彼女の運命。
リリアーナは自分が偉大なる王の妻となり母となるのだと、物心がついた頃から知っていた。
誰に教えられたわけでもなく、それは自分もいう存在の奥深くから湧き出てくるのだ。
それこそが、お前の『運命』なのだと。
この世界にある全ての命は、地上と冥府を行き来し、何度も違う人生を歩むものと知られている。
そして、冥府から地上に新しい人生を歩む為に戻ってくる時、『時の神』クロノスから『運命』を与えられ、『冥府の女神』と『冥府の神』から『運命』を切り抜ける為の『祝福』と『試練』を授けられる。
『祝福』と『試練』は殆どの存在が自覚して、上手くそれを利用して人生を歩んでいくものだが、『時の神』によって魂に刻まれた『運命』を自覚している者は殆どいない。自覚することなく、流されるように自然と辿り着いていくのが『運命』だった。
遠い昔のこと、奴隷の父母の下に送り出された男の命には『王となる』という『運命』が授けられた。奴隷の子として生を受け、読み書きも出来ず、勉学をすることも許されず、ただ鞭に撃たれて労働に従事する奴隷として成長していった子供は、それでも人生の最期には"王"と呼ばれる存在となっていた。
『運命』とは、そういうものだった。
知らぬ筈の、己の『運命』。
時折、それを自覚している人間が生まれてくることがあるのだが、まさにリリアーナがそうだった。
リリアーナに与えられていた『運命』は、『偉大なる王の妻となり、母となる』というもの。
それを物心ついた頃から知っていたリリアーナは、そうであるように生きてきた。
民草に慈悲を示し施しを与え、王妃である為の教養を得る為に努力した。
血の滲むような努力を自分に強い、王妃に相応しい誇り高い行動を意識し、他者に侮られない美しさを磨き続けた。
『王の妻』になるという『運命』を与えられるに相応しく、リリアーナは国で王家に次ぐ歴史と権力を持つ公爵家の娘として生まれついた。王家にはリリアーナの夫となるに丁度良い年の近い王子達が居た。
リリアーナがする事は、二人の王子のどちらが王に相応しいかを考え、相応しいと感じた王子に寄り添うことだった。
なぜなら、リリアーナは『王の妻』になるという役目を背負っているのだ。
リリアーナはこの『運命』を、自分が王を選ぶのだと、何時の頃からか考えるようになっていた。
そして、両親達の話、貴族の間で語られる話に耳を欹てて、リリアーナは幼くも聡明な頭で、王に相応しいのは第二王子であると決めた。
そうと決まれば、妻として第二王子を支え導かなければと交流の機会を深める為に、王妃たる為の教育、民草に施しを与える時間を割いて、王宮に通い詰めた。
第二王子の為にと集まった貴族の子弟達の中に加わり、彼らが王の側近に相応しいかどうかに目を光らせた。
リリアーナが寄り添う事になる『偉大なる王』へと第二王子を導く為の、それも妻の役目だとリリアーナは考えていた。父である公爵も、第二王子の周囲に目を光らせるリリアーナの事を褒めた。そして、リリアーナが駄目だ、相応しくないと判じた子供を、そっと第二王子から遠ざけるのを手伝ってくれた。
リリアーナの目に適った友人達と共に第二王子を支える日々。
リリアーナの『運命』に添う、幸せな日々はそのまま続くとばかり、思っていた。
初めて彼女に出会った時、リリアーナはとても好ましい存在だと思っていた。
幼い頃から努力を積み重ねたリリアーナの周りには、同性で年の近いもの達はあまり居なかった。友人と呼べる者達は居たが、王宮での集いなどでしか顔を合わせれらないような貴族の子女達ばかりで、普段気安く会い、会話を弾ませることが出来る者はいなかった。王妃となるリリアーナの傍に近づくに相応しい人間がいなかったのだ。
でも、王宮の庭に居た彼女を、リリアーナは自分の傍に居てもよい人間だと判断した。王宮に仕えるという事は、それだけ身分がしっかりと保証されていて、何より有能でなくてはいけないものだ。
リリアーナとそう年の違わない、後から分かったところでは年下である、ホーグス家のキャロラインは王宮の主となるリリアーナの傍にあることを許される人間だと、判断出来た。
王宮を訪れる度に彼女の姿を探し、時には友人達との集いにも参加させてあげた。
でも、今となってからリリアーナは思うのだ。
それが間違いだったと。
何時ごろからか、リリアーナが居た場所にキャロラインが居た。
リリアーナが有能で見目も、身分も大丈夫だと判断した貴族の子弟達がキャロラインと言葉を交わすようになり、リリアーナが第二王子の婚約者となった時から彼女を護る為にと遣わされた女騎士シルビアも、何時しか暇を見つける度にキャロラインの傍に居ることが多くなった。
友人達はそれまで温かく見守ってくれていたリリアーナの努力を軽んじるようになった。
その日暮らしの民達の為に施しを行なう事も、貧しい地域で作られるものを使用するように促すことも、何もかもを「やり過ぎだ」「自分が与える影響を考えなければいけない」と苦々しく言うのだ。
勿論、リリアーナは王妃となる自分の影響力をしっかりと自覚していた。
そのおかげで、貴族達の間で民草に施しを行うものも増え、炊き出しを行うことで人々は嬉しそうに笑っていることを知っている。公爵家が懇意としてる商人達に指示を出して、貧しい地域の人々から仕入れを行い収入を与えてみれば、多くの商人達もそれに習って仕入れを行うようになった。
それらの何がいけないというのか。
それを始めに言い出したのがキャロラインであると侍女達から耳打ちされるまで、リリアーナは真剣に思い悩んだのだ。
どんなに考えても分からないそれが、キャロラインが仕掛けた嫌がらせ、友人達とリリアーナを引き離す言葉であると知れば、意味はなかったのかと考えることを止め、己が信念のままに動くことをやめなかった。
けれど、毅然とした態度で在り続けたリリアーナだったが、彼女の大事な第二王子までも、キャロラインに他とは違う色を持った目を向けるようになってしまった事に気づいた時には、動揺してしまった。
でも、そんな事で怒り狂う愚か者では、リリアーナは決してなかった。
何故なら、血を残すことが何よりも大切な王家の、王にとって側妃や妾を持つことは、必要なことなのだとリリアーナはちゃんと学んでいた。
大切なのは、王宮の女主人である王妃がそれらの手綱を握り、統率を取ってみせること。
王の子を生んだからといって頭に乗る女が現れた時にだけ、王妃は力を揮えばいいのだ。寛容に側妃達を見下ろしてみせ、王の子等を分け隔てなく観察すること。それが王妃に必要な心構えなのだと、母や教育係達から教えられ、それらを納得して飲み込む頭をリリアーナは持っていた。
でも、どうしても許せぬことを、キャロラインは第二王子に言わせたのだ。
リリアーナが決して許すことが出来ない言葉を。
「好きだよ、キャロライン。」
「ラシド様…その様なおふざけを軽々しく口にするものではありません。貴方にはリリアーナ様という婚約者がおられるではありませんか。何より、私はたかが子爵家の娘。その言葉は冗談でも嬉しく思いますが、それに答える言葉を私は持っていないのです。」
「王位を継ぐのなら、兄が居る。実際、伝統や自分達の地位に固執する貴族達以外の全てが、兄上を支持している。あの方の方が、俺よりも王に相応しいと皆が思っている。キャロライン、君が俺を受け入れてくれるというのなら、俺は王位も、王子という生まれも必要としない。君と共にあれるなら、平民として生きてもいいんだ。」
王宮の庭の奥深く、私が聞いているなんて知らない二人は、許されざる言葉を交えて向かいあっていた。
第二王子がリリアーナ以外の女性を愛したとしても、取り乱したりはしない。
政略結婚とはそういうものだと分かっているから。
だが、王位などいらないという言葉は許せるものではなかった。
『王の妻』であるリリアーナが選んだ『王』が、そうなることを拒むなんてあってはならなかった。
「私は『王の妻』になる『運命』なのに!どうして、『王』がそれを拒むのよ!」
人前で取り乱す姿を見せるなんて有り得ない。教え込まれたそれは無意識の内に彼女を屋敷へと帰らせた。
そして、自分の部屋で叫んだのだ。
己の『運命』を知っている者は、それを口外にしてはならない。
それは、命を地上に送り出す神々の話を耳にする時、絶対に添えられる言葉だった。
『運命』を人に聞かれてしまえば、それを利用とするもの、それを阻もうとするものによって、『運命』が穢されてしまうから、と言われている。
だが、怒りに我を忘れたリリアーナはそんな事も忘れ、叫んでいた。
決して一人になることのない貴族の屋敷の中で、隠す気もなく大きな声で。
その数日後、第一王子が命を落とすことになった。
王位を継ぐ者は第二王子ただ一人となり、病に伏せていた国王の病状は悪化の一途を辿った。
「私の可愛い娘。もうすぐ、お前は『王の妻』になるんだよ。」
父である公爵は、慌しさが際立つ王宮に第二王子を見舞ったリリアーナの耳元でそう呟いてみせた。
その半年後、一度も寝台から抜けることも出来ずに国王は崩御し、第二王子が王位に就くこととなった。
リリアーナは真っ白なドレスと、きめ細かく編み込まれたベールを用意して、即位の日を待ちわびた。
物心つく頃から湧き起こっていた『運命』が成就される日。
はしたないと叱責を受けようと、口から零れ出る喜びの歌を止めることが出来ない程、リリアーナはその日を迎えることを全身で歓喜していた。
けれど、リリアーナがその準備された全てを身に纏うことは出来なかった。
「筆頭公爵家は罪を償わなければならない。」
第二王子とリリアーナの結婚を民草に発表するとばかり思っていたその口から、耳を疑うような言葉を聞いたリリアーナは驚き、眩暈に襲われた。
罪として第一王子殺害の罪を筆頭に次々と上げられたが、そんなのは冤罪だった。だというのに、誰一人としてそれに異議を唱えることもなく、リリアーナの大切な友人達もただ冷たい視線を送ってくるだけだった。
反論することも許されず、拘束されたリリアーナ達。
懇意にしていた貴族達の冷たい視線に晒されながら、リリアーナ達は引き摺られるように連れ出されることになった。
リリアーナ達が放り込まれた、その身分に相応しくない牢屋から人目を忍んで助け出してくれる忠義の者達がいなかったら、家族全員、冤罪によって処刑の憂き目にあっていただろう。
逃げ出せたからといって、国内に留まるような暢気な事は出来なかった。
心ある者達の助けを受け、隣国へと命からがら逃れえれたのは、リリアーナ達が冤罪だと知る者が少なからず居てくれたからだろう。
そして、『運命』を穢され、受けなくてもよい仕打ちに苦しむリリアーナ達に、神々は救いの手を差し伸べてくれた。
皇帝に目通りする機会を得たのだ。
二十代半ばにして即位し、帝国を完全に掌握せしめている皇帝カルロは、元・公爵の主張を真摯に聞き届けてくれた。家族全員を城へと客人として招き、その無念を晴らすことに協力しようとまで申し出た。
そして、リリアーナに愛を囁いたのだ。
「まだ私が皇太子であった頃、王国に招かれ出席した夜会を覚えているだろうか。あの時から、足を痛めていることを億尾にも出さずに優美に舞ってみせた貴女に、私は心を奪われてしまっている。」
「…お、覚えております。貴方様だけが、椅子に座って休んではどうかと優しい言葉を掛けてくださいましたもの。」
「こうして貴女が我が国へ逃げ延びたのも、『時の神』が与えて下さった『運命』によるものなのかと、貴女には不快かも知れないが、私は喜んでしまっている。」
『運命』を重んじるよう生きてきたリリアーナだったが、それ以上に心を持った女だった。見目麗しい若き皇帝に、嘘偽りのない表情で愛を囁かれて揺らがないわけがない。
何より、彼女は己の『運命』を思い出した。
『偉大なる王の妻となり、母となる』という『運命』を。
若くして、巨大な帝国を支配する皇帝を、偉大と呼ばず何と呼ぶのか。
あぁ、私の『運命』は、この日のことを言っていたのか。
リリアーナは、はっきりと理解した。
「貴女を私の下に導いてくれたローランの王と、その侍女には、不謹慎だが感謝せねばならないな。だが、話を聞く限りには、その女は危ういかも知れない。」
カルロが一瞬見せた憂い顔がリリアーナの心を揺らした。
「危うい、のですか?」
「あぁ、この帝国にも同じような存在が現れたことがあったのだ。先帝の御世のことだ。『魅了の魔女』と呼ばれたその女は、老若男女問う事なく、目を合わせた全ての命ある者達の心を支配してみせ、自分の望みを叶え続けた。その魔女は騒ぎが大きくなった頃には自ら姿を消したのだが、後には何時までも彼女を思い続ける腑抜けに成り果て、身を崩したものも多かった。」
「まぁ…。」
「貴女や公爵の話は、どこか『魅了の魔女』の所業と同じに聞こえた。もしも、そうならば…王国は大変な状態にあるのだろう。」
皇帝カルロが詳しく教えてくれた話の数々は、確かにリリアーナが遭遇した事態にそっくりなものだった。
突然、現れた女。
それまでの関係を崩し、女を中心に構築され直していく。
誰もが女の言葉に動かされていく。
それはまるで、キャロラインそのものではないか、とリリアーナは思った。
そして、『王妃』として民草に慈愛を持ってきたリリアーナは思ったのだ。
『魅了の魔女』を許してはいけない、と。
自分が慈しむはずだった民達を、例え不当なる理由で命を脅かされ、国を追われたとはいえ、守らなくてはいけない、と。
「愛おしい人。」
カルロはそう囁き、リリアーナの強い決意に喜んで賛同してくれた。
やはり、この人こそが私の夫となる『偉大なる王』なのだ、と。
リリアーナはもう一度、確信を持った。
「私のリリス。ちょっと、いいかな?」
「まぁ、カルロ様。どうなさいましたか?」
明日に迫る『魅了の魔女』の処刑に思いを寄せていた、リリアーナから名を改めたリリスは、部屋に入ってきた夫に笑顔を見せた。
「君にどうしても目通りしたいという者達が来ているんだ。」
「誰でしょうか?」
「君にとっては、とても懐かしい人達だ。話を聞いた後、どうするかは君が好きに決めてくれ。」
誰だろう、とリリスは考える。
リリスが皇妃となったと知ったローランの、生き延びた元・貴族達がよく目通りを願ってくる。そんな恥知らずな輩であろうと予想しながら、リリスは差し出されたカルロの腕に自分の腕を絡ませて、部屋を出て行った。