さん足が悪いから、通勤ラッシュは無理だし」
息子にあっさりと言われて、夫が渋い顔になった。
「昔の仕事もはっきり分からないようなの、怪しいだろう。正社員になれなかった40代なんて、無能の証拠だ」
形勢不利と見たのか、夫が話をすこし変えた。
「あのねえ、あの人ロスジェネだよ?父さんみたいなバブル入社と一緒にしないでくれるかな」
今は新卒採用正社員でずっと同じ会社に勤めるなんて発想ないの。そうきっぱり言い切った息子に夫が何か怒鳴ろうとしたので、
「お父さん、やめなさいよ」
と、美帆は制止した。
眉をぐっとよせて唇を歪めるのは夫が怒鳴り始める時の特徴だから、解りやすい。
「お父さんの常識はこの子達に通用しないのよ。直樹の就活の時によく判ったんじゃないの?」
「だけどな!」
「お父さん、いい加減にしてよ。そんなんだから直樹が出てったんでしょう」
強く言えば夫が言葉に詰まるのは、いつもどおりだった。
「転職した人を無能だ無能だって言うけどさあ、父さん人のこと言えるほど有能じゃないよ」
「直樹も、手加減しなさい」
「しないよ。エクセルもろくに使えない人が、偉そうなこと言ってるのにさ」
「お父さんって、マジ昭和だよね」
娘にとどめを刺された夫は、いつも通りふくれっ面になった。
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誘拐で警察に届ける、会社にもいかない怪しい奴は逮捕させるべきだ、と恩を仇で返すような屁理屈を喚いた夫と息子が喧嘩をした後、娘がもう一人の人物について聞いたせいで、夫が警察に恥ずかしい電話をすることは無くなった。
なにしろ息子の勤務先の社外重役だ。息子の将来に差し支えるから止めるように言い聞かせると、夫もようやくあきらめた。
とはいえ相手と話をさせろとブツブツ言い続けているのは変わりがなかったが。
「相手にされると良いね?」
息子はあきらかにキレかけていた。
「私がどこに勤めてると思ってるんだ」
「え、落ち目の日本企業」
「ちょっと直樹」
「母さん、いい加減にしてくれない?そろそろ黙らせないと、彩夏の就職の邪魔するよ、この人」
「誰がそんな真似」
「父さんのせいで、採用取り消しが2つ出たの忘れたわけ?もうボケたの二人とも?」
息子の辛辣な言葉に、夫がむすっと黙り込んだ。
「でもね直樹、お父さんだって」
「親会社の社員ですが子会社の分際で落とすなよ、って馬鹿な電話かけたモンスターペアレントのせいで、オレ落ちたの。これ事実だよ」
「直樹、お父さんのキモチも判ってあげて」
「ふざけんな!」
バン、と大きな音を立てて息子が食卓を叩き、美帆は一瞬口をつぐんだ。
「母さんも、まともに働いた経験ないんだから、黙っててくれないかな」
「私だって昔はOLだったわよ」
「25歳までに寿退社した時代のね」
就活中に喧嘩していた時と同じ、親の言うことなど聞く気もない答えが返ってきた。
バブル就職組と今どきの若者ではジェネレーションギャップの無いはずもありませんね。
(なお、幾つかの実例を参考にしています)
そして在宅勤務という概念が理解できない人もいるのが実情です。
冷静に考えれば、寺井って怪しいオッサンそのものですし。





