私と彼女。
キャロラインの祈りは長く続いた。
どれだけ祈っても、願っても、彼女が区切りを着けるまで終わることはない。
それだけの罪を、キャロラインは犯していた。
そんな彼女に導かれるように、夫や友人達も大きな罪を犯してしまっていた。
真摯に祈る中、彼女はまるで自分が世界に一人だけのように感じられた。
それは、それだけキャロラインが祈りに自分を捧げていたことを意味している。
「そうね。全ては貴女が悪いのよ。貴女が現れたせいで、全てが狂ったの。でも、ヘルフィオーネに赦して貰おうだなんて、なんて浅ましいのかしら。赦しを与えて貰える程度の、罪だとでも思っているの?人々を苦しめて、伝統ある国を、私の故郷を壊しつくした貴女達の罪が!」
「リリアーナ、様?」
石畳は人の足音をよく響かせる。何時もなら階段を上ってくる途中で必ず気づくその足音に、集中していたキャロラインは気づく事が出来なかった。
何時ものように誰もいないと思っていたキャロラインは驚き、背後にある部屋の入り口を振り返った。
その声は、キャロラインにとって、忘れることの出来ない女性のもので…。
けれど、硬く閉ざされたままの扉は、彼女の声を部屋の中に届けてはくれたが、居るであろうその姿を見せてくれることは無かった。
「私の名前を、気安く呼ばないで!それに、リリアーナの名前はもう私の物ではないわ!貴女達が、貴女が私から全てを奪ってくれたせいで、ね!」
怒り、憎しみ、そして悲しみ。
キャロラインは、リリアーナでは無くなったという声にそんな感情を読み取った。
「公爵令嬢という地位も、築き上げてきた名誉も、家族も、私に仕えてくれていた侍女達も、騎士も、皇太子の婚約者という立場も、生まれた時から共にあった友人達も、全て、全て、貴女が奪っていった。」
キャロラインはローラン王国にとって重要とはいえない地域にある、小さな領地を与えられた子爵家の娘だった。普通ならば、そのまま年頃になれば同じような環境にある地方の子爵や男爵、もしくは貴族社会との繋がりを欲する商人に嫁いでいく、そんな人生を歩む筈だった。
切っ掛けは、父に持ち込まれ、キャロラインに話が降りてきた「行儀見習いに王宮へ上がってみないか」という話だった。
数年だけ、箔と経歴を作る為にと父にも命じられたキャロラインは、王宮で侍女として仕え始めたのが、全ての始まりだった。
当時まだ、王太子であったラシドと偶然出会い、様々な友人達とも出会った。
皆、優しい人達で、慣れない生活、仕事に苦しみ、疲れ果てていたキャロラインを励まし、助けてくれた。
キャロラインも、本当に嬉しかったのだ。
だけど、それがいけなかった。
友人達は皆、洗練とした仕草が自然と出てくるような、生まれながらの高貴なる方々。そんな方々に馴れ馴れしく関わるキャロラインは、王宮の人々や貴族達に、身分を弁えないと叱責を受けるものだった。
何よりも怒りを露にしたのは、友人達と身分も年齢も釣りあう令嬢達。そして、王太子の婚約者であった筆頭公爵家の令嬢リリアーナだった。
彼女が差し向けたとは今でもはっきりとは分かっていない。
それでも、当時のキャロラインには嫌がらせでは済まされない苦難や被害が、怒涛の如くに襲い掛かり、死を覚悟する場面も何度も訪れた。
それらの苦難を乗り越え後、様々助けを得てラシドを結ばれることが出来た頃、国内にリリアーナの姿は無かった。
その後、彼女の姿を見たのは、一月より少し前のこと。
災害や事件などが相次ぎ、王家や貴族と民達の間に大きな齟齬が生まれ始めてしまっていたローラン王国に宣戦布告に訪れた、フェルドル帝国の若き皇帝カルロの隣に寄り添って現れた貴婦人の姿に、皆が驚いた。
ローラン王国では揃えることも難しい美しく、華々しい宝石や、見ただけで最高の素材をふんだんに使ったと分かるドレスなどを身に纏った、輝くような笑みを浮かべたリリアーナが、戦神を祀る国の王に相応しい威厳と風格を放つ美丈夫の隣に、彼に大切な守られていると分かる様子で立っていた。
「ローラン王国の堕落と非道を、民達の為にも見逃すことは出来なかった。」
彼女は、優しく微笑んで彼女を振り返った皇帝の後押しを受け、立ち並ぶ王族、貴族達の前で堂々と宣言してのけたのだ。
何のことなのか、キャロラインには分からなかった。
分からないままに、ラシドや友人達の、君は何も悪くないという慰めと大丈夫だという言葉を胸に、王宮の奥深くで怯える日々を過ごしていた。
気づいた時には、侍女も護衛の騎士達の姿は無く、夫や友人達は傷だらけ。
そして、再び気づいた時には、彼女はこの塔へと入れられていた。
小さな窓から聞こえてきたのは、帝国を讃える民達の声。
皇帝の名を讃え、戦神に祈りを捧げ、そして戦いの終結と共に皇妃となった"救いの姫"に感謝の言葉を投げ掛ける声だった。
一度だけ、扉越しに色々な話をしていった、皇妃所有の領地の一部に組み込まれたというこの街の、管理を皇妃に代わって行うのが役目だという官吏から、多くの事実をキャロラインは知った。
自分が、夫と友人達と楽しく、平和で幸せな時間を王宮で過ごしている間に、国内で何が起こっていたのかということを。
筆頭公爵家がその地位を追われ、国内から姿を消していたこと。帝国に救いだされたリリアーナが、彼女を昔から愛していた皇帝の求婚を受けて皇妃となり、この国の民達に助けを与えてくれたのだということ。
「リリス様…」
「えぇ、そう。私は、リリス。建国王の賢妃の名は相応しくないと、国を追われる時に奪われた私に、カルロ様が下さった名前よ。今では、こんなにも愛おしい贈り物はないと思っているわ。」
それでも、リリアーナの名を貴女が口にすることだけは許せない、とリリアーナであったリリスは憤る声をキャロラインに聞かせた。
「こんなにも激しく、自身と故郷、民達を愛する君には、戦神と愛の女神の愛娘の名が相応しいと思ったのだが…、本当にピッタリだった。」
扉の向こうには、リリス以外にも人が居たらしいと、低く聞き心地のよい男の声を聞いて、初めてキャロラインは気づいた。
「カルロ様。」
「頑張ったね、私のリリス。あと、もうすぐだ。もうすぐで、全ての罪人が償いを終える。」
二人の声に、キャロラインはホッとした。
この国を得る為にリリアーナは利用されているのだ、と誰かが言っていたのを覚えている。そうなのだろうか、とキャロラインも今の今まで思っていたのだが、リリスがカルロだという男の声には、確かな愛情を感じられた。
良かった、とキャロラインは胸を撫で下ろす。
自分の罪を知ったキャロラインは、怒りも憎しみも抱くことは無かった。抱いたのは、ほんの少しだけの悲しみに、知らなかったでは済まされない自分の罪を背負わなくてはという苦しみだった。
そして、自分の上で鳴り響くことになる処刑の鐘を間近にした今では、キャロラインの胸中はとても凪いでいる状態だった。
「キャロライン・ホーグス。お前の処刑は明後日、執り行われることが決定した。残された時間、今まで以上に己の罪を悔い、被害に苦しんだ民達の為に祈るがいい。」
承知いたしました。
見えていないとは分かっていても、キャロラインは扉の向こう側にいる二人に対して頭を下げた。
深く深く、祈りを捧げていた姿のまま振り返っていたキャロラインは、床に跪いたまま上半身を床に押し付けるようにして頭を下げ続ける。
それは、二人の足音が小さくなり、聞こえなくなるまで終わらせることはしなかった。