一番隊解散
新選組屯所-
沖田はふと眼をさました。
寝入っていたらしい。いつの間にか窓が閉められており、体には羽織が掛けられていた。
文机の傍に置いていた汚れ物もなくなっている。
(中條君が来たのだな。)
人が入ってきたことに気づかないほど疲れているとは、よほど体が弱っているらしい。
頭は少しすっきりしたが、まだ体は重かった。
沖田はゆっくりと体を起こした。
その時、ふすまの外から、中條の声がした。沖田は返事をし、入るように言った。
「失礼いたします。」
中條は食事を持ってきたのだった。
「いつもありがとう。…さっきも来てくれたのですね。寝入っていて気づきませんでした。」
「大丈夫ですか?…とても疲れているご様子でしたが。」
「ん…君の手料理を食べたら元気になるでしょう。きっと。」
沖田はそう言って笑った。中條は少し照れくさそうにした。
「礼庵先生のところで、煮物を教わりました。…これまでのよりもお口にあうと思うのですが。」
沖田はいつも煮物を残していた。中條はそれを自分の味付けが悪いと思っているらしい。
「気を遣わせて申し訳ない。…いただきます。」
中條は頭を下げて、出て行こうとした。沖田はそれを止めた。
「中條君、食事は?…もう終わったのですか?」
「いえ…。これから、ですが…」
「よかったら、私と一緒に食べてもらえませんか。独りだとあまり食が進まないんです。」
「!?…先生と…ですか…!」
中條が驚いた様子に、沖田はあわてて言った。
「ああ、いや。…やはり、よしておきましょう。…皆と食べた方が…」
「楽しいでしょうね」と続けかけたのを、中條が「いえ!」と遮った。
「僕、すぐに自分の分を持ってきます!」
中條はそう言って嬉しそうに立ち上がり、あわただしく出て行った。
沖田はほっとしたように、微笑んだ。
……
沖田は膳を前に中條を待っていた。
やがて中條の声がふすまの外からした。
「どうぞ。」
中條がそっとふすまを開いたが、何か申し訳なさそうな表情をしている。
「先生…あの…」
「?どうしました?…何かありましたか?」
「いえ…その…。…実は山野さんもご一緒したいとおっしゃるんですがよろしいですか?」
「!?」
沖田は驚いたが、ふと表情を緩めてうなずいた。
「もちろん構わないよ。…こんなところでよければ。」
中條が嬉しそうにしたが、再び申し訳なさそうな顔をする。
「それが…山野さんだけじゃないんですが…」
「…え?」
「僕だけずるいと言って…あと3人ほど…」
沖田は笑った。
「どうぞ。」
すると、中條がうれしそうに後ろを振り向き、ふすまを大きく開いた。
山野を先頭に数人の一番隊士達がそれぞれ膳を持って待っていた。
沖田は何か胸が熱くなるのを感じた。
「…いらっしゃい…」
それを言うのが精一杯だった。
とたんに沖田の部屋がにぎやかになった。
全員が落ち着いたところで、食事会が始まった。
何か試衛館時代を思い出させる、懐かしい雰囲気だった。
「先生だけ、おかずが違うんですね…」
「ばか、人の膳を覗くな。失礼だぞ。」
「だって、先生の方がおいしそうじゃないですか。」
「あ、先生のは僕が作ってるんです。」
「え?先生のは特別なんですか。…いいなぁ。」
「でも、ちょっと少なめじゃないですか?」
沖田は隊士たちの会話にくすくすと笑いながら食べた。いつもと箸の進み方が全く違う。
やはり、独りで食べるより大勢で食べる方が食が進むらしい。
……
食事を終え、皆沖田に頭を下げると、膳を持って出て行った。
部屋がとたんに静かになる。
独り残った中條が沖田に新しいお茶を注ぐと、空いた膳を持って出て行こうとした。
「中條君…今日はありがとう。…とても楽しかったよ。」
「いえ…。うるさすぎませんでしたか?」
中條はどちらかというと恐縮しているようだ。
「いや、楽しかったよ。…またいつでも来て欲しいと伝えておいてくれるかい?」
「え?いいんですか!?」
「もちろん」
中條は「はい!」と答えると、嬉しそうに出て行った。
……
沖田はごろりと横になった。食事の後は、しばらく胃を落ち着かせるために体を横にするよう、礼庵から言われていたのである。
「…そう言えば、しばらく大部屋に行っていないなぁ…」
また体力が戻ってきたら行ってみよう…沖田は思った。
しかしいつになるのか、自分でもわからなかった。
……
翌日-
沖田は今日も、畳の上で体を横たえていた。
最近、長く座っていることすらできなくなってきている。
今までは医者に言われていたから、できるだけ体を横たえるようにしていたのだが、このところ自然と横になりたくなるのである。
咳も抑えることができなくなっている。
微熱は相変わらず続いているが、熱には慣れてしまっていた。
「…やばくなってきたなぁ…」
沖田は見慣れた天井を見上げてつぶやいた。もう人前で平然とすることもできなくなっている。巡察もかなり辛くなってきた。
「これでは、皆に迷惑をかけてしまうな…。」
しかし、巡察にも出られなくなっては、自分の存在価値が失われてしまうような気がした。
「いけない…気力まで落としてはだめだと、礼庵殿も言っていた。」
沖田はそう呟くと、体を起こした。そして、一つ大きく息を吐いた。
「…道場で一汗かいて来よう。」
沖田は立ち上がり、一回伸びをしてから、部屋を出た。
……
道場-
誰もいない道場で、沖田は独り木刀を振っていた。
「十!…十一!…十二…十三…!」
一つ一つ数を数えながら、びゅんという音を確認しながら、木刀を振る。
しかし、二十を超えただけで息切れがした。じっとりと、こめかみに汗がにじみ始める。
(…たった、これだけで…)
そう弱気になりかけたが、すぐに気を取り直し、木刀に力を込めて振り続けた。
「…!…」
三十を越えた時、突然胸に苦しさを感じ、咳き込んだ。体が崩れ落ち、その場にしゃがみこむ。
(…やはり、もうだめか…!)
咳き込みながら、沖田はそう思った。
……
沖田は咳がおさまってからも、しばらくその場にしゃがみこんだままでいた。
咳き込むことに体力が奪われてしまっている。もはや、木刀を握る気力すらなかった。
何故か突然、姉みつの顔を思い出した。
江戸から出てくるときの、不安そうな姉の顔。
(…姉さん…もう…姉さんに顔を合わせられないよ…)
今、脳裏にうつる姉の顔は何か怒っていた。
『あなたはいったい京で何をしてきたのです』
そう言っているかのようだった。
(…近藤先生や土方さんのお役に立とうと思ったけれど…結局迷惑をかけてしまいました。…ごめんなさい…姉さん…。)
沖田は、思わず謝っていた。
「先生!!」
その声に、沖田は我に返った。中條が血相を変えて駆け寄ってきていた。
「先生!大丈夫ですか!?」
「ええ…。ちょっと咳が出てしまって…。」
「だめじゃないですかっ!少しでも体を休めるようにと、礼庵先生にも言われてたじゃないですか!…さぁ、お部屋へ戻りましょう。立てますか?」
「…ん…」
沖田はゆっくりと立ち上がり、何もなかったかのように歩いてみせた。…しかし、視界がかなり狭くなっている。
中條は黙って、沖田の後ろをついて歩いていた。中條には沖田が必死に平静を装っているのがわかっている。しかし、体を支えようとはしなかった。沖田が嫌がることをわかっているからである。
「今度の稽古までに、体力を戻しておかないといけませんね。」
「……」
中條は、沖田に稽古に出て欲しくなかった。そんなことよりも、ゆっくり体を休めて欲しい。…しかし、言えなかった。沖田の性格を知る限り、そうはしないだろうことをわかっていたからである。
「でも、邪魔になるかな…今のようなことになったら…」
「邪魔になるなんてことは…!…決して…」
中條は言葉に詰まった。…本当は「そうです」と言ってしまった方が沖田のためなのではないかと思ったのである。
しかし、中條に言えるはずがなかった。
二人は沖田の部屋の前についた。
「中條君、薬を飲みたいから、水を持ってきてくれるかい?」
「はい…!」
「すまないね…」
沖田は中條に微笑を残すと、部屋に入っていった。
……
中條は沖田の床の用意をしていた。
その横で、沖田は粉薬を口に含むと、中條が持ってきてくれた湯飲みの中の水を飲み干した。
沖田の顔がゆがんだ。
「薬の味って、何度飲んでも慣れないね。」
その沖田の呟きに、中條はなんと答えていいのかわからず、ただ黙々と床の準備をしていた。
「会いたいな…」
「…え?…」
中條はぎくりとして動きを止め、沖田を見た。沖田は文机にひじをついて、空を見上げている。
「八木さんや…壬生寺の子ども達…しばらく会っていないから…」
「そう…ですね…」
「でも…子ども達の相手はもうできないかなぁ…」
「大丈夫ですよ!」
沖田は驚いた表情で中條を見た。
「きっと今だけです。また具合がよくなられます。…今までだってそうだったんですから。」
中條は無理に明るい声を出して言った。沖田が微笑んだ。
「そうだね…。今までのように…また元気になれるかな。」
中條はうなずいた。
「少しでも早く元気になられるためにも、とにかく体を休めて、お食事をとるようにしてください。…僕、もっと料理を勉強して、おいしいものを作りますから…!」
「ありがとう…頼みます。」
「さぁ…どうぞ横になってください。お食事まで、まだ時間もあります。」
「巡察は夜からでしたね。」
中條は一瞬言葉につまったが、「はい」と答えた。
「じゃぁ、ゆっくり休むとしよう。…ありがとう、中條君。」
中條は深々と頭を下げると、沖田の部屋を出た。
何かやるせないような思いが、中條の胸をしめつけていた。
……
沖田は床の中で何度も寝返りを打った。
中條を安心させるために横になったはいいが、眠れないのである。
疲れているように感じるのに、何故か頭の芯が過敏になっているようだった。
(…困ったなぁ…)
沖田の脳裏に姉が現れた。
『まるで子供みたいね…姉さんが、子守唄を唄ってあげましょうか?』
みつがそう言って笑っている。
(…うん…久しぶりに聞きたいな…)
みつはくすくすと笑った。
『本当に子供みたい…。じゃぁ、唄ってあげるわね。』
沖田は眼を閉じた。姉の美しい声が沖田の記憶から呼び覚まされ、脳裏に流れた。
(姉さん…死ぬまでに会えるかなぁ…。もう一度、その唄…聞けるかな…)
沖田は眠りに落ちていった。
……
沖田は夢と現の間をさまよっていた。
遠くから、気合の声が聞こえてくる。
(稽古が始まったのか。…今日は…吉村さんかな…?)
ぼんやりとした頭で考えた。その時背中に人の気配を感じた。
「!…」
沖田は反射的に体を起こし、刀へと手を伸ばした。
「おい!」
その声に、はっと振り返った。土方であった。
「全く、勘まで鈍っちまったのか?…屯所に刺客など入ってくるわけなかろう。」
「…そう…ですね。」
沖田は苦笑して、土方に向いて床の上で座った。
「大丈夫か?…ついふらっと入ったら、寝ているから…。」
「私が眼を覚ますまで、待っているおつもりだったのですか?」
「いや…そこまで考えてはいなかったが、何だか出ていけなくてな。…時々咳をしていたぞ。…最近、ずっとそんな感じなのか?」
沖田はぎくりとした。また土方によけいな心配をかけてしまうと思ったのである。
「大丈夫ですよ。…ちゃんと薬も飲んでいますし。」
「そうか…。薬を切らすなよ。」
「はい。」
「まぁ…寝てろ。…起こしてすまなかったな。」
沖田は「はい」と返事をした。土方は沖田が寝るのを手伝ってやり、布団をかけてやった。
「土方さん…」
部屋を出ようとする土方に沖田が呼びかけた。
「…ん?」
「近藤先生には…言わないで下さい。」
土方はきっと口を結んだ。…が、やがて「わかってる」と言って、部屋を出て行った。
沖田はふすまの向こうで土方が立ち尽くしているのを感じていた。
……
近藤の部屋-
近藤は腕組みをして目をじっと閉じ、土方の言うのを聞いていた。
「総司は、私に気を遣うほど、悪くなっているのか。」
「…そう言うことだな。」
近藤は目を開いて、大きくため息をついた。
「どうしよう…歳さん…。総司にこのまま巡察を続けさせていいだろうか…。」
「私もやめさせたいが…我々がやめろと言えば、総司はよけいに反発するような気がするんだ。」
「…うむ…」
「…総司の判断に任せるしかないと思う…。…しかし…今の様子だと、なかなかやめようとはしないような気がする…。」
「…私が悪役をするか。」
「!?…何を…?」
「総司に「これ以上隊に迷惑をかけるな」と言うんだよ。」
「…それは…!」
沖田にも近藤にも酷過ぎる…と土方は思った。
「…それは…私がやる。」
土方が声を低くしていった。
「歳さん…!」
「総司は私よりも、近藤さん…あんたのことを慕っている。そこまで近藤さんがやっちまったら…総司は本当に支えをなくしちまう。」
「それをおまえさんが、支えてくれればいいじゃないか。」
「私ではだめだ。…あんたでなけりゃ。」
「歳…!」
「…私は、もともと隊の嫌われ者だ。…慣れてるよ。」
近藤は黙って、いつものように顔をいがませてそう笑う土方を見つめていた。
「総司のためなら…嫌われ役だってなんだってやるさ。…その気持ちは近藤さんもわかってくれるだろう?」
近藤は目を伏せてうなずいた。
「すまん…歳さん。」
土方は黙って首を振った。
「ただ…少し、時間をくれ。」
「…?」
「あいつを…もうしばらく一番隊組長として働かせてやりたいんだ。…あいつには、剣しか生きる術はない。…それをすぐには奪いたくないんだ。」
「…わかってる…。歳さんに任せるよ。」
土方はうなずいた。近藤は腕組みをしたまま、開いた障子から見える空を見上げた。
……
沖田はこのところずっと、巡察から帰ればすぐに体を横にせずにはいられないほどの疲れを感じるようになった。
今日も体を横たえている。
「総司…入っていいか?」
土方の声がした。
沖田はあわてて体を起こして返事をした。
ふすまが開いた。
「休んでいたのか…」
入るなり、土方が言った。
沖田は「ええ」と微笑んで答えた。
土方は厳しい表情で、沖田の前に座った。
「なんの御用です?…何か隊でありましたか?」
「いや…まぁ、いつもと変わらん」
土方は何か無愛想にそう言った。
「どうしました。怖い顔を一層怖くして。」
沖田がそう言って笑ったが、土方はそれにつられない。
何か二人の間に、重苦しい空気が漂っていた。
「…土方さん…?」
土方はただ黙っている。
…土方と沖田はしばらく黙ったまま向き合っていた。
が、やがて土方が重い口を開いた。
「…総司…このところ…お前の体の具合がどんどん悪くなっているように思うが…どうだ?」
沖田はどきりとした。もう隠すこともできない程に憔悴していることは自分でもわかっていたが…。
「…仰るとおりです。」
沖田はいつものように「大丈夫ですよ。」と笑えなかった。またそんな自分が哀しくもあった。
「…その様子じゃ、お前に隊を守ってもらうわけにもいかん。」
「それ以上は言われずともわかっています。」
沖田はそう言って、まるで童子のような笑顔を土方に向けた。
土方はその沖田の笑顔に驚いた。
「これ以上、隊に迷惑をおかけしません。一番隊のことも…私のことも…すべて土方さんにお任せします。」
沖田がその笑顔のまま言った。
「…総司…」
土方はそう絶句したきり、言葉が出なくなった。
そして、突然頭を垂れ、両手をついた。
「…土方さん…?」
沖田が思わず腰を浮かせた時、土方の両拳に涙がぽたぽたと落ちた。
「…!…土方さん…泣いているのですか?」
「…ばかやろう…素直に言うことを聞く奴があるか…気が抜けちまったじゃないか。」
「…!…」
沖田は、微笑んで腰を下ろした。
「…だって…たまには土方さんの言うこときかないと、追い出されちゃかなわないもの。」
そう言って笑った。
「…ばかやろう…」
土方は拳で涙を拭った。
「私を…追い出さないですよね。」
「…!…」
「…寝たきりになっても…そばにいさせてもらえますよね。」
土方は顔を上げた。
すると今度は沖田が頭を垂れていた。
「死ぬまで…近藤さんと土方さんの傍にいさせてもらえますよね…。」
「……!」
土方はこらえきれずに、沖田の頭を抱いた。
……
沖田は床に体を横たえていた。じっと目を閉じているが、眠ってはいなかった。
その横には、土方がいる。
「…総司…隊を手放すのは一時的なことだ…。またお前の体力が戻ったら、隊は返す。だから早く体を治せよ。」
沖田は眼を開いて土方を見た。
「…はい。」
「近藤さんと俺にどこまでもついていくといった言葉を忘れてくれるな。」
「忘れたりしませんよ。」
沖田が微笑んでいった。
土方は安心したように笑顔を見せた。
沖田は再び眼を閉じ、やがて寝息を立て始めた。
…それを見て、土方はそっと部屋を出て行った。
沖田は、ふと目を見開いた。寝たふりをしただけだったのだ。
(もう…私は、本当に終わりなのだな…)
一番隊のことをすべて土方に任せる…そう決意したとたん体が重くなった。
もう一番隊組長ではなくなった。これからは隊士達に迷惑をかけずにすむというほっとした気持ちと、きっと、もう刀を振るうこともないのだという空しさが沖田の心の中で交差した。
これまで沖田の具合が悪い時は、永倉に隊をみてもらうことが多かった。…たぶん一番隊は永倉の二番隊に吸収されるだろう。
一番隊士達には、このところずっと心配をかけっぱなしだった。こんな頼りない長によくついてきてくれたと思う。
(皆に別れが言えるだろうか…。せめて礼を言いたいな。)
沖田は目を閉じ、一番隊士達の一人一人の顔を思い出していた。
その目からすっと涙が零れ落ちた。
……
永倉が急に部屋を訪れた。
沖田が体を起こそうとすると、永倉が「そのままで」と制した。
「…朝…副長から、一番隊を頼むと言われたよ…。」
「…とうとう、この日が来てしまいました。」
沖田は微笑んで言った。そして永倉が制するのを聞かず起き上がり、永倉の前で手をつき、頭をさげた。
「くせがつよくて手を焼くかもしれませんが、よろしくお願いいたします。」
「…総司…」
「いいから寝ろ」と永倉は沖田の体を支えてやり寝かせた。
「…一番隊士達には、私の方から伝えるように言われたが…正直辛いんだ。」
「……」
「組長が元気になるまでの間だけだと言おうと思っている。…かまわんか?」
「永倉さんにお任せします。本当は私から隊士達に話ができればいいのだけれど…。」
「隊士達に伝えたいことがあるかい?」
「沖田から、これまでよくついてきてくれた。感謝している…と…それだけを。」
「ん…わかったよ。」
永倉はうなずいた。
……
沖田は永倉が部屋を出てからずっと目を見開いて、天井を見ていた。
眠れない。どこか神経が立っているようだった。
夕方になって、ふすまの外から声がした。
「沖田先生…お食事をお持ちしました。」
中條の声だった。何か震えている。
「…どうぞ。」
沖田はそう答えて、ゆっくりと体を起こした。
そっとふすまが開き、中條がいつものように膳を持って入ってきた。
が、その目は真っ赤に腫れ上がっている。
「いつもありがとう…。そして…世話になったね。」
沖田が微笑んで中條に言った。中條は腫れた目を見開いて沖田を見た。
「これからは賄いさんたちから持ってきてもらいます。…中條君は隊の務めに専念してください。」
「嫌です!」
中條の目から涙が零れ落ちた。
「僕は…ずっと先生の傍におります!…だめだとおっしゃるのなら、すぐに隊を抜けて賄いになります!」
「ばかを言うんじゃない。隊を抜けたら切腹ですよ。」
沖田がにこにこと微笑みながら言った。
「それに君は、もう隊にはなくてはならない存在になっています…。入隊してきた時は、型も何もめちゃくちゃだったけれど…今はすっかり隊の重鎮です。本当によくがんばりましたね。」
中條は首を振った。
「一時的な感情で、自分を見失ってはなりません。…これからも隊の役に立って欲しい。…私からのお願いです。」
中條はその場に泣き崩れた。
そのときふすまがいきなり開け放たれた。
山野を先頭に一番隊士達が皆その場に座り込んで泣いている。
「…!…」
「先生!…きっと戻ってきてください…お願いします。」
沖田は皆の泣く姿を見て顔をくずしたが、すぐに柔らかい笑顔を見せた。
「ありがとう…。…隊に戻れるように努力します。…でも、それまでちゃんと永倉さんの言うことを聞いて、二番隊に迷惑をかけないようにしてください。…わかりましたね。」
皆、一様にうなずいた。
泣き声はなかなか止まなかった。
……
道場-
沖田はゆっくりと道場へ向かった。
中では一番隊と二番隊が稽古をしていた。
沖田が顔を出すと、道場の中がしん…となった。
「沖田先生…」
そんな呟きがあちこちで聞こえた。
稽古の様子を見ていた永倉があわてて近寄ってきた。
「総司…どうした…?」
「私に最後の稽古を…」
「!…」
「お願いします。」
沖田は永倉に頭を下げた。永倉はしばらく立ち尽くしていたが、やがてにっこりと微笑むと、道場へと振り返って大声で言った。
「聞け!!今日は特別に沖田先生が稽古をつけてくれるそうだ!!我こそはと思うものは、前に進み出ろ!!」
道場は一層水を打ったように静かになったが、やがて嬉しそうな声を上げて、一人二人と手を上げた。
「よし…一番隊の人間からだ!…沖田先生、びしびししごいてやってくれよ!」
沖田は永倉に微笑んでうなずき「ありがとう…」と呟いた。
そして、顔をひきしめると、道場の真中へと進んだ。
「…一番は中條君か…よろしく。」
中條は面も胴も取り外していた。その目から涙がぼろぼろとこぼれている。
「よろしくお願いします!」
涙を拭いながら中條が声を張り上げた。
(最後の稽古だ…倒れて皆に迷惑をかけないようにしなきゃ・・)
沖田は型どおりの挨拶を済ませると、厳しい表情で中條と対峙した。
(いつもの先生だ…!)
中條は喜びに震えながら、気合の声と共に、沖田に打ちかかった。
……
ずっと寝たきりでいたとは思えないほどの沖田の気迫に、皆押されていた。
一番隊の人間は、沖田の稽古に慣れていたにも関わらず、打ちひしがれた状態となった。
この沖田の勢いに、二番隊の人間はすっかりのまれてしまっている。
永倉も驚きを隠せなかった。
(なんのなんの…総司の奴、まだまだいけるんじゃないか?)
そう思ったほどだった。
二番隊の二人目が進み出た時、沖田は突然口元に手を当てた。
「!…総司!」
「沖田先生!!」
一同がざわっとどよめいた。沖田は咳き込みながら目で謝ると、道場を出て廊下を走った。
(…やはりここまでか…)
とうとう、廊下の真中で座り込んだとき、胸に熱いものがこみ上げ、そのまま喉を通って手の中へ落ちた。
「!!」
血を吐いたのだった。ぼんやりと真っ赤に染まった手を見つめていると、人が走り寄ってくる足音がした。
「総司殿!!」
沖田はその声に驚いて顔を上げた。そして、信じられないと言う表情で目の前にいる人物を見た。
「礼庵殿…?」
礼庵は沖田の手にべったりとついている血を見て目を見開き、後ろから付いてきている隊士に、沖田の部屋に床をひくように指示した。
沖田の後ろで、ばたばたとあわただしい足音が遠ざかっていった。
沖田を追って来ていた永倉が心配そうに礼庵の顔を見た。
礼庵は「大丈夫です」というように頷いて見せた。
「…後を…お願いします。」
永倉は礼庵に頭を下げると振り返った。一番隊の隊士達がぼんやりと沖田と礼庵を見つめて立っていた。
「後は先生にお任せしよう…さぁ、道場へ戻るぞ。」
永倉はそう言って、先に道場へ帰っていった。
礼庵は中條を先頭に立っている隊士達に微笑んで見せた。
「沖田先生は大丈夫です。…さぁ、帰って。」
皆、うなだれたようにして立っていたが、やがて一人二人と道場へ戻っていった。
中條は最後まで残っていたが、山野にうながされ、礼庵に一礼すると、ゆっくりと道場へ帰っていった。
礼庵は沖田のあごを片手でささえながら、そっと口元の血を拭いた。沖田はただ、されるがままになっていた。
沖田は血で汚れた手を出すように言われ、素直に手を礼庵に差し出した。
礼庵はやるせないような表情で沖田の手を拭った。
「なぜ、稽古など…」
その呟くような声に、沖田は答えた。
「私はもう…一番隊組長は務まらない…」
「…!?」
「最後の稽古のつもりでした。もう…前のように剣をふるうことはないかもしれない。」
礼庵は黙って、沖田を見つめている。
「…剣を取れなくなったら、私に何が残るのだろう…」
礼庵はしばらく黙り込んでいたが、すぐに表情を明るくして言った。
「また剣を取れる日が来ます。できるだけ休養を取って、できるだけ食べるようにすれば、きっと、前のように…。あせることはありません。ゆっくり休養すれば、元気になります。」
気休めでしかないことは沖田にもわかっていた。しかし、必死にそう慰めてくれようとする礼庵に応えようと沖田は微笑んで見せた。
礼庵はその沖田の微笑みに、ゆっくりと頷いて見せた。
……
近藤、土方が沖田の寝ている床の傍に座っていた。
沖田が最後の稽古の後に血を吐いてから、毎晩と言っていいほど、二人は沖田の様子を見に来ている。
「お二人とも昼間もお忙しいでしょうに…もう休んでください。」
毎晩沖田はそう言うのだが、二人は沖田が寝入るまで決して部屋を出ることはなかった。
土方が突然言った。
「おかしな話だが…何か、こうして三人でいると落ち着くんだ。」
沖田は思わず目を見開いた。
「どうしたんですか?土方さんらしくない言葉ですね。」
その沖田の言葉に近藤が笑った。
「確かにそうだな…歳さんらしくない。」
土方がとたんに不機嫌になった。
「悪かったな…」
沖田は布団を目までかぶって笑っている。
「おい!笑いすぎだぞ総司!…また咳が出たらどうする!」
土方が顔を赤くして怒った。
「まぁまぁ…」
近藤が土方の肩をぽんぽんと叩いた。
「…だけど、私も歳さんと同じ気持ちだよ。…こうして三人で一緒にいると何か落ち着くな…。昼の忙しさなど忘れてしまう。」
沖田はまだ布団をかぶっている。
「おい、総司。いつまで笑ってるんだ。顔を出せ。胸によくないぞ!」
土方がそう言って、無理に沖田の掴んでいる布団を下げた。しかし次の瞬間、土方は目を見開いた。
「…総司…?」
沖田の頬に涙の筋があらわれていた。唇をきっと噛んでいる。
二人は驚いて、思わず腰を上げた。
「どうした?総司…何を泣いているんだ。」
「…おい、総司…。」
沖田は子供のようにかぶりをふり、再び布団を頭までかぶった。
近藤と土方は顔を見合わせた。
沖田の堪えた嗚咽だけが、布団の下からこぼれていた。
……
近藤と土方は、涙を残したまま寝入ってしまった沖田の顔を見ていた。
結局、何故沖田が泣いたのかわからなかった。
「…何を思ったんだろうな…」
「…んん…」
近藤はうなるような声を発した。
土方は腕を組んでいった。
「なぁ…近藤さん…。総司を江戸へ帰してやらねぇか?」
「…!…江戸へ?」
「…どちらにせよ、このままじゃ、総司は悪くなるばかりだ。姉さんの傍で養生した方がいいと思うがね。」
「……」
近藤も腕を組み、黙って沖田の顔を見た。
「しかし、この弱りようで…江戸まで体が持つだろうか?」
「…そうだな…」
二人はしばらく沖田の顔を見つめたまま、黙り込んだ。
「…それよりも…総司が素直に「うん」と言うかだな。」
「言わせるさ…今回は私が悪役をすると決めたんだ。…嫌われても言わせなくては。」
「歳さん…」
近藤がぽんと土方の肩を叩いた。
「…?」
「もう悪役はやめだ。」
土方は目を見開いた。
「総司についてきてもらおう…地獄の果てまで…。」
「…!…近藤さん…」
「…今、なんとなくわかったんだ…。総司が泣いた理由が…。」
「…え?」
「総司は、いつかこの三人がばらばらになってしまうと思ったんじゃないだろうか…」
「我々がばらばらに?」
近藤は沖田の寝顔を見ながらうなずいた。
「…そして、今おまえさんが言ったことも予想したんだろう。…いつか、江戸へ帰されるってな。」
「…!…」
土方も沖田を見た。
「総司は、どこまでも私たちについていくと言ったんだ。…総司の納得するところまでついてきてもらおうじゃないか。」
「……」
土方は沖田を見たまま、「そうだな」と呟き、ゆっくりとうなずいた。
……
新選組は、伏見に行くことが決まった。
それと同時に屯所内はあわただしくなった。
そんな中、沖田だけはやはり床の中にいた。
礼庵が最後の稽古から、毎日のように来てくれていた。
今日も来てくれたが、伏見に行くことは言えなかった。沖田自身、別れを言うのが辛かったのである。
(明日来られたら言おう…)
そう思っていたが、翌日も、その翌日も結局言えずじまいになってしまった。
そんなある日、土方が部屋に現れた。そして、憮然とした表情で座ると、間髪いれずに沖田に言った
「おまえの姉さんに文をだそうと思っている。江戸へ戻れ。…伏見では九分九厘戦になる…。そんな時にお前のような病人を抱えるわけにはいかないんだよ。」
沖田は当然のように首を振った。が、土方も簡単には引き下がるわけにはいかない。
「では、あの女医者のところにでもかくまってもらえ。…伏見のことが済んだら迎えに行くから。」
土方は、近藤には内緒でことを進めようとしていたのだった。「地獄の果てまでついてきてもらおう」という近藤の言葉には同意したが、土方にとっては、「そうはできない」というような気持ちがどこかにあったのである。
しかし沖田は、そんな土方の気持ちを知ってか、にっこりと微笑んで言った。
「その手には乗りませんよ。私は、最後までお二人についていくと決めたんです。何を言われてもついていきます。」
土方は唇を噛んで涙を堪えている風を見せたが、やがてそれをごまかすように、立ち上がって背を向けた。
「…勝手にしろ!」
土方は怒ったように部屋を出て行った。その足音が聞こえなくなってから、沖田はおもむろに咳き込み、その場にくずれた。
(…これではいけない…少しでも体力を戻して、迷惑をかけないようにしなければ…)
沖田は独り、咳き込み続けた。
……
伏見へ発つ3日前になって、沖田がいきなり外を歩きたいと言い出した。
いつも様子を見に来ていた中條は困惑したような表情をしたが、沖田の「しばらく京に戻って来れないだろうから」という言葉に折れ、土方の許可を取って、二人で外へ出た。
寒い日である。沖田は外套を羽織り、中條を後ろに歩いた。
「先生、辛いようでしたらおっしゃってください。」
「大丈夫だよ。…今日はなんとなく調子がいいんだ。」
沖田は不安げな表情の中條に振り返って微笑み、言った。
「できたら…清水まで行きたいけど…」
「!それは無理です!」
中條は思わず叫んだ。
「…そうだな…そうだろうな…」
少し寂しげな声で言う沖田に、中條ははっとした。
「…申し訳ありません…僕…つい…」
沖田は微笑んで首を振った。
中條は、寂しそうに京の町を見渡す沖田の背中を、ただ悲しげに見つめていた。