励ましの報酬
透き通ったカゲロウの羽が小さく震えていた。中空に浮かぶ、身の丈40cmほどの人型をした生き物。彼の眼下には一人の幼女がベッドに横たわっていた。
「ううう……」
苦しそうに呻く幼女の右上腕静脈には点滴が施され、自動制御装置によって規則的に薬剤が注入されている。左足親指に巻かれたセンサーは、脈拍及び動脈血酸素飽和度を表示するモニターへと繋がれ、幼女の状況を刻一刻と表示していた。
幼女がうっすらと目を開けて、傍で自分の手を握りながら半睡する母親を確認した。連日の看病の疲れだろう、母親は椅子に座ったまま上半身をベッドに預けてぴくりともしない。
「あたし、もういい。いなくなりたい……」
幼女が声にならない心の声をこぼす。それを耳に拾った彼は、背中の羽を激しく震わせ、両の手を前に出して慌てたように振った。
「なにを言ってるんだ。頑張るんだ。明日になればよくなる。明後日になればもっとよくなる。手術は成功したんだから」
彼の言うとおり、幼女は先日、成功率20%以下と言われた困難な大手術を乗り越え、これから少しずつ容態が快方に向かっているところだった。
「だって苦しいんだもん。まだ痛いんだもん。どうしてこんなになってまで頑張んないといけないの? それにあたし知ってるもん。まだあと何回も手術しなきゃいけないってこと」
「それは…… それでも頑張ればよくなる。今は辛いだろうけど勇気を持って頑張ればよくなる。俺は何人も同じように入院して、苦しんで、でも元気になった可愛い娘ちゃんを見てきた。君はその中でも一番可愛い。だから大丈夫だ。それによくなればお母さんだって喜ぶ。お母さんだって元気になる」
彼は懸命に励ました。生きることは苦しいこと。辛いこと。体の痛みがなくなってもそれは変わらない。齢300を超えて生きてきた彼は痛感していた。幼女に伝えるに難しいことは承知で励ましの言葉を紡ぐ。
「……本当に、元気になるの? お母さん、もう泣いたりしない?」
「ああ、本当だ。約束する。絶対だ」
「じゃあ頑張ってみる。ママのために」
「そうだ、頑張れ。それと自分のために頑張れ」
「自分? あたしの、ため…… じゃあ、あたしが頑張ったら、明日、妖精さんは姿を見せてくれる?」
「む、むむ? むむむ? あ、ああ、いいとも。あ、明日? むむ、分かった。明日まで頑張ったら……」
彼は慌しく心に汗をかきながら約束の言葉を返した。返したものの発音はやや裏返り、動揺が残っていた。
室内の壁に飾られた一枚の絵。幼女が書いたであろう白いチューリップに移動しながら、彼はため息を漏らした。
幼女は喋り疲れたようで、すでにまぶたを閉じている。彼が表情を伺うと以前として苦しそうではあったが、堪えているように声を発してはいない。
彼は、幼女には見えない、見せていない自分の姿を確認する。その姿は一言で表すなら醜悪であった。長年の花の蜜三昧による栄養過多で突き出た下っ腹。常に羽で移動するために慢性化した運動不足。それに伴い退化したかのような短い手足。頭皮に申し訳無さそうに残る数本の白い髪の毛。
彼は知っていた。人間というのは身勝手なもので、妖精というとティンカーベルみたいな美しい容姿を思い浮かべる。時にはいたずら小僧をイメージすることもあるが、畢竟するに愛らしいものだと思っている。誰も彼のような中年親父は思い浮かべない。
加えて彼は幼い女の子が好きだった。訂正。幼くて可愛い女の子が好きだった。ベッドに眠る幼女に内緒で、寝汗を舐めて味わって悦に浸ったこともある。その際の彼の言い分は「だって好きだから」
その性分は、ある意味で字の如く正しい、まさに妖しい精の塊とも言えた。
そんな彼は自己防衛のために、いつしか人前に姿を晒すことをやめた。彼とて無様な姿を指摘され傷つきたくはなかった。つい流れに合わせて幼女と約束してしまったが、こんな変態メタボ妖精だと知ったら幼女は傷つくに違いない。彼は思う。よくも勇気を持って頑張れなどと言えたものだ、と。
――どうすればいい。どうするべきか。
彼は夜明けを迎えるまで苦悩を繰り返すこととなった。
明けぬ夜などなく陽はまた昇り、新しい一日が始まる。明日をも知れぬ患者もいる病棟とて例外はない。点滴やセンサーのチューブが繋がったまま、ベッドで身を起こす幼女。その額には苦闘を伺い知れる汗が光り、しかし表情は誇らしげに輝いていた。幼女は中空を見つめる円らな瞳をくりくりと動かして、彼を呼んだ。
「妖精さん、妖精さん。姿を見せて」
彼は幼女の目の前に浮かびながら、深く息を吐いた。未だ躊躇する心を鼓舞して、力を全身に込める。ぼやけながらも彼の小さな体の輪郭が幼女の瞳に映ってきた。
生きることは辛いこと。苦しいこと。でも頑張ればよいことはある。きっとある。たぶんある。あったらいいな。あってほしい。
「きゃぁーー! 変な肉だんごー!」
……とか叫ばれたら立ち直れない。崩れ落ちて地に伏せそう。それでも幼女を励ました手前、勇気を持って生きなければ。約束を果たさなければ。
彼は結末を脳裏に巡らせながら、結末の向こう側に向けてその身を現していった。
必殺! 結末は読者任せの術~!!
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