壬生心中
沖田は最近、咳がひどく出るようになったため、部屋へ閉じこもるようになった。
今日も沖田は仰向けに寝転び、じっと天井を睨んでいた。
その時、誰かが大声で叫ぶ声が聞こえた。
「?…」
沖田は体を起こした。
「…あの声は…まさか…」
沖田はゆっくりと立ち上がって、部屋を出た。すると、稽古着を着ている中條と山野が、暴れている四番隊組長の松原忠治を必死になだめている様子が見えた。
「松原先生!…お願いします!もう稽古のお時間ですから…」
「何度も言うが、私はもう柔術師範などではない!…近藤先生、土方先生に愛想をつかされた身で、稽古などつけられぬ!他の師範に頼むがよろしい!」
「松原先生!…どうかお願いします!」
沖田はため息をついた。
(また、松原さんごねてるのか…)
沖田は一つ大きく息をつくと、必死に松原を押さえている中條と山野に近づいた。
「あ…沖田先生…」
二人は松原から手を離して頭を下げた。その瞬間、松原が逃げようとした。
「松原さんっ!!」
沖田があわてて松原の腕を取ったが、いくら沖田とて、柔術師範の松原を押さえることなどできない。すぐに中條が松原の行く手をふさぎ、松原の体当たりをなんとか堪えた。
沖田が言った。
「松原さん…土方さんがおっしゃったことをまだ怒ってらっしゃるのですか?」
「何の話だ…?怒っておられるのは向こうだ!」
「そんなことはありません。…ああいう人だから謝らないけれど、どうか、許してやってくださいよ…」
「だから何の話だっ!?」
松原は沖田の顔を、鬼のような形相でにらみつけた。
中條と山野があわてて、沖田を守るようにして二人の間に入った。
「やめてください、松原先生!…沖田先生にまで、そんな…」
「先生…さぁ…道場へ行きましょう。」
「離せ!」
松原は中條と山野をものすごい力で振り払うと、その場を走り去った。
山野と中條は思わず追いかけようとした。
「待ちなさい…」
その二人を、沖田が穏やかな声で止めた。
「…今日のところはあきらめるしかないでしょう…」
山野と中條はその言葉に従い、沖田に向いた。
「…すいません、先生…。先生にまでご迷惑を…」
「いや…逆に邪魔をしてしまったようだ…。私の方こそすまなかった。」
山野と中條は恐縮して首を振った。
「…しかし、松原さんにも困ったものだな…」
沖田は嘆息して、松原の走り去っていた方を見た。
松原がこうなったのには訳がある。
…話は、三ヶ月ほど前にさかのぼる…。
……
四条橋 三ヶ月前のこと―
松原は、隊で祇園へ飲みに行った帰り、一人で芸者を連れて歩いていた。
いい気分で歩いていたが、四条橋に差し掛かったときに、通りすがりの浪人が何事かを呟いたのが松原の耳に届いた。
「ちょっと待て…。おぬし、今なんと言った?」
その松原の言葉に、浪人は驚きもせず「別に何も…」と答えた。
「いや、今何か言ったぞ!…「いい身分だ」とか何とか…」
浪人は「そんなことなど言っていない」と食い下がった。
しかし、松原の耳には確かに聞こえたような気がしたのだ。「言った」「言わない」の押し問答を繰り返すうち、酔っていた松原は、その浪人をいきなり叩き斬ってしまった。
「!……」
浪人が倒れてしまってから、松原は我に帰った。見渡すと、傍にいたはずの芸者もいなくなっている。
松原の心に後悔の念がおこり、すぐに浪人の素性を調べようと懐をさぐった。すると一切れの紙が出てきて、この浪人の名前と住んでいるところが書いてあった。
「…このまま、ほっておけんなぁ…」
そう呟くと、松原は軽々と浪人の遺体を担ぎ上げ、天神横丁にある、その浪人の家まで届けた。
すると出てきたのは美しい妻で、中には病気らしい子供が寝ている。松原が変わり果てた主人を担いできたのを見て、妻は驚いて声を上げた。
ますます後悔した松原だったが、その時「自分が主人を斬った」とは、どうしても言えなかった。
「絡まれていたのを助けようとしたが、助けられなかったので…これも何かの縁と思い…その…ここまで担いで来ました。…誠に…申し訳ない…」
まさか、松原が斬ったとは思わない妻は、夫にしがみつくようにして泣きながらも、首を振った。そして、松原に感謝した。
松原はその妻の姿に、一層罪の意識に苛まれ、いくらかのお金を渡して、その日は帰った。
しかし、隊でも「親切者」と評判の松原は、その後も妻にお金を渡したり、病気の子供のために医者を世話したりと面倒を見た。そのうちに、隊務の時間に遅れることもしばしばあり、やがて土方に知れる事となったのである。
土方は松原の様子から、すぐに嘘を見抜いた。
そして、これ以上隊務に差しさわりがあってもならぬからと自室に松原を呼び出し、
「人を斬っておいて、その妻をたぶらかした男がいるようだ」
とたとえ話のようにして諭した。
しかし、そのたとえ話の仕方がなんともまずかった。
松原は怒って部屋を出ると、そのまま自室に戻ってぴしゃりとふすまを閉めた。
…松原が怒って土方の部屋から飛び出した時も、沖田は体を横にしていた。変わり映えのしない天井を見つめていると、ばたばたとあわただしい足音が聞こえた。
「…また出動か…」
沖田はそう予感して、ゆっくりと体を起こした。その時、ふすまが荒々しく開け放たれた。
「沖田さん…!」
ふすまを開いたのは篠原泰之進だった。松原と同じ柔術師範であり、土方と対立する伊東派の一人である。はぁはぁと息遣いを荒くしており、顔色が土のように黒い。
「!?…篠原さん?どうしました?」
「…あの…えーと誰だったか…あなたんところの、大男…」
「大男は二人いますが、どちらの方でしょう?」
沖田は、少しふざけて答えた。篠原は頭を抱えながら、必死に大男の名前を思い出そうとしている。
「どちらかというと…剣術が下手な方の…」
「…ひどい言い方ですが…たぶん、中條君では?」
沖田は苦笑しながら答えた。篠原の目が見開かれた。
「そうだ!中條っ!!その中條はどこにいますか!?」
「さぁ…?大部屋にはいませんでしたか?」
「おらんのです!…くそぉ…あの体を運べる男ってあいつしか…」
「篠原さん、落ち着いてください。どうしたのです?」
「松原が、腹を切ったんです!」
沖田はそれを聞いたとたん、とびあがらんばかりに驚き、立ち上がった。
「!!??…松原さんがっ!?」
沖田は篠原をうながし、あわてて部屋を出た。
「傷は深いのですかっ!?」
沖田は足早に歩きながら、篠原に聞いた。
「私がなんとか抑えたから、割腹まではいかなかったが、刀が深く刺さっているようです。」
その時、遠く前から、ばたばたと駆け寄ってくる二人の男の姿があった。中條と山野である。二人で外へ出ていたらしい。
「先生!…どなたか私を探してらっしゃると聞いたんですが…」
「おお!大男!探したぞっ!!」
篠原が思わずそう叫ぶと、駆け寄ってきた中條と山野は顔を見合わせて、お互いを指差した。
「この際どっちでもいい!松原を医者のところまで運んでくれ!」
「松原先生っ!?松原先生がどうしましたか!?」
「見ればわかるっ!!とにかく来いっ!!」
篠原を先頭に、沖田、中條、山野が松原の部屋へと走った。
……
松原は床に寝かされていたが、歯を食いしばって何かに耐えていた。それは体の痛みか心の痛みかどちらかはわからない。
松原は、頑として医者のところへ行こうとしなかった。中條や山野が無理やりに体を持ち上げようとするが、さすがの二人も、松原に暴れられてはどうにもならなかった。結局、中條が走って、外科医の東を呼びに行くこととなったのである。
呼ばれた東は、松原が暴れたためすぐには手当をすることができなかった。そのうちに傷から血がどんどん溢れてくるので、篠原や沖田、そして中條と山野が四人がかりで押さえ込まなければならないこととなった。
なんとか、手当をすることはできたが、東は後で篠原に「本当に自分で刺したのかと」と驚いていた。それほど、傷は深かったのである。
治療後、篠原は一人、松原の傍に座っていた。
松原は、涙を流しながら「くやしい、くやしい」とつぶやいていた。
「確かに、主人を斬ったのは私だ。…だが、副長の言うような、たぶらかすような気持ちはなかったんだ!」
「わかってる!…わかっているとも。…土方さんが何を言ったが知らないが気にするな。ああいう人だから、仕方がないんだよ。…きっと、言ったことを後悔しているさ。」
松原はそれでも涙を抑え切れなかった。ぎりぎりという音がするほど、歯を食いしばっていた。
……
土方がぶすっとした表情で、篠原の報告を聞いている。
「…命は助かったんだな。」
「…はい…」
篠原も何か憮然とした表情をしている。
沖田は、神妙な表情で末座に座り、黙っていた。
「…こうなってしまっては、どうしようもあるまい。…松原のことはお前に任せる。」
それを聞いた篠原は目を吊り上げて土方を見たが、すぐにあきれたように頭を振って、何も言わず立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。
土方はその篠原の無礼に何も言わず、腕を組んで目を閉じた。
沖田は膝をすすめて、土方の前に座った。
「…土方さんも不器用なんだから…」
沖田のその言葉に、土方はちらっと片目を開けて沖田を見たが、また目を閉じてしまった。
「お前も部屋へ戻れ。」
「松原さんをああさせたのは、土方さんなんでしょう?」
「…うるさい…早く出て行け。」
「わかりましたよ。」
沖田はそう言って立ち上がると、少し心配そうに土方の方をちらと見てから、部屋を出て行った。
土方の部屋が静寂に包まれた。
「…まさか、腹を切るとは…」
思わずそう呟いた。
……
その後も、土方はその性格から謝ろうともしなかった。自然、松原の方も土方や近藤を無視するようになる。
土方よりの隊士は、そのうち松原を無視するようになり、やがて松原は孤立し始めた。
そのうちに「私は隊を率いる資格などない」と言って、四番隊の組長の仕事すらしないばかりか、新人隊士と一緒のところへ座ってみたり、また柔術師範であるにもかかわらず、稽古に出てこない日も続いた。
……
沖田は、土方の部屋の前で座って待っている。
先に篠原が、土方と話をしているのであった。
「いくらなんでも、松原を組長から下ろすなんて、ひどすぎる!」
篠原のそんな言葉が何度か続いた。実は同じことを沖田も言いに来たのだった。松原は、あれから組長の仕事をしなくなったため、土方は近藤と相談して、松原を平隊士に格下げしたのだった。篠原はなんとか土方の気持ちを変えようとしているが、土方が簡単に決めたことを変えたりしないのは篠原にもわかっているはずである。それでも松原のために必死に懇願していた。
…が、最後まで土方は「駄目だ」と篠原を突っぱねた。
(…どうしようもないな…土方さんも…)
沖田がそうため息をついたとき、障子が勢いよく開いた。
「!!…」
篠原は沖田の姿を見て驚いていたが、やがて「駄目だ」というように首を振って見せると、そのまま足早に立ち去っていった。
「…総司か…入れ。」
土方の疲れたような声がし、沖田は返事をして中へ入っていった。
……
土方はいつものように腕を組んで、目を閉じている。
「…もう、私がなんと言っても、聞いてくれないでしょうね。」
「…篠原と同じ事がいいたいのか?」
「そのつもりでしたが、今の篠原さんの様子で無理だと言う事がわかりました。」
「松原が自分で「組長にふさわしくない」などといって、隊務をおろそかにしはじめたんだぞ。こうすることが自然だろう。」
「そうさせたのは、土方さんでしょう?」
土方は目を見開いて、ぎっと沖田を睨んだ。
「私を睨んだところで、何もなりませんよ。」
沖田は平気である。
「松原さんも確かに大人気ないとは思うけれど…土方さんだって…」
「私は謝らんぞ。」
「……」
「ここにいても、同じ事だ。…出て行ってくれ。」
「わかりました。…でも、一つ聞きたいことがあります。」
「…なんだ?」
「今の松原さんが、私だったら?」
「!!!」
土方は、目を見開いて固まっていた。
沖田は、突然にこりと笑った。
「…私もね。…土方さんや松原さんに負けないくらい意地っ張りだということを覚えておいてくださいね。」
沖田はそう言い残すと、部屋を出て行った。
残された土方は、しばらく頭がぼんやりとするのを感じた。
「…あいつ…何が言いたいんだ…?」
そう呟いた。
……
篠原が、若い隊士を相手に柔術の稽古をしている。
その様子を沖田が見にきた。
篠原が気づき、苦笑しながら沖田に近づいてきた。
「…また、松原さんいないんですか…」
「ええ…。あんな奴じゃなかったんだけどなぁ…」
「…すっかり、顔つきまで変わってしまいましたね…松原さん。」
篠原は目を伏せた。
「どうも…また傷の具合が悪くなってきたようなんですよ…」
沖田は目を見開いた。
「えっ!?治ったんじゃないんですか?」
「ええ…。私もそう思っていたんですが、時々腹をおさえてじっとしていることもあるし…毎日、あの女性のところへ通っていたのに、最近は部屋に閉じこもったっきりだったり…」
「…篠原さん、それとなく聞いてみたら…。あなたになら、心を開いて話してくださるでしょうし…。」
篠原は首を振った。
「駄目です。最近は私すら避けているようで…」
「…」
沖田はため息をついた。
……
中條が屯所前の門番をしていた。
つい、あくびをしそうになるのを必死に堪えて立っていると、遠くからこちらの様子をうかがっている女性の姿に気づいた。
「?」
中條が思わず見つめていると、女性はふっとその場を立ち去ってしまった。
(…なんだろう?…)
中條はそのまま気にもとめずにいたが、しばらくしてまたその女性が現れた。
「…!」
中條は不審に思い、その女性の方へと歩み寄ろうとした。
すると女性が驚いて踵を返し、逃げ出した。一層不審に思った中條だが、自分がこの場を離れると誰もいなくなってしまう。
一瞬戸惑ったとき、沖田が中條の肩を叩いた。
「お務めご苦労さん。」
そう言ってにこにこしたが、中條が険しい形相で振り返ったので、沖田は仰天した。
「どっどうしたのです?」
中條はまさか沖田だとは思っていなかったので、自分もびっくりしたが、「今そこに…」とあわてて女性のことを話した。
「…思い当たる節はある。私が追いかけましょう。」
沖田はそう言って中條の肩を叩くと、すぐに駆け出した。
……
沖田は女性がいたという方向に走っていったが、出遅れたために見失ってしまった。
…が、沖田のいるところから少し離れたところに、女性が木に手をついて胸を抑えている。
必死に息を整えている…という様子であった。
「…あの人だな…」
沖田はそう呟くと、ゆっくりとその女性に歩み寄った。
女性はぎくりとしたように沖田を見たが、その柔らかな微笑を見て、少し警戒を解いた様子を見せた。
「驚かせて失礼…。新選組の沖田と言います。あなたは松原さんの…でしょう?」
女性は驚いた表情をしたが、やがてこくりとうなずいた。
「松原さんは、そちらへ戻っておられないのですか?」
女性はうなだれるようにしてうなずく。
「…ずっと、お待ちしてるんどすけど…」
「そうですか…」
沖田はこの女性も松原のことも気の毒には思っている。…が、土方の手前、表立って何もしてやれない。
「松原さんにはあなたが来られたことをお伝えします。…何か言伝がありましたら承りますが。」
女性の顔が嬉しそうに頬を染めて顔を上げた。
美しい女性である。松原が一目で惚れてしまった気持ちが、沖田にもわかるような気がした。
「あの人の…傷の具合がよくないようなんどす…。だから、お医者様に見てもらうように伝えておくれやす。…この間来られた時にも言うたんどすけど…黙って出て行かはって…そのまま…」
「…やっぱり、具合が悪いんですね。…わかりました。こちらで、医者を呼んで見てもらうようにしましょう。あなたが心配していたことも伝えておきますよ。」
「…おおきに…!ほんま…おおきに…」
女性は頭を深々と下げた。そしてしばらくして顔を上げた瞬間に見えた女性の頬には、涙の筋がはっきり見えた。
そして「ごめんください」と言って、その顔を隠すようにして踵を返し、立ち去っていった。
「…かわいそうに…。」
沖田は、立ち去っていく女性の後姿を見つめて呟いた。
……
篠原は、沖田から女性の話を聞いて、ため息をついた。
「…そうですか。やっぱり傷が完全に癒えていなかったんだな…」
「すぐに中條君にでも、医者を呼びに行かせるつもりですが…。」
「お願いします。私は松原を説得しましょう。」
篠原はそう言ってうなずくと、すぐに松原の部屋へと向かおうとした。
…が、すぐに沖田に振り返った。
「どうしました?」
「沖田さん…申し訳ない。」
「?…何がです?」
きょとんとする沖田の表情に、篠原は苦笑するような笑みを見せて、そのまま松原の部屋へと向かった。
沖田はしばらく目を見開いていたが、やがてはっとして、中條を呼びに大部屋へ向かった。
……
松原は暴れていた。
その松原の体を篠原、中條、山野が抑えているが、松原の体は柔術で鍛えている上、大きい。この大きな体で暴れられてはどうにもならない。
「松原!!頼む!黙って診察を受けるんだ!中から膿んでいるかもしれないんだろう!?…そのままにしておいたらえらいことになるぞ!」
「嫌だっ!…俺はどうせもう死ぬ身だ!ほっといてくれ!」
さすがの中條と山野も押さえ切れなかった。最初の診察の時もこうだった。押さえるには押さえているのだが、充分な治療ができなかった。だから、今になって膿んできたのだろう。東も柔術をやるので、なんとか中條らと一緒に抑えようとするが、死に物狂いで暴れる人間には歯が立たない。
「離せ!!ほっといてくれ!俺のことだ!おまえらには関係ない!!」
松原はそう言ったかと思うと、屈強な男達を振り飛ばして、部屋を飛び出した。
「松原!」
「松原先生!!」
中條があわてて立ち上がって、追いかけようとした。
「中條、もういいっ!!」
篠原のその言葉に、中條が驚いて立ち止まり篠原へ振り返った。山野と東も驚いた表情で篠原を見上げている。
「…あいつにはもう構わんでいい!!…人の気も知らないで…あの馬鹿っ!!」
篠原は搾り出すような声でそう叫ぶと、大またに部屋を出た。
しかし、中條の横を通り過ぎる時に、ふっと中條の顔を見ると一瞬立ち止まり、
「…すまん…面倒をかけた…」
と呟き、足早に歩き去っていった。
「…篠原先生…」
山野が中條のそばへと近寄った。
「…本当に松原さんをあのままにしておいていいのでしょうか?」
「……」
じっと黙っていた東が薬箱を持ち上げてゆっくりと立ち上がった。
「あ…東先生…申し訳ありませんでした。…ここまで来ていただいたのに…」
「いえ…。お役に立てなくて申し訳ない…。」
中條と山野は首を振り、頭を下げた。
松原はそのまま屯所へは戻ってこなかった。
……
沖田は腕を組み、黙って中條と山野の報告を聞いていた。
「…よけいなことをしてしまったかな…」
報告が終わってから、沖田がそう言った。中條と山野はあわてて首を振るが、何も言葉が継げない。
「二人とも今日はご苦労でした。…東さんの方へは、私があとで、あらためてお詫びに参りますから。」
「先生がそこまでされることはありません!」
山野が驚いて言った。中條も「そうです」と同意し、
「お詫びならば、我々が参ります。」
と言った。
「いや…二人には、松原さんのことを頼みたい。」
「!!」
山野と中條は目を見開いて、沖田を見た。
「…このままでは松原さんは本当に死んでしまいます。なんとしてでも、治療を受けてもらわねばなりません。」
山野と中條はその沖田の言葉に息を呑んだが、声を揃えて「はい!」と返事をすると、頭を下げた。
沖田は「お願いします。」と言って二人を下がらせた。
(…しかし、いい案がない…どうしたらいいのか…)
沖田はそのまま目を閉じ、考えている。
……
診察騒ぎの翌日、中條と山野は沖田の命によって、松原がいると思われる女性の家を見張っていた。
「…ずっと雨戸が閉まったままですね…」
中條が前にいる山野に言った。
「我々が巡察に出ている間に出かけたのかな…」
二人はそのまま黙って家を見ていたが、ふとどちらからともなくうなずくと家へと向かった。
そして、表の戸を叩き、中にいるはずの松原を呼んだ。
「松原先生!…いらっしゃるのでしたらあけてください!!」
「松原先生!!」
二人は何度も表や裏の戸を叩いてそう叫ぶが、返事どころか人がいる様子も感じられないくらい静かである。
「…いないのかなぁ…?」
「山野さん、僕、沖田先生に連絡しに行きます。」
「わかりました。」
中條は山野を残して、屯所へ走った。
……
中條が屯所へ戻ると、玄関先で外へ出ようとする土方に出くわした。
中條は驚いて思わず立ち止まった。
「…松原はどうした?」
土方は何もかも見通しているかのように、鋭い目で中條を見て言った。
「…はっ…その…。」
「総司に言われて、松原を見張っていたのだろう?…どうなっている?」
「…それが…その…外から呼んだのですが…返事がありません。」
「……」
その時、中條は土方の遠く後ろに、篠原が潜んでいるのを見てしまった。
「あっ」と声を上げかけたが、篠原が「しっ」と口に指を当てたのを見て、なんとか呑み込んだ。
土方はそれに気づいてか気づかずか、やがて口を開いた。
「…外から開かんのか。」
「はい…」
「…内から錠を…?」
そう呟くと、とたんに土方の形相が変わり、中條に叫んだ。
「戸を破ってでも中へ入り、すぐに松原を連れ出して来い!」
「!!?」
後ろで聞いていた篠原の顔が、はっとした表情になった。
「…ですが…その…」
突然、篠原が飛び出してきた。
「中條、早く!急がないと松原がやばい!」
「…え?」
「一緒に来てくれ!」
訳がわからない中條は困惑して、土方を見た。土方は行けと言うように、顎を上げた。
中條は土方に頭を下げると、篠原を追って屯所を飛び出した。
……
先頭を走っていた篠原は、松原の家の前で立っている山野に、大声で怒鳴った。
「戸を破れ!!松原がやばい!!」
山野はその篠原の言葉で、「あっ」と声を上げると、すぐ、戸に体当たりを始めた。
篠原と中條は裏戸に体当たりしていた。しかしこちらも戸はきしむばかりで破れる様子がない。
「くそおっ!固く閉じてある…!中から釘でも打っているのかもしれん!!」
しかし、篠原と中條は執拗に体当たりを続けた。そのうちに、ぎしぎしという音が大きくなり、大きく戸が倒れた。
「松原っ!!」
篠原が先に飛び込んだ。中條が後に続く。山野は裏が開いたことに気づいて、すぐに回った。
中條が中に入ると、篠原の遠く前に、一つの床の中で女性が仰向けに、松原がうつぶせに寝ているのが見えた。その頭元には線香が焚かれた跡がある。
すぐに篠原がしゃがみ「おいっ!」と叫んで、布団を大きくはがした。
「!!!!!!」
三人は思わず息を呑んだ。
床の中は血の海になっていた。そして、うつぶせになっている松原の背中から、腹の下から突き抜けていると思われる脇差の切っ先が飛び出していた。そして女性の首には、手で絞められた痕が赤黒く残っている。
松原も女性も、安らかな表情で眠っているようだった。
「…馬鹿な奴だ…」
篠原がそう呟いて、手をつきうなだれた。
中條は立ち尽くしたまま、歯を食いしばっていた。そして後ろにいる山野は、中條の肩にもたれ額を伏せている。…春も終わりに近づいた暖かい日だった。
……
後日-
篠原が川べりに座って、ぼんやりと空を見上げている。その後ろに、そっと立ち寄る影があった。
それに気づいた篠原は警戒することもなく振り返り、その影の主を見上げた。
「沖田さん…」
「今日もここにおられましたか。」
沖田は元気なく微笑む篠原の横に、同じように腰掛けて言った。
「…皆が心配しています。」
「はぁ…なんとも、情けない…」
篠原は、頭の後ろに手を乗せてうつむくようにした。
「山野君や中條君もあれから、すっかり落ち込んでいましてね…。」
「あの二人は、松原に気に入られていましたからねぇ。特に中條の方は剣術はひどいが、あの腕っ節の強さは松原も感心していた…。彼らにも本当に迷惑をかけました。…そして、沖田さん…あなたにも。」
「私は何もしていませんよ。」
「土方副長から何も言われませんでしたか?」
「いいえ、何も。」
沖田はそう言って、微笑みを篠原に向けた。篠原がほっとした表情をした。
二人は、しばらく黙って川の流れを見つめていた。
「…松原のことがあって…つくづく思いましたよ。…人間って…ちょっとしたことで狂人のようになってしまうんだなぁって…」
「……」
沖田は篠原を見た。
「気のいい松原が…あんな風になるなんて、考えもしなかった。」
「…そうですね…」
「永倉さんなんかもおっしゃっていたんですが…ほら…禁門の変の時、山南さんが鎧を着せろと言って周りを困らせたことがあったでしょう?」
「…ああ…」
沖田も思い出してつい笑った。
「あの時、松原がニコニコと笑って「私が前に立って、この腹で弾でも何でも受け止めてやります」と言って、腹を出して叩いてくれたおかげで、山南さんの機嫌が直って…。私など、彼の度胸と気のよさに感服したものです。」
「私もです。」
「…そんな松原が、一人の浪人を斬ったために…そしてその妻女に出会ったために、あんなことになるなんて…」
土方のせいにしないのは、沖田に気を遣っているのだろう。しかし心の中では、土方をうらんでいるはずである。
「…今はあの世で幸せにしていますよ。きっと。」
沖田が空を見上げてそう言うと、篠原も再び見上げた。
「そうですね…。死んでから、前の松原に戻って「馬鹿なことをしたなぁ…」なんて笑っているかもしれない…」
沖田は、そんな松原の顔を想像して「ふふ」と笑った。
篠原も同じように笑うと「さて」と言って、立ち上がった。
「そろそろ柔術の稽古の時間ですね。…あなたんところの大男達をしごいてやりますか。」
「ああ、今日は一番隊でしたか。どうかよろしくお願いします。…簡単にはいかないかもしれませんけどね…」
沖田がそう言うと、篠原は「こっちが覚悟がいりますな」と言って笑った。
沖田は篠原について歩きながら、再び蒼い空を見上げた。
もう夏が近づいていることを知らせるように、空が高く見えた。