命の値段
中條は、大部屋前の廊下でぼんやりと中庭を眺めながら、あぐらを掻いて座っていた。
山野は、想い人「百合」のところへ行っている。
沖田も土方に無理やり連れられて、医者へ行っているという。
「暇だなぁ…」
大部屋では、平隊士達が思い思いに時を過ごしている。巡察に出る以外は稽古しかないので、他の時間は休んでいるしかないのである。
だが、こんな時間が一番貴重なんだろう。誰もが明日生きているかどうかわからないのだ。
「外に出るか。」
今日は非番なので門限まですることもない。
中條は外へ出た。
……
中條は、無意味に外を歩き回ったためか、疲れを感じながら戻ってきた。門番に頭を下げ、屯所内に入ると暮六つの鐘がなった。
「疲れた~」
中條は自分の場所にごろりと体を横にした。
「ん?」
中條は目を閉じかけて、はっと気づいて体を起こした。
山野が帰っていない。
(…まさか帰って来ない訳はないから…僕が外にいる間に、局長に何か用事を言われたのかな?)
山野は何故か近藤からよく用事を言いつけられる。気に入られているのだろう。
中條は特に気にせず、晩御飯の時間まで体を休めることにした。
……
中條は箸が進まなかった。
山野が帰ってきていないのである。一番隊士達に聞いても、誰も見ていないという。
近藤に頼まれた用事に手間取っているのだろうか?
主のいない隣の膳を見ながら、中條はゆっくりと箸を動かしていた。
一番隊士達も、時々山野のいない膳を覗いては、首をかしげてささやき合っている。
とうとう皆が食べ終わった後も、山野は帰ってこなかった。
……
(先生はご存じなんだろうか?)
中條は自分の場所であぐらを組み、いつも山野が座っている隣の空所を見ながら思った。
(先生なら、山野さんがどこへ行かれているか知っているかも…)
中條はそう思い当たると、すっと立ち上がった。
……
「山野君が戻ってきていない?」
沖田の驚いた顔を見て、中條は脇を脂汗が流れるのを感じた。
沖田は何も知らないようである。となると、中條は山野の局中法度を告げ口したことになる。
「…僕は局長に何か用事を言われたのかと思っていたのですが…」
「近藤先生は今日はお昼から休息所に行かれていますから、それはないと思います。」
「!?」
中條は顔色を変えて、下を向いた。
沖田も神妙な顔つきをしている。中條は沖田に尋ねたことを後悔した。
沖田は、つと立ちあがった。中條は驚いて沖田を見上げた。
「探しに行きましょう。今日は土方さんも休息所です。近藤先生も土方さんもいないうちに見つけなければ…。」
中條が、ほっとした表情をして立ち上がろうとした時「誰か!!」という声が外から聞こえた。
中條と沖田は一瞬顔を合わせたが、中條がふすまを開けて部屋を飛び出した。
……
「誰か手を貸して…!誰か!」
中條と沖田はその声に向かって走った。すると玄間先で門番に肩を抱えられている山野の姿が見えた。
「!?山野さん!!」
「!?」
山野の右脇にかなりの血が滲んでいる。
「…中條さん…」
山野は、走り寄ってきた中條の体にもたれ込んだ。
「…山野さん…しっかり…!」
沖田は門番に「東先生を呼んで!」と叫んだ。
門番は青い顔で沖田にうなずき、あわてて外へ飛び出していった。
……
山野は診療部屋の床の上で、傷の痛みに耐えていた。その傍には、中條と沖田が不安気な表情で座っている。
東はまだ来ない。
山野に何があったのか聞きたいが、聞ける状態ではなかった。中條は何度も山野の額の汗を拭った。
(刺客にあったのなら、門限を破ったことは赦されるかもしれない…)
しかし刺客を逃がしたのなら、士道不覚悟で切腹となる場合もある。沖田も中條と同じ不安を感じていた。
東が慌てた様子で部屋へ入ってきた。中條と沖田はその場を出された。二人とも心配気な表情で、ふすまをただ見つめている。
……
中條は目を閉じている山野の傍に座っていた。
診療した東は「傷は深いが、内臓を損傷していないからよかった。とにかく安静にさせるように」と言付けて、帰って行った。
山野は眠っているように見えたが、ふと目を開いて中條を見上げた。
「中條さん…」
そう言ったが、声が嗄れてその後の言葉が続かない。
中條は首を振った。
「山野さん、何も言わないでいいです。とにかく休んでください。」
山野は困ったように微笑んだが、やがて眼を閉じ、眠りに落ちた。
中條はほっとして、座りなおした。
(何があったんだろう?)
万一、山野が刺客を逃がしてしまっていたとしても、士道不覚悟とならないように何か自分にできることはないか…。後になって自分がその刺客を捕らえても、山野がその場で逃がしたことには変わらない。今のうちに何かできることはないのか…。中條は必死に頭を巡らせていた。
……
その夜も、中條はずっと山野の傍にいた。山野の隣に床を敷いてもらっているが、その上に座ったままでいる。
沖田に大部屋で寝るように言われたが、心配でとても寝られないからと山野の傍にいさせてもらえるよう懇願した。沖田は許してくれた。
「山野君に何かあったら、私を起こしに来て下さい。」
沖田はそう言って部屋に戻っていった。
「…中條さん…」
物思いにふけっていた中條は、はっとして山野を見た。
「山野さん!…痛みますか?お薬また飲みましょうか?」
山野はその中條の言葉に微笑んで首を振った。
「…すいません…ずっといてくれたんですね。」
声はまだ少し嗄れている。
「山野さん、あまりしゃべらない方が…。傷に響きます。」
「…大丈夫です。」
山野は穏やかな表情で答えた。そして一つため息をついた。
「今日、私を刺した相手は…女だったんです。」
「!?…女…!?」
山野は悔しそうにうなずいた。
「屯所へ戻ろうと川辺に差し掛かった時…突然後から走り寄ってきて…何かと振り返った途端、脇差のようなもので右腹を刺されていました。」
「!?…」
「年は私と同じくらいだと思います。脇差を抜く瞬間に向こうが顔をあげてにやっと笑って…そのまま走り去ったんです。」
「……」
「相手が男だったら…ためらわずに切る余裕は十分ありました。…ですが…相手が女だったので…躊躇してしまって…」
山野はそこでふーっと息をついた。
「…恥ずかしい話です。女に刺されて、そのまま相手を逃がしてしまったんですから。」
中條は考え込むように下を向いた。
「…中條さんにお願いがあります。」
中條は、はっとして山野を見た。山野は何か覚悟を決めたような表情をしている。
「…なんですか?できる限りのことはしますから…」
「…たぶん私は切腹か斬首になるでしょう。…もう、百合に会えないかもしれない…。」
「!!山野さん!そんなことは…!」
中條は思わず身を乗り出した中條を見上げて、首を振った。
「中條さんとも、こうしてゆっくり話ができるのも今夜限りかもしれないから、お願いするのですが…」
「山野さん…やめてください…そんな…」
山野は中條のその後の言葉を「最後まで聞いて下さい」と強い口調で遮った。
中條は口をつぐんだ。
「……私が死んだら、百合に文を届けて欲しいんです。いつ死ぬかわからない身ですから、いつも剣術道具と一緒に置いてあります。それを…」
山野は痛みを堪えるような表情をした。
「!!…山野さん!!」
中條はあわてて山野の額からこぼれおちる汗を拭った。
「山野さんは死なせません。だから…そんなこと考えないでください。沖田先生もきっと同じ思いでおられます。」
山野は唇を強く噛みしめていた。中條は山野の汗を拭ってやりながら言った。
「とにかく寝てください。何も心配しないで…」
山野は悲しそうな微笑みを中條に見せると、うなずいて目を閉じた。
(絶対に切腹なんてさせません。絶対に。)
中條は、目を閉じた山野に心の中で告げた。
……
翌朝-
沖田は中條を前に表情を硬くしていた。昨夜の山野との話を聞いたのである。
「…女…ですか…」
「はい。だから躊躇して逃がしてしまったのだと。」
「……」
「それなら…切腹にはなりませんよね!?」
沖田は視線を中條からはずし表情を一層硬くした。土方はそんなことで山野を赦すことはないような気がするのである。
「これは飛び技を使った方がいいですね。」
「飛び技?…ですか?」
沖田は、中條ににっこりと微笑んだ。
……
局長である「近藤」の突然の訪問に、山野と中條は驚いた。
そして、起き上がろうとする山野を近藤が慌てて止めた。
「総司からすべて聞いたよ。」
沖田は近藤の後で、にこにことしている。中條はここでやっと「飛び技」の意味がわかった。
「相手が女にせよ男にせよ、君を罰するなんて事はしないから、安心して傷を治すといい。」
「…ありがとうございます。」
山野は心底ほっとしたのだろう。この男に似合わず涙ぐんでいる。
中條も目頭が熱くなっているのを感じた。中條の横にいる沖田がそれに気づいて、中條の肩を叩いた。
近藤が、眉をしかめながら言った。
「しかし女だとは…。君の知っている人か?」
「いえ…。会ったこともありません。」
「んん…。君は色男だから、何かあったのかと思ったんだけどな。」
近藤がそう言って笑った。山野は顔を赤くして「そんなことは…」と口篭った。
その場がなごんだ雰囲気になった。近藤はそういうことがうまい。
「君が知らない女なら、個人的な恨みじゃないだろうな…。新選組を狙っているかも知れないから…総司…」
近藤は言葉を切って、沖田に振り向いた。
「はい。」
「皆に気をつけさせるように、組長達に伝えてくれ。」
「わかりました。」
「それから山野君、その女の顔をまだ覚えているかい?」
「はい。」
「誰か、絵のうまい隊士はいないかな…。山野君に特徴を言ってもらって、似顔絵を書いてもらいたいんだがな。」
その時、黙り込んでいた中條がはっと顔を上げた。
「あの…それなら監察方の安西さんが得意だと思います。役者をなさっていた頃、役者絵なども描かれていたそうですし。」
「そうか。それなら中條君。君から頼んでくれ。」
「は、はい!」
中條は頭を下げた。それと同時に近藤が自分の名を知っている事に驚いていた。
……
安西は慣れた手つきで、寝たままの山野に女の特徴を聞きながら、懐紙に絵を描いていた。その横で中條が墨をすっている。
ほぼ出来上がったところで、山野がふと思い出したように言った。
「…そう言えば、化粧が濃かったなぁ…。」
「化粧が…?」
「ええ…。遊女さん並といいますか…」
「じゃぁ、花街の人なんでしょうか?」
山野と安西は首を傾げた。
しばらくの沈黙ののち、安西が書き上げた似顔絵を山野に見せた。
「こんな感じでしょうか?」
山野はそれを見ると「痛っ…」と顔をしかめた。
「!山野さん…!」
「あ、大丈夫…大丈夫です。…いや、あまりに似てるんで、思い出して傷が疼いたんですよ。」
それを聞いた安西と中條は苦笑した。
(化粧が濃い…か…もしかして…)
安西はふと思いついて、山野に尋ねた。
「山野さん、その女の体つきはどうでしたか?きゃしゃな感じですか?」
「体つき…ですか…?…背は低かったですが…そうですね…きゃしゃではなかったな…。刺された時の衝撃が思ったより大きかったような気がします。」
「小さい割には…という感じですね?」
「ええ…。」
安西は、眉間にしわを寄せて考え込む風を見せた。
「…安西さん?」
安西ははっとしたように、中條を見た。
「あ、すいません。僕、これと同じ絵を何枚か描いて山崎さんに渡さなきゃ。…山野さん、お大事に。」
「ありがとう。安西さん。」
安西は頭を下げて、部屋を出て行った。
「何か、思いついたような顔でしたね。」
中條はうなずいて、不安そうに安西が出て行った後のふすまを見ていた。
……
安西は芝居小屋に向かっていた。非番の時などは自分が旅役者をやっていたこともあり、新しい演目があると必ず見に行く。しかし、今回は違う目的で小屋に来ていた。
(たぶん、山野さんを刺したのは役者だ。…それも女形の…。)
安西はそう確信していた。金を払い、小屋に入って行く。
少し離れた所から、その後姿をじっと見ている影があった。しかしその場から動かない。ただ小屋の方をじっと見ているだけであった。
……
安西は他の観客と共に小屋を出た。人気のある一座らしく女性が多かった。
(やっぱり同じ顔で芝居に出たりしないか…。)
そう思いながら、ふと小屋に振り返ると、屯所に向かって歩き出した。
(…女形は2人いたな。)
安西自身も小柄なため、女形の経験がある。化粧の仕方も着つけの仕方もまだ憶えていた。そしてその道具もいつか使うことがあるかと思い、とってある。
頭の中をいろいろと巡らせながら、安西は川にさしかかった。
少し頭の中を整理しようと立ち止まった時、こちらに走り寄ってくる足音が聞こえた。
振り返った途端、突き飛ばされ地面に叩きつけられた。
(まさか…!)
そう思って体を上げると、自分の前に大きな背中が見えた。
「!?…中條さん!?」
中條が、自分に背中を向けて立ちはだかり、何かを押さえているように見えた。
安西は慌てて立ち上がり、中條の前を見た。
女が小刀を両手で持ち、ギリギリと歯を鳴らしている。その小刀の刃先を中條が左手で掴んでいた。中條の手から血がしたたり落ちている。
「!!」
安西がその女を押さえようと飛び出した時、女は刀を離して、安西達に背を向けて走り出した。
中條は刀を落とし、手を押さえ痛みを堪えている。
「中條さん…!」
「安西さん、追って…!」
「でも…」
安西は躊躇したが、中條に目で促されて、女の逃げ去った方へ走りだした。
しかし、女の姿はとっくに見えなくなっていた。
町中に戻ったところで辺りを見渡したが、人ごみで見通せない。
(芝居小屋へ行ってみようか…)
安西は息を切らしながらそう考えた。…が、女がそのまま小屋へ戻るとも思えない。
(…くそっ…!!僕がもっとしっかりしてれば…!)
安西は唇を噛んで、その場に立ち尽くした。
……
「中條君が怪我を?!」
山野を見舞っていた沖田は、診療部屋に飛び込んできた安西に、思わず声を上げた。山野も顔色を変え、起き上がろうとした。が、沖田に止められた。
安西は息を切らして、2人の前に座り込んだ。
「…ごめんなさい…!僕…勝手に一人で行動して…」
「中條君はどこに?」
「それが、川に戻ってもいなくて…。大部屋にもどこにもいないんです…。」
「それなら、東さんか礼庵殿のところに直接行ったんでしょう。安西君は山崎さんに報告しなさい。私が中條君を探すから。」
「…はい…」
沖田は慌てたように出て行った。そしてその場にうなだれる安西の膝を、山野がやさしく叩いた。
「…安西さんに怪我がなくてよかった。後で中條君に酒でも奢らないとね。」
その山野の言葉に、安西は涙を落としながらうなずいた。
……
「ご心配をおかけしました。」
中條は前を歩く沖田に、恐縮しながら言った。
「いつものことだから慣れてるよ。」
沖田はそう笑いながら、ちらと中條に振り返りながら言った。中條は一層恐縮した。
「…でも左手だけでよかった。両手だったら、ご飯を食べるのも一苦労ですからね。」
「…はい。」
中條は礼庵のところにいた。と言うより、中條が左手を手ぬぐいで縛ってから安西を追おうとしたところを、往診帰りの礼庵に見つかったのである。当然のごとく安西を追うことを許されず、礼庵の診療所に連れて行かれたのだった。
思ったより傷は深くないようだが、掌はよく使う場所だけに治りが遅い。
沖田が思いついたように言った。
「安西君は犯人の目星がついたのかな?」
「そのようです。こっそり安西さんの後をつけていたんですが、芝居小屋へ入って行ったんです。」
「…役者か。それも男だというわけだね。」
「僕が見たのも、化粧の濃い女でした。男だと言われると、そのような気がします。」
「顔は同じでしたか?」
「いえ…全く。似ているような気もしますが。」
「そう…」
二人はしばらく何も言わずに歩いていた。やがて、沖田が中條に振り返って言った。
「後は、監察さん達に任せましょう。安西君に手柄を取ってもらわなくちゃ。」
「!…はい!」
中條はそう答えながら(いざという時は、僕が山野さんの仇を取ろう。)と決意していた。
……
安西はあぐらをかいて座っていた。しかし、その足がいらいらしているように小刻みに揺れている。
安西は狙われてから外出を禁じられてしまったのである。沖田の「安西君に手柄を」という気遣いとは程遠かった。
そして、安西をかばって怪我をした中條も相手に顔を見られているため、同じように外出を禁じられた。巡察も同じく…である。
そのため中條はずっと山野のところにいるようである。
(何とか出る方法はないだろうか?)
安西はいらいらしながらも、そのことばかり考えていた。
(あの時、顔を見られなければなぁ……)
安西はそう溜息をついたが、急に顔を上げ「そうか!!」と思わず声を上げた。安西の後で将棋を打っている隊士が驚いて手を止めた。
安西は、はっと辺りを見渡して、その隊士に謝ると、あわてて立ち上がった。
(そうだ…この方法なら山崎さんも許してくれるかも…)
安西は足早に、監察方の部屋へ向かった。
……
夕方-
玄関先で、賄いの少女が少し困惑気味に、手に持った荷物を安西に渡した。
「ありがとう!ちょっと中を見るね。」
安西はそう言って、風呂敷包みを床に置き、中を確認した。
「ああ、これはいいものを買ってきてくれましたね。私も好きだな。道具もちゃんと揃っています。ありがとう。」
賄いの少女は、そう礼を言われ、頬を染めた。
「あ、お釣りも一緒に入れてくれたのですか。これはあなたのお小遣いにしてください。」
少女は驚いて首を振った。が、安西はその少女の手を取って、お釣りの入った包みを握らせた。
「いいんです。内緒で受け取って。何か欲しいものを買うといい。」
少女はうれしそうに両手で包みを受け取ると、頭を下げて玄関を出て行った。
安西はほっとしたように少女を見送ると、その包みを持って中へ入って行った。
……
翌朝-
食事を終えた後の大部屋が騒然となっていた。何も気づかず診療部屋へ行こうとしていた中條は(何だろう?)と再び大部屋の中を見た。すると、大部屋の向こう側の廊下に、女性が歩いているのが見えた。それもかなり美しい。
(どうして屯所にご婦人が…??)
その女性を目で追っていると、女性の方が中條に気づき、にこりと微笑んで会釈した。
(!?!?!?)
大部屋にいる隊士全員が、驚いて中條に向く。中條も驚いたまま首を振った。が、隊士達の眼が徐々に嫉妬に変わってきたことに気づいて、中條は慌てて診療部屋へと向かった。
……
中條は息を切らしたまま、山野の傍にいた。
「それは羨ましいですね。」
山野がくすくすと笑いながら言った。もう体を起こせるようにはなっているが、まだ歩くのには支障があった。
「…何となく見たことがあるような気がするんですよ…。どこでだろう???」
中條が必死に頭を巡らせていると「失礼します」という声がして、ふすまがすっと開いた。
「!!!!!!!」
開いたふすまの先に、先ほどの女性が座っていた。
「あっ!!思い出した!」
頭を下げた女性に向かって、中條は思わず片膝を立て「どうしてここへ!?」と怒鳴った。
「中條さんっ!!落ち着いて!」
山野が慌てて、中條の肩を背中から掴んだ。
女性は顔を上げると同時に、手の甲を口にあててくすくすと笑っている。
中條はそれを見て、とたんに尻もちをついた。
「え?…あれっ!?…ええええっ!?!?」
先に気づいていた山野も、中條の後ろで肩を震わせて笑っている。大声で笑うと傷に響いてしまうのだ。
「…安西さん…だったんだ…」
女性に化けた安西だった。中條が見たことがあると思ったのは、安西と中條を襲った女性の顔とそっくりだったからである。安西は自分の記憶をたどりながら、顔を作ったのだった。
昨日、賄いの少女に買ってもらっていたのは、出来合いの浴衣と化粧道具だった。浴衣の柄は少女に任せたが、色白の安西に似合う紺色で大柄の紫陽花が散らされていた。その浴衣を着、化粧をし、役者の時に使っていたかつらをつけて、出来上がりというわけである。
「でも…安西さん…どうしてそんな恰好を?」
中條がそう尋ねると、安西の表情がすっと締まった。
……
「…そんな…それは危険すぎませんか?」
中條は安西の話を聞いて、そう言った。山野の表情も硬い。
安西は自分が囮になるために、自分を襲った女性の顔を作ったのだった。
安西のままだと、相手が警戒して動きを止める可能性がある。しかし自分と同じ顔をした女が現れたら、向こうは何かの行動に出てくれるかもしれない…と、安西は山崎を説得したのだった。安直なような気がするが、何もしないよりはましだ…と安西は思っていた。
「向こうが山野さんの刀を鈍らせるために、わざわざ女の格好をしたのなら、どうしても許せない…。もしこれが続けば、きっと新選組は女性さえも構わず斬ってしまうような集団になってしまうでしょう。それが怖いんです。」
その安西の言葉に、中條と山野は思わずうなずいていた。しかし、やがて二人とも顔を下に向けた。何か重苦しい雰囲気がその場に流れた。
「僕が安西さんを守りたい…。…でも…」
安西はその中條の言葉に微笑んだ。
「そう…中條さんは動いては駄目です。僕がわざわざ、こうして女に化けた意味がありませんからね。…大丈夫です。山崎さんと島田さんも来て下さるから。」
それでも不安げに黙り込んでいる中條の肩に、山野は手をやった。
「…大丈夫ですよ。中條さん。」
安西は、にっこりとほほ笑んでうなずいた。
「吉報を待っていてください。お二人ともまずは傷を治さなきゃ。…これが終わったら、三人でお酒でも飲みに行きましょうよ。ねっ。」
中條は、やっと微笑んでうなずいた。そして照れ臭そうに頭を掻いた。
「…女性の恰好のままで、そう言われると…何かおかしな気持ちになりますね。」
その中條の言葉に安西と山野は、思わず顔を見合わせて笑った。
……
数日後-
(今日こそは…)
女姿の安西は川辺を歩いていた。山野も自分もここで襲われている。きっとここに現れるはずだと思っていた。
しかし昨日は川辺を歩いていてもなかなか敵は現れなかった。その為、今日は町中もうろうろしてみたが、接触してくる様子もない。そしてまた川辺へ来てみたのだが…
それも問題だが、連日女装して屯所を出るので、大部屋の隊士達がいちいち騒ぐのも面倒くさい。今朝などは一人の隊士から本気で言い寄られてしまった。もちろん「衆道(=男色)の気はない」と断ったが…。
(最近は監察の仕事も暇だからいいものの…。山崎さんと島田さんに悪いなぁ…)
そう思いながら川辺にたたずんでいると、ゆっくりと人が歩いてくる足音がした。
安西の体に緊張が走ったが、さりげなく上半身だけを後に向け、女性的に振り返ってみた。
女性が歩いてきている。自分と同じ顔だった。
(やっと来たか!)
安西は体を向け、相手と対峙した。
(!?…化粧は濃いが…男じゃないかもしれない…)
安西はそう思いながら、顔を少し傾けてにっこりとほほ笑んで見せた。
向こうも同じように微笑み返してくる。そして口を開いた。
「いったいどういうつもりかしら?」
「どういうつもりって…私の大事な人を殺そうとしたでしょう?」
「最初に刺したあの色男の事かしら。…うらやましいこと。あなたのいい人なの?」
「ある意味ではね。」
「あなたは…何?…新選組と関係があるの?」
安西は心の中で驚いていた。相手はどうも本気でこちらを探っている。
(こいつは、僕のこと気付いていない?)
少し優越感を感じて、安西は緊張がすっかりほぐれた。
「もちろん。屯所の中で働いているの。」
嘘ではない。
女は少し嫉妬の表情を浮かべている。
「いいわねぇ…。何も苦労しないで、食べていけるなんて。…こっちは人殺しでもしないと、食べられないって言うのに。」
「!!……賞金稼ぎだったのね…」
安西がそう言うと、女は安西から目を反らし、川に体を向けた。
「失敗したから、文無しのままだけどね。」
「…化粧が濃いのは…自分の素顔を隠すためですね。」
「!!」
急に安西の声が低くなったので、女が驚いた表情で安西を見た。
安西は背筋を伸ばし、頭を下げた。
「ご婦人に無礼をお許しください。僕はあなたのことを、女装した役者だと思っていました。」
女は口に手の甲を当てて、笑い出した。
「…そりゃそうよね。こんなに濃い化粧をするのは役者くらいだもの。」
「実はあなたが二度目に襲ったのは、この僕です。役者でした。」
「…あなたを襲った?…あっ!」
女はそこでやっと気がついたようである。
「…驚いた…。あなただったの…。あなたも色男よね。」
安西は苦笑した。
「それはどうも。」
「…新選組の隊士を殺せば、一人につき一両もらえるの。」
「命の値段にしては安いですね。」
「でも、私には大金だわ。」
女はそう言って安西を睨みつけた。
「では、僕を刺してみますか?」
安西は手を広げて見せた。
「!!」
「僕を殺して一両もらいなさい。その一両が何日持つのかわからないけれど。刀は持っていますよね。」
「……」
女は小さくうなずいている。
近くの木に隠れていた山崎と島田が驚いて姿を現した。
「安西…!!」
「お二人とも手を出さないでください。…ごめんなさい。お手数をかけたのに、こんなことになって。」
「安西、よせ!それじゃ解決にならん。」
「お願いです。どうか動かないでください。」
安西はじっと手を広げたまま、顔だけを山崎達に向けて言った。島田が進み出たが、山崎が慌てて島田の肩を押さえた。
「すいません…。」
安西はそう言うと、女に視線を戻した。
「一両という値段が、私の命に値するかどうかわかりません。でも、あなたがそれで何日か生きていけるなら、この命、差し上げましょう。」
女はじっと、胸元にある小刀を押さえたまま黙っている。
少し小刻みに震えていた。
……
中條は門番の横で、うろうろとしていた。
一刻も経つのに、安西が帰ってこない。監察方の隊士達も帰ってきていない。
「心配ですねぇ…」
門番が言った。中條には初めて顔を見る隊士だが、安西の事は知っているらしい。
「ええ…。何もなければ半刻で帰ってくるって言ってたのに…」
そう中條が答えて、二人でため息をついた時「中條さーん!」という明るい声がした。
「!!安西さん!!」
中條は女装した安西の姿を見てつい走り出した。安西も走っている。どこも怪我がないようだった。
二人はどちらともともなく、手を握り合った。
「よかった…ご無事で…」
「はい!すべて無事に終わりました。」
二人のその姿を、後から歩いてきていた山崎と島田が苦笑いをしている。
「…熱いねぇ…おふたりさん。」
「男の格好のままよりは、見やすいけどな。」
通りすがりにそうからかわれ、中條と安西は、はっと手を離した。
そして、二人で大声で笑った。
「山野さんが心配しています。行きましょう。」
「はい!」
二人は足早に中へ入って行った。
門番は一人になった。
「…なんだか…中條さんに嫉妬しちゃった…」
そう呟いて、頭を掻いている。
……
「すいません。遅くなりました。」
男に戻った安西が部屋へ入ってきた。もう体を起こせるようになった山野と談笑していた中條が、うれしそうに振り返った。
「お疲れ様でした。」
安西は、先に近藤と土方に報告に行っていたのである。山崎と島田も、もちろん一緒だった。安西は「相手を許したことで副長が怒らないだろうか」と不安をもらしたが、山崎と島田は「そこまで副長も鬼じゃない」と笑った。その山崎達の言った通り、何の咎めもなく、逆にねぎらいの言葉をかけられ、安西はほっとしていた。
また近藤からは、賞金稼ぎのことを改めて探るようにと命じられた。
安西は、すべてを中條達に話した。途中、安西が女に「刺せ」と言ったところで、二人は一様に表情を変えた。
「なんてことをしたんですか!」
「よく無事でしたね。相手が相手なら…」
「ええ…相手が良識のある人で助かりました。だから許すことにしたんです。…怪我をされた山野さんや中條さんには申し訳ないけれど…。」
「いえ…そういうことなら仕方ないでしょう。私自身も命は残っていますから。ね、中條さん。」
「もちろん。」
安西は恐縮して頭を下げた。
「でも…いくらお金をもらえると言っても、人を殺そうとした程、その女性は苦労されていたんですよね…。その女性に何かしてやれないでしょうか。」
山野も神妙な顔でうなずいている。
安西は、逆に驚いた表情で二人を見比べた。二人とも、もしかすると死んでいたかもしれないのに、それを超えて、刺した相手のことを心配している。
安西は思わずくすくすと笑った。
山野と中條は不思議そうな表情で安西を見た。
「?どうしたんですか?安西さん。」
「本当に一番隊の人って人が良いんですね。僕も見習わなきゃ。」
山野と中條は、顔を見合わせて笑った。
「それを言うなら、安西さんだって。」
「そうです。ご自分も命を狙われた一人じゃないですか。その相手を許したんですから。」
安西は肩をすくめた。
「…正直、あの女性に「自分を殺せ」と言った時は、本当に死ぬつもりでした。…どうしてだろう…。向こうは絶対に刺して来ると思っていたんです。でもその人は泣いて座り込んでしまって…僕を殺さなかった。その時、僕って案外、自分の方が冷たい人間じゃないかって、考え直したんです。だから今まで人を信用できなかったんだと…。旅役者をして、人と関わる機会が少なかった時間が多かった分、情が抜けてしまっていたんだな…って。」
中條と山野は微笑みながら、その安西の言葉をただ黙って聞いていた。
安西は「あ、それで…」と顔を上げた。
「あの女性のことですが…。…私の母の身の回りのことをしてもらうようお願いしました。もちろんお手当を出すからと。明日あらためて、屯所まで来てもらうことになっています。」
山野と中條は「それはいい」と異口同音に言った。
「お母様がこの京におられたんですか。」
「はい。元々は江戸にいたんですが、私が新選組に入った頃に京に来てもらいました。旅役者の時は親孝行できなかったから。今も屯所勤めですから、昼しか家には帰れませんが、会おうと思えばいつでも会えるから母も喜んでいて…。でも、腰やらあちこち体が弱っているので、ちょうど人を雇おうと思っていたんです。」
「それはお母様も、きっと喜ばれますよ。」
そう山野が言うと、安西はうれしそうにうなずいた。
その安西を見て、ふと中條が思いついたように言った。
「安西さん、その女性を気に入っておられるのなら、この際、おつきあいされたらどうです?」
「はっ!?」
突飛な中條の発想に安西は目を丸くした。山野が「それはいい!」と中條の言葉に同調している。
安西は慌てるように言った。
「ちゅ、中條さん、何をおっしゃってるんです…」
「それこそ、いい親孝行じゃないですか。何しろ、その人に命を捧げたんですから。」
「山野さんまで、何を言うんですか!!」
安西の顔が真っ赤になっている。
山野と中條は「この際祝言も上げてしまったら…」と安西をからかい続けた。
……その様子をふすまの外で立ち聞きしていた沖田は、声を立てないように笑っていた。
(一番隊の人は人が良い…か。いいのか悪いのか。)
沖田は苦笑しながら、その場を離れた。
(僕も誰か、からかいたくなってきたなぁ…。…そう言えば、飛び技を使ったことを怒っていたから、副長でもからかいに行こうか。)
沖田はそう勝手に決めると、足早に土方の部屋へと向かった。
……山野が巡察に戻ったのは、それから十日程経ってからのことだった。