古狸、子羊を面食らわせる。
「というわけで、彼が担当官に任命されたウルクス君だ」
タカハシ書記官の気楽な口ぶりに、内務省特別調査室のウルクス三等官は背中を伝う冷や汗を感じていた。
表情の読みにくい黒瞳でじっとこちらを見つめる魔導卿は、タカハシ書記官の物言いに怒るそぶりはないものの、どう思っているかはまったく読みとれない。
「彼についての連絡は行ってたよな?」
「ガディス卿がわざわざ書面にしてたよ」
ほら、と魔導卿は一枚の紙をひらひら振ってみせた。
……近寄りがたい空気の割に、やる事が普通の若手官僚と大して変わらない。
「証拠の保全は重要だからなあ」
しかしタカハシ書記官は何とも思わないらしく、ニコニコしながらそんな事を言っていた。
「これで牽制できるところに敵がいる、というのは、やりやすいのかやりにくいのか、どっちかねえ」
書面にしたという事は言うまでもなく、魔導卿が公式に関与する、と示したという意味だ。
この国の人間でなくとも、それを有り難いと思う者は少ないだろう。物騒な大魔術師にはできるかぎり遠くに居て頂きたいものだが、ウルクスの立場で口を挟めるものではない。
「遠慮なくやってくれ」
「私は直接やらないぞ?」
「うちの若いのを貸してやるから」
低い位置から手を伸ばしてウルクスの肩をポンと叩いたタカハシ書記官は、いつもの倍増しの笑顔だった。
たいてい、ろくな事をたくらんでいない時の顔だ。
それを見た魔導卿は器用に片眉を上げ、あらためてウルクスに視線を移してから、僅かに口元をゆるめた。
「ウルクス三等官、君も災難な奴に目を付けられたな?」
「は、いえ……」
「魔導卿を越える災害級になった覚えはないけどなあ?」
頼むから煽らないでくれ、とウルクスは顔面から血が引くのを自覚しつつ思ったが、魔導卿は
「80近いただのジジイを災害扱いするとは、おまえも酷い奴だな」
と、明らかに楽しんでいる様子で返していた。
「50年近く魔術師やってる危険物、ってことだろうが」
「せめて人間扱いしろよ」
「人間の範囲に収まってから言ってくれ」
怒らせるつもりだろうか。出来れば違うところでやって頂きたい。
「いやいやいや、この上なく平凡な人間だぞ、私は。というわけで有能な若者の働きに期待して、凡人の私は猛獣よけの看板でもやっていれば良いのか?」
「凡人の定義とは」
「つまり私って事だ」
「勝手に辞書の書き換えをするなよ、魔導師殿。そして働け?」
「人をこき使う事しか考えてないな、このクソジジイ」
「クソジジイはお互い様だろ。立ってる者は親でも使えと言うんだし、魔導卿なんかもっと使うべきだね。さてウルクス君」
物騒なじゃれあいから一転、タカハシ書記官がこちらに顔を向け
「今さら紹介する必要も無いと思うけど、これが魔導卿。普段はただの技術馬鹿だから、思う存分こき使って良いよ」
と、とんでもない紹介をした。
「は、いえ、あの……」
「若いのをいじるなよ、高橋」
苦笑した魔導卿のほうが、よほど穏やかな人物に見えた。
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まずやる事は書類仕事。
「君のいつもの仕事と、そう変わらないだろう」
たしかに、ウルクスの目の前にあるのは真っ白い薄手の紙に活字の並んだ書類だ。
しかし魔導卿は淡く光る幻影を浮かべて、それを眺めていた。
「今日の君の分は印刷したけど、次はこっちを使うかね?」
「いえ、魔術は使えませんので……」
慣れ親しんだ紙とは質感も全く異なるが、それでも紙は紙だ。
印刷したと言っているあたりはわけがわからないが(ウルクスにとって、印刷とは印刷工が活字拾いをして箱に並べるところから始まる、手間も金もかかる工程だ)、それでも得体の知れない魔術よりずっと使い心地が良い。
「馴れれば楽なんだが、まあ良いか。とりあえず問題点の把握と洗い出し、それから調査だよ。ところでこれまでの経過はどの程度把握してる?」
「エルガール伯爵とムンディ伯爵の政争ではないか、という所までは」
「国としての方針は?ムンディ伯爵の扱いをどうするか、と言う意味だけどね」
「……処分なさるおつもりではないのですか」
ラハド五世の身勝手が引き起こした大乱を収めた魔導卿は、この世界の監視役だ。召喚術の絡む問題については調停役となり、非常時にはこの世界の者どもを罰する任を負っている。
それ以外の政治的な役職は10年前に引退している魔導卿だが、この監視役だけは降りていない。
そして今回の不祥事は、処罰の対象となってもおかしくはないはずだった。
しかし、
「今のところ、私が出るまでもないだろう。新しい被害者が出たわけでもないのだし」
と、魔導卿はこともなげに言ったのみだった。
「もちろん、誰か新たに巻き込んでいたのなら、相応の処分を考えたよ」
「卿を巻き込みましたが」
「他の者じゃなくて良かったな」
あまりにも普通の口調で言われた一言に、かえってウルクスの背筋が冷えた。
「他の人間だった場合……」
「取り決め通りだ」
まるで今日の昼食を決めるかのような口ぶりに、ウルクスは言葉を失った。
この方にとって、違反者が処罰される事はたいした意味も無いのかもしれない。それがたとえ、戦乱の末に一国が滅ぶ事だったとしても。
青ざめているウルクスにしかし魔導卿ははっきりと苦笑し、
「ウルクス君、君は官僚なんだから官僚らしく割り切る方が良いぞ。取り決めに抵触する行為が無い限り、君らが片付ければ良い問題なんだから、私はいちいち首を突っ込んだりしない」
そう、穏やかに返してきた。
「しかし、取り決め通りとは……」
「新たな被害者を出した場合、我々は速やかに被害者を救出。召喚術実施者及び実施に責任を持つ者を処罰する、だな」
ゆるやかに右手を振った魔導卿の目の前に、もう一つの幻影が浮かび上がった。
「それは、伺っておりますが……救出が先、なのですか」
魔導卿が出した幻影は、召喚術使用禁止条約だった。
「救出が第一になる。その結果、責任者がどのような目に会おうとも、これは我々の責任にならない」
「何故です?」
監視役にして処刑者、が魔導卿の役割のはずだ。
しかしそれを指摘すると、魔導卿は穏やかに首を横に振った。
「我々はあくまでも、召喚被害者をこれ以上出さないためにやっているのでね。はっきり言うと、この世界の人間同士の事にとどまるのなら、口を出してやる義理はないんだ」
「……は?」
「もちろん、帰れなくなった被害者の居場所を確保するために、この国にも協力はしているがね」
「すると、今回は」
「私が処罰対象とする事項に該当するかどうかいささか怪しい上に、国内の政争がらみの事案だ。本来ならば君達で処理するのが妥当だろうな」
「……ずいぶんと、距離をとってらっしゃるのですね」
「判明している拉致被害者172名中103名が死亡、行方不明19名、後遺症の残った者32名だぞ?
しかも女性に限定すれば、一人を除いて全員死亡。これだけの被害が出ている以上、被害者連絡会としては君たちに肩入れする理由がないんだよ」
五体満足で生き残った被害者は18名。9割近い被害者は死ぬか、治らぬ傷を負わされた計算になる。
そういえば魔導卿も、と思い出したウルクスの視線に気がついたのか、魔導卿も机に立て掛けていた杖に目をやった。
「足がお悪いのでしたね」
魔導卿が不具の身であることは、よく知られている。
「帰国して治したが、まだ自由に走るまではいかないな」
「治せたのですか」
「それだけ文明に差があるという事さ」
皮肉な口調だった。
「こちらは未開の地ですか……」
「有り体に言えば、そうだね」
こちら側の常識で考えるなら、未開の蛮族が群れで文明人に害をなした場合、軍隊を指し向けて鎮圧するのが筋だった。
魔導卿からみればこちら側は本来、鎮圧されるべき蛮族なのだろう。
「巻き込まれた以上助言はするが、問題を解決するも迷宮入りにするも、君次第だぞ」
何の感情も交えない言葉が、ウルクスの胃をキリキリと痛ませた。
サエラ女王の把握している被害者数と被害者連絡会の掌握している数に齟齬がありますが、これはそのうち説明するという事で。