<番外話>気まぐれお嬢
新選組の屯所には、馬が数頭用意されている。
その中の1頭は白馬で、これは近藤が二条城などに出向く時に使うものだった。
土方専用の馬もあり、後の馬は緊急に使われるもので誰のもの…という決まりはなかった。
だが、そんなある日、雌馬が1頭、商人から献上された。
しかしこの雌馬、今の世で言うならば「じゃじゃ馬」で、人が乗ると大暴れするか、あるいはぴたりと動かなくなってしまうかどちらかだった。もちろん、近藤だろうが土方だろうが、馬には関係ない。どんなに馬に慣れているものでも、この馬だけはどうにもできなかった。
すぐにこの馬に「気まぐれお嬢」というあだ名がついた。
人を乗せない馬など、新選組に置いても役には立たない。…しかし、いつも資金援助をしてくれている商人から献上されたものなので、他に売るわけにもいかず、結局、厩舎に「お嬢」を閉じ込めておくしかなかった。
その「お嬢」が厩舎に閉じ込められてから3日ほど経った頃、沖田がふと厩舎を訪れた。
沖田自身、馬に乗ってどこかに行くということはそうそうないので、その「お嬢」の噂を聞いてはいても、さして興味がわかなかった。
しかし巡察もなく、どこに行く予定もなかったその日、沖田はぶらりと暇つぶしに訪れたのだった。
沖田は「お嬢」の前に立った。
ずっと閉じ込められて神経が立っている「お嬢」は、沖田の姿を見て興奮し、暴れ始めた。
「…噂どおりの「お嬢」さまですね。」
沖田がくすくすと笑いながら言った。その横で、厩舎を案内した中條が心配げに沖田を見た。
「先生…離れていた方がいいですよ。…今にも飛び出してきそうです。」
沖田は中條には答えず、にこにことして、独り暴れている「お嬢」を見上げている。
「出してやりたいなぁ…。…ねぇ、出してやりましょうよ。」
沖田は中條に向いて言った。
「何をおっしゃいます!!」
中條は当然のごとく、首を大きく振った。沖田が微笑みながら言った。
「だって、逆効果ですよ。…この「お嬢」さまはただ、人間が嫌いなだけかも知れない。いったいどういう仕打ちを受けたのかは知りませんが…」
「……」
中條は困り果てて黙り込んでいる。しかし、もしかすると沖田なら、手なずけられるんではないかと思っていた。
「ねぇ、中條君。この馬に手綱と鞍をつけてくれないかな。」
「えっ!?わっ私がですかっ!?」
「わかりましたよ。私がやります。…とにかく、手綱と鞍を持ってきてください。」
中條はさんざん反対したが、やがて沖田の説得に負けた。
(これで、先生が怪我をしたりしたら…僕は斬首だろうなぁ…)
そんな覚悟を決めながら、中條は手綱と鞍を持って行った。
……
数刻後-
中條は礼庵に、体中に湿布をされていた。
「いたっ!!」
「…もう少し我慢して。…すまない。」
「…いえ…大丈夫です…」
礼庵に、湿布を貼られながら痛みを堪える中條の横で、沖田が申し訳なさそうに座っている。
…やはり、沖田でもあの「気まぐれお嬢」はどうにもならなかった。
お嬢は、手綱と鞍を黙ってつけさせたものの、その上に沖田が乗った途端、火がついたように暴れ出した。
そして、沖田を乗せたまま厩舎から大庭へ飛び出し、最後には沖田を振り落としたが、頭から落ちかけた沖田の体を、中條が下敷きになって救ったおかげで、なんとか大事には至らずに済んだ。
近藤や土方よりは、平衡感覚を持ち合わせているつもりの沖田でも、どうにもならなかったのだ。
本来ならば、中條は斬首になるところである。しかし、いつものように沖田が土方に懇願し、中條は罰を免れた。
「ごめんよ…中條君。…」
体中湿布だらけになっている中條に沖田が謝った。中條は首を振ろうとしたが、あまりの痛みに歯を食いしばるしかなかった。
礼庵は手を洗いながら、苦笑している。
「かなり手ごわいご婦人のようですね。」
礼庵も、その「気まぐれお嬢」の話は先に聞いていた。
「いつもの総司殿らしくないなぁ…。」
「?え?…」
礼庵は薬箱をまとめると、沖田に向いた。
「人間も馬も同じだと思えば、その「お嬢」さまにどうすればいいのか…おのずとわかりませんか?」
「人間も馬も同じ?」
「そうです。人間のご婦人でも、いきなり押さえつけると抵抗するでしょう?」
沖田はその礼庵の言葉にかーっと顔を赤くした。
「わっ私は、押さえつけようとか…そういうつもりは…」
「だって、有無を言わさず背中に乗ろうとしたのでしょう?」
「!!」
沖田がはっとしたように目を見開いた。
「どんな人だって…知らない人に、いきなり体に触れられるのは嫌なものです。…「お嬢」さまもそうじゃないかな。」
沖田は目を見開いたまま、「…そうか…」と呟いた。
礼庵はにこにことして、沖田を見ている。
……
沖田は今日も「お嬢」の手綱を持ち、屯所を出て行った。
手綱を持つ…と言っても、「お嬢」の背には乗っていない。
横について歩いているのである。
「じゃぁ、行ってくるね。」
ぼんやりと門で立ち尽くす中條に沖田はそう言い、「お嬢」を連れて歩いていく。
門番役の山野が中條の肩を叩き、
「…大丈夫でしょうか?」
と呟いた。中條は振り向かずにうなずきながらも、大きくため息をついていた。
……
そんな、中條達の心配をよそに、沖田は楽しそうに「お嬢」を連れて歩いていた。
「今日は、鴨川の方まで行きましょうか。」
そう「お嬢」に声をかけながら、鼻歌など歌っている。
「お嬢」も歩きながら、ちらちらと横目で(と言っても、馬の目は横についているのだが)沖田を見ているようである。
(おかしな人)
そう思っているのかもしれない。
手綱と鞍は一応つけてはいるが、沖田は決して「お嬢」の背には乗ろうとしなかった。毎日のように「お嬢」とこうして散歩をするのである。
自分に慣れてもらうためだったが、最近は、この「お嬢」との散歩が楽しい。
「…そうだ…礼庵殿のところへ行きましょう!…あなたのことを一番理解してくださっているお医者様です。いい人ですよ。」
沖田はいきなりそういうと、手綱を優しく引きながら、ついと角を曲がった。
「お嬢」も、逆らうことなくついていく。
軽いひづめの音をならしながら、二人(?)は礼庵の診療所へ向かって行った。
……
礼庵は、驚いたように「お嬢」を見上げていた。
沖田は何故か自慢げな表情で「どうです?」と、そんな礼庵に言った。
「…いやぁ…なんといいますか…。」
「?」
「こんな綺麗な馬を見たのは初めてです。」
沖田は「え?」と聞き返した。
「…美しい馬ですねぇ…。こんなに美人だとは思いませんでしたよ。」
沖田はその礼庵の言葉に驚き、あらためて「お嬢」を見た。
そう言えば…そうである。
「…そんな風に考えたこともなかった…。」
沖田はそう呟いた。
「…触れても怒りますか?…」
礼庵が不安げに沖田に尋ねた。沖田は、しばらく困ったように口をつぐんでいたが、
「乗らなければ大丈夫…だとは思うのですが…」
と言った。礼庵は嬉しそうに、馬の首筋を撫で始めた。
「お嬢」はぴくぴくっと耳を動かしたが、暴れる様子はない。黙ってされるがままになっている。
「…乗ってみたいという気持ちがわかりますね。…体もとてもしまっているし…いいなぁ…」
そう礼庵が呟いた。
沖田は、不思議そうに礼庵を見ていた。
「…礼庵殿が、こんなに馬に興味をもたれるとは思わなかった。」
「私もですよ。…一目惚れ…っていうのかなぁ。…本当に綺麗ですね。」
その時、礼庵の養女である「みさ」が遠くからこちらを見ているのに気づいた。
が、見ると、手ににんじんを持っている。「お嬢」にあげようと持ってきたのだろう。
沖田は「危ない」と言いかけたが、礼庵が先に「ああ、いいものを持ってきたね」と手招きしてしまった。
みさは嬉しそうに近づいてきた。
そして、にんじんを両手で持ち「お嬢」の鼻先に近づけた。
すると「お嬢」はそのにんじんを食べたのである。
…これには沖田が驚いた。これまで「お嬢」は食べ物を与えられても、人がいなくなってからしか口にしなかったのである。
「わぁ…食べたぁ…」
みさがそう嬉しそうに呟いた。
……
沖田はここ数日、「お嬢」を連れて歩くことはなかった。
…体の具合がよくないのである。
巡察には出てはいるが、それだけで体力が失われるのだ。
しかし、それでは「お嬢」がかわいそうなので、一番隊士達が交代で「散歩」につれて歩くことになった。
……
夕方-
沖田は、その日も微熱があり、自室で体を横にしていた。
朝方巡察があり、その後ずっと体を横にしていたが、熱が抜けない。薬を飲んでも見たが、咳はおさまっても熱は下がらなかった。微熱とはいえ、疲れた体には堪える。
何度もため息をつきながら、沖田はぼんやりと天井を見ていた。
その時、一人の隊士が急を知らせに来た。
昼に幕府との会合に出席した土方が、帰ってこないのだという。
何かあったのではないかと近藤が心配し、沖田に伝えるようにとのことだった。
それを聞いた沖田は悪い予感を覚え、一番隊を集めようと体を起こしたところで、土方の付き人が血相を変えて帰ってきた。
土方が四条で大人数に襲われているとのことだった。
(…土方さんのことだから…)
沖田は考えた。
(隊を率いて行ったりしたら、大げさだと怒るかも知れないな。)
そう考え、誰にも他言せぬように隊士に言うと、付き人を連れて、急いで厩舎へ向かった。
そして「お嬢」を見た。
「…お嬢…」
沖田は一瞬迷った。が、ふと彼女をよけ、厩番に別の馬を出させ、その背にのった。
「「お嬢」を連れて礼庵殿のところへ。土方さんのことだから大丈夫だとは思うけれど…念のために礼庵殿に来てもらってください。あの人なら「お嬢」に乗れると思います。…急いで。」
そう付き人に指示すると、自分は手綱を引いて、馬を走らせた。
……
土方が襲われているという急を聞いて、礼庵はすぐに薬箱を用意し、外へ飛び出した。
…が、「お嬢」の姿を見て、躊躇した。
「…お嬢殿…」
馬を引いてきた土方の小姓は、ぼんやりと「お嬢」を見上げて立ちすくんでいる礼庵を見、焦りをあらわにした。
「早く、行ってください!!…副長が…!」
「ええ…わかってはいるのですが…。…しかし、この馬に私が乗るのですか?」
「沖田先生は、礼庵先生なら乗れると…」
「……」
礼庵は唇を噛みしめると「お嬢殿!失礼する!」と言って、差し出している小姓の手に足を乗せ飛び乗った。一瞬、「お嬢」は動かないように思ったが、礼庵が手綱を取ったのを確認し、ぶるぶるっと体を震わせた。
「…行きますよ!…」
礼庵はそう言ってから「お嬢」の腹を足で叩いた。「お嬢」は一旦両前足を上げると、走り出した。
…その姿を土方の小姓は、ぼんやりと見送っていた。
「…走った…あの「気まぐれお嬢」が…走った…?」
小姓はそう呟いた。
……
礼庵は手綱を取り、「お嬢」を四条の河原へと導いていた。
正直、「お嬢」が自分の言うことを聞いていることが、信じられない。
礼庵が馬に乗った回数は多くない。また、馬のことには詳しくはないのだが「人間より頭がいい」ことを、患者の一人から聞いたことがあった。「馬に乗りなれているのかいない」かを、自分の背に乗られた瞬間に、馬にはわかってしまうのだと。それでも「お嬢」は礼庵を背に乗せ、必死に走っているのである。
(お嬢殿…。…あなたの背に乗せてくれたことを、心から感謝します…)
礼庵はそう念じながら、「お嬢」と一緒に四条へ向かった…。
……
四条河原-
礼庵は数人の浪人が河原下で倒れている姿を見止め、手綱を引いて「お嬢」を止めた。そして、飛び降りてすぐに河原下へ行こうとしたが、はっとして「お嬢」に振り返り、首筋を撫でた。
「ありがとう…。ここで待っていて下さい。どこにもいかないで。」
そう念を押すように「お嬢」に言うと、河原下へと駆け下りた。
「総司殿!!」
礼庵は、いるはずの沖田の姿が見当たらないことに不安を感じていた。…が、「礼庵殿!かたじけない!」という聞きなれた声とともに、沖田が手を上げているのが近くに見えた。
礼庵はほっとして、沖田に駆け寄った。
「いえ…土方殿は!?」
「大丈夫です。あちらに。」
沖田の指差す先に、土方が河原に寝転んでいた。
「怪我一つなかったのです。大勢を相手にしながら恐ろしい方です。一応診てやって下さい。」
沖田が苦笑しながら言った。礼庵はうなずき、沖田から蝋燭を受け取って火を移してもらうと、土方の傍らに駆け寄った。
土方は蝋燭の火に照らされた礼庵の顔を見て、驚いていた。
「…おぬしか…」
「はい。大丈夫ですか?」
「さすがに、もう体が動かん。」
「当然です。これだけの人数を相手にされたのですから。」
「私一人ではない、総司も斬っている。」
礼庵は蝋燭をそっと立てると、薬箱から小さな焼酎の瓶を出し、ふたを取った。
「一口おのみなさい。」
そう言って、土方の頭を持ち上げ、瓶の口を土方の口元に持っていった。土方は少し顔をいがめたが、一口飲んだ。そしてふーーっと息をついた。
「こんなに酒が美味いと思ったことがない。」
礼庵が笑った。土方も笑顔を見せた。
「礼庵殿!」
死体を一つ一つ調べていた沖田が呼んだ。
「この人、息があります!」
礼庵はとまどったように土方を見た。土方は「行け」というように、目を動かした。
礼庵は頭を下げ、土方の頭をそっとおろした。そして沖田の傍に走り寄った。沖田が足元にいる男の胸元をひらげ、傷を見ている。
男は苦しい息をついていた。
「失礼する。」
礼庵はさっき、土方に飲ませた焼酎を口に含み、傷口にぶっと吹いた。男がうめき声をあげた。
「がまんして…」
礼庵は沖田の見守る中、傷口の治療をした。しかし、完全な治療はここではむりである。
「礼庵殿の診療所まで持つだろうか?」
沖田の言葉に礼庵は首を振った。
「遠すぎます。東さんの方が近い。そちらに連れていったほうがいいでしょう。」
沖田がうなずいた。礼庵は突然、沖田の首元に手を差し入れた。熱を測るためである。それがわからない沖田は、礼庵のしたことに驚いている。
「…少し熱があります。大丈夫ですか?」
沖田は驚いた表情のままうなずいた。
「土方殿を連れて帰れますか?私はこの怪我人を、連れて行かねばならない。」
「大丈夫です」
沖田がはっきりとした口調で言った。
「それはどうかな。」
その声に二人は驚いて声の主を見た。
土方が沖田の後ろに立っている。
「土方さん、大丈夫なんですか?」
「それはこっちの台詞だ。」
土方は片頬をいがめて、苦笑しながら言った。
……
籠が到着した。そしてその籠に怪我人を乗せ、東の診療所まで走らせた。
…さて、その後が大変だった。
土方がどうしても馬に乗らないというのである。
「総司が乗れ。熱があるんだろう。私が馬を引いて歩く。」
「!?…何をばかなことをおっしゃいます!!」
「ばかとはなんだ、ばかとは!!」
「いえ、そう言う意味じゃなくて…」
礼庵は言い合う二人を見て困り果てていた。
馬は二頭ある。だから、本当ならば、土方と沖田がそれぞれ馬に乗ればいいのである。
礼庵自身は東のところまでさほど遠くないため、歩いても構わないと思っていたのだが…。
…問題は、「お嬢」だった。
これまでの「お嬢」は、土方も沖田も乗せなかった。唯一乗れたのは、礼庵だけである。
礼庵は、ふと振り返り、「お嬢」を見た。
そして「お嬢」の傍に寄り、彼女の首筋をなでた。
「お嬢殿。…どちらかの殿方を乗せてやってはもらえませんか?」
そう呟くように言った。…が、いくら馬が頭がいいからといって、言葉がわかるとは思えない。
その時、土方の小姓が白馬に乗って来た。
「副長!これにお乗り下さい!!局長から許可をいただきました!」
沖田と礼庵がほっとした表情をした。
局長からわざわざ馬を借りてきたとなれば、土方だって乗らないわけにはいかない。
土方は憮然としながらも、白馬にまたがった。
そして、沖田は自分が乗って来た馬に乗った。
「では、礼庵殿。行きましょう。」
「え?」
「怪我人のところです。私も一緒に参ります。」
沖田のその言葉に、礼庵が首を振った。そしてそれと同時に土方の怒号が飛んだ。
「ばかやろう!!おめえは熱があるんだろう!?…一緒に帰るんだ!」
沖田は思わず肩をすくめた。礼庵がそれを見て苦笑した。
……
翌朝-
礼庵は目を覚まし、中庭を見て驚いた。
みさが「お嬢」の背に乗っていたのである。
何も知らないみさは「お嬢」の背で嬉しそうな声を上げて、はしゃいでいた。
「みさ!!…危ない!」
礼庵は思わずそう言ったが「お嬢」の落ち着いた様子を見て、ふと口を閉ざした。「お嬢」の目が優しく、落ち着いているように見えたのである。
「お嬢殿…」
礼庵は、そっと「お嬢」に寄り、首筋をなぜた。
…昨夜、土方を助けた後、礼庵は「お嬢」と一緒に、診療所へ戻った。
しかし、診療所には厩舎がないため、一旦診療所へ来たものの、そのまま新選組屯所へ向かおうとした。
…が、診療所の前で「お嬢」はぴたりと動かなくなってしまったのである。
礼庵が腹を蹴っても、じっとしたままだった。
礼庵は仕方なく「お嬢」を中庭の樹に繋いだ。
夜遅くにも関わらず礼庵を心配し眠れなかった婆が、つながれた「お嬢」を気の毒がり、にんじんなどの適当な野菜を傍に置いたのだが「お嬢」はじっと立ったまま動かなかった。
二人は心配ながらも、寝床へ入ったのだが…。
…朝、婆が置いておいた野菜はなくなっていた。そして、みさを背に乗せおだやかな表情をしている「お嬢」の姿に、礼庵は感動さえ覚えていた。
「お嬢殿…」
もう一度そう呼んで、礼庵は「お嬢」の首筋を撫で続けていた。
「…お嬢殿。……そなたはきっと…「母親」の心をもっておられるのですね。…」
礼庵はそう言い、お嬢の首に両腕を絡ませ抱き寄せた。お嬢は逆らうことなく、ゆっくりと首を下げた。
……
礼庵は「お嬢」の背に乗り、屯所を訪れた。そのことが、門番から沖田へすぐに届いた。
…が、その時、沖田は熱のだるさで、自室の部屋で体を横たえていた。
いつもならば、飛び起きて、礼庵の元へ行けるものを、その時は体を起こすことさえ、辛くなっていた。
「…すまないが、礼庵殿に「お嬢」を厩舎へ連れて行くようにと、伝えてください。」
部屋の外で返事が聞こえ、すぐに足音が遠ざかった。
沖田は、ゆっくりと体を起こし、身なりを整えると、一つ大きく息をついてから、部屋を出た。
……
礼庵は「お嬢」を厩舎へ導いた。「お嬢」は礼庵に逆らうことはなかった。
「窮屈でしょうが…我慢してください。」
礼庵がそう言って「お嬢」をなだめた時、沖田がにこにこと微笑んで、厩舎へと入ってきた。
「…礼庵殿…お手数をおかけしました。」
「総司殿、…具合が悪いとお聞きしてたのですが…大丈夫ですか?」
「大丈夫です。…昨夜の斬り合いは、こたえましたがね。」
沖田はそう言って、礼庵に笑顔を見せた。
「お嬢は…よく、戻ってきてくれましたね。」
「ええ…。…本当にいい馬です。…気がやさしくて…美人で…。」
礼庵は、お嬢を見ながら、そう言った。沖田は黙って、お嬢を見上げている。
「今朝、みさがこの「お嬢」殿の背にいつの間にか乗っていたのですが…とても穏やかな表情をしていました。」
「…そうですか…馬も人を選ぶのですね。」
沖田はそう言って、苦笑した顔を礼庵に見せた。
礼庵は困ったような表情をしていた。礼庵は沖田に思いきって言った。
「総司殿…「お嬢」殿にお乗りになってみたらどうですか?」
「え?」
沖田が驚いて礼庵を見た。
礼庵が「大丈夫」というように黙ってうなずいた。
…沖田はあらためて「お嬢」の表情を見た。…確かに穏やかな表情をしている。
初めて来た時の、あの殺気立った様子がなくなっていた。
しばらく沈黙が続いた。礼庵は黙って沖田の言葉を待っていた。
「…いや…」
沖田は首を振った。
「?…総司殿?」
「実は…私はもう、このお嬢殿には乗らぬと決めていたんです。」
「え?」
沖田は微笑んで、礼庵を見た。
「最初に振り落とされた時は、何が何でも彼女の背に乗ってやろうと思っていました。でも…一緒に散歩したりするうちに…なんていうんだろう…。」
沖田はそう言ってから、しばし考えるように下を向いた。
「私が彼女の背に乗ってはならないような…そんな気持ちがして…。」
「…」
礼庵は首を傾げ、お嬢を見上げた。
……
その後、沖田の具合は急速に悪くなっていく。そのうち、お嬢の散歩もできなくなり、自室で横になる日が続いた。そして、お嬢は、結局、元の商家に戻すことになった。
その嫌な役目を担ったのが中條だった。沖田が面倒を見ていたためか、誰もが「一番隊の馬」だと思っていたらしい。
中條が、お嬢を献上した商家に行き、事情を説明すると「やはり無理でしたか…」と、商家の主人は、頭を掻いた。
「新選組なら、手なづけられるのではないかと、思いましてね。」
主人はそう言って中條に謝り、お嬢を引き取ろうと、手綱を取った。
…が、お嬢は動かない。
主人が脅してもなだめても、動こうとしなかったのである。
中條は、何か悲しい思いで、お嬢を見上げていた。
(…沖田先生の気持ちが通じたのかも知れないなぁ…。)
そうは思っても、中條は連れて帰るわけにもいかない。
やがて主人が「どうぞお帰りください。」と中條を気遣って言った。
中條は、何度もお嬢に振り返りながら、その場を去った。
…中條の心に、何か悲しい感情が拡がっていった。
……
「嫌な思いをさせてしまいましたね。申し訳ない。」
沖田は体を横たえたまま、中條にそう謝った。中條は首を振った。
「…これから、お嬢殿はどうなるのでしょう…。あの商家のご主人はとてもやさしそうな方でしたが…。あまりに手を焼くようだと、何をされるかと…心配で…」
「…ん…」
沖田も同じことを考えていた。
「一番の理解者は礼庵殿ですが…まさか、馬まで面倒を見させるわけにもいかないしなぁ…。」
沖田は、かなり前に礼庵に犬を引き取ってもらったことがある。
さすがに、その上に馬となると…犬とは違って大変だろうことはわかっていた。
二人はしばらく、そのまま黙り込んでいた。
……
礼庵が、沖田の部屋を訪れた。沖田は体を起こしている。まだ礼庵の前では、気を張る元気が残っていた。
「お嬢殿のことが…気になるんです。」
「…礼庵殿もですが…。」
自分の体の具合を見にきたのだとばかり思っていた沖田は、少しほっとしていた。
「私の勝手な推測なんですが…彼女は、たぶん子どもを産んだことがあるんじゃないかと…。」
「???」
沖田がいったい何を言い出すんだというような表情をしたので、礼庵は「いや、申し訳ない。」と言ってから話し出した。
「…みさを背に乗せていた時の「お嬢」殿の目が…まるで母親のように優しかったのです。…その目を見て思ったのですが…もしかして彼女は、自分の産んだ子どもと、なんらかの理由で無理やりに引き裂かれてしまったのではないかと…。」
「…その辛さから、ああいう気性になったということですか…?」
沖田から考えれば、礼庵の推測は、あまりに飛躍しすぎているような気がした。
…が、礼庵が帰ったあと、沖田は中條を呼び、こっそり商家の主人のところへ、お嬢のことを聞きに行かせた。
……
中條は、二刻も経ってから、屯所へ戻ってきた。
沖田が中條の報告を前に「いったい何をしていた」のか聞いた。
すると、なんと中條は「お嬢」の体を洗ってきたというのである。
「…どうして中條君が!?」
「申し訳ありません…。実は、お嬢殿は、新選組から帰されてからずっと食事を取らなかったそうなのです。その上、誰も近づけようとしなかったため、外へ出すことはおろか、体を洗ってやることもできないのだと…ご主人から泣きつかれまして。」
「…お嬢が…。」
「私でも無理かと思っていたのですが、近づくとお嬢殿の方から顔を摺り寄せてきたので…。…何度か一緒に散歩に出たのを憶えてくれていたのかも知れません。…それで僕が食べるものを与えて、体も洗ってあげました。…馬って…あんなに情があるのですね。」
その後、中條の報告はこうだった。
…お嬢は確かに子どもを産んでいた。だがひどい難産だったため、商家の主人をはじめ、男衆が手伝って、途中で体のひっかかってしまった子馬の体を引き出してやったのだという。しかし、体が出た頃には、もう子馬は死んでいた。
主人は「この馬にしてみれば、我々が子どもを殺したように見えたのかもしれません。」と、悲しそうな表情をしたのだという。
(…だから…「男」は乗せなかったのか…。)
沖田はそう思った。そして「男姿」をしている「礼庵」が女であることも、馬のなんらかの感でわかったのかもしれないのだと…。
その後沖田は、土方にお嬢を返してもらうように頼んだ。
…しかし、それからの新選組は忙しい日々が続き、とうとう伏見へ行くことになってしまった。
伏見を経つ前の晩、その頃、ほとんど寝たきりになっていた沖田は、中條にぽつりとこう呟いた。
「元気なうちに…「お嬢」に乗ってみればよかった…。…伏見へ連れて行けないかなぁ…。」
しかし「お嬢」は新選組へ戻されることはなかった。そして「お嬢」がその後どうなったのか、今でもわからないのである。