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密告

中條は巡察で汚れた着物を洗濯するため、中庭へいこうと廊下を歩いていた。


「中條さん!中條さん!」


いきなり、後ろから呼びかけられ、中條は振り返った。すると平隊士の馬越(まごし)三郎が赤い顔をしてこちらに向かって来ていた。


「どうしました?」

「隠してっ!」

「は?」


中條が何も理解できないうちに、馬越は中條の後ろに隠れた。少し小柄の馬越は大きな中條の体にすっぽりと隠れている。

その時、五番隊組長の武田 観柳斎(かんりゅうさい)が、人を探すような仕草でこちらに向かって来ていた。


「…僕の事を聞かれても知らないっていってくださいよ」


中條の背中にしがみついている馬越が囁いた。中條はやっと事の次第が理解でき黙ってうなずく。


「…中條君」


坊主頭の武田が、中條を見上げた。


「…何をこんな廊下の真中でつったっておる。お前みたいな体の大きな男は、往来の邪魔だ。」

「申し訳ありません。」


中條は頭を軽く下げた。武田を軽んじた訳ではない。大きく下げると馬越が見えてしまうからである。


「ところで…馬越を見なかったか?」

「ああさっき、外へ出ていかれましたよ。」

「外へ…?…いったいどこへいったのだろう?」

「何か馬越さんに御用がおありですか?私が代わりましょうか。」


武田の顔が何故か赤くなった。


「お前に馬越の代わりはできん。」

「は?」

「…何でもないっ!」


武田はその場を立ち去って行った。

中條の背中で馬越が忍び笑いをしている。


「…もう大丈夫ですよ」


馬越が背中から現れて、中條を見上げた。


「ありがとう。助かりました。…でも、代わりましょうかはよかったなぁ…」


中條が笑った。


「よからぬ事を考えておいでだったのでしょうね。」

「ああ…寒気がする。」


馬越は、本当に身震いしながら言った。


「武田さんは、僕を衆道だと思っておられるようなんです。」

「確かに、馬越さんは女性のように優しい顔をなさっていますからね。」

「中條さんも、僕を衆道だと思っているんですか!?」


中條は褒めたつもりだったが、馬越は怒っているようだ。無理もない話である。その美しい顔のために、衆道の気がある隊士たちに毎日のように言い寄られているのだ。その中で一番うるさいのが、武田なのである。


「とんでもない。そんなこと思っていませんよ。」


中條が両手を上げて慌ててそう言うと、馬越がえくぼを見せて「よかった。」とにっこりと笑った。


「そうだ…助けてくださったお礼に何かしたいのですが。」

「…そんなお礼をされるほどのことなんて…」

「いえ、これからもいろいろと助けていただきたいし。」


馬越は笑顔を中條に向けた。もし衆道の気がある男なら、ここで馬越に惚れる所だろう。しかし、中條にはもちろんそんな気はない。


「あ!じゃぁ、お言葉に甘えて!」


中條がいきなり大声を出すので、馬越が少しあとずさりした。


「な、なんです?」

「僕に剣の稽古をつけてください!お願いします!」

「ええー…?」


馬越は少し困ったような表情をした。馬越は女性のようなやさしい顔に似合わず、剣の腕は相当なものであった。

しかし、その馬越も中條の力の強さに太刀打ちできる自信がない。しかし、自分から言ってしまった以上、断ることはできなかった。


「…いいですよ。今日はもう時間がないから、お互い非番の日にしましょう。」

「ありがとうございます!」


年も背も上の中條が馬越に深深と頭を下げた。馬越も慌てて中條に頭を下げた。


……


道場に稽古着をつけた中條と馬越の二人がいた。

型どおりの挨拶をし、お互い竹刀を相手に向けている。

二人はやがて打ちあった。中條は馬越の竹刀を振り払うのがやっとである。

しかし、馬越は本気ではないのではないかと思えるほど打ちが弱い。とうとう中條が馬越の胴を払った。

中條は力を抜いたつもりだったが、馬越の体は道場の壁に激突してしまった。


「馬越さん!」


中條は、あわてて馬越に駆け寄った。面の中で馬越の顔がゆがんでいる。中條はあわてて馬越の面を取り外した。


「…すいません…大丈夫でしたか?」

「…さすがですね。噂どおりすごい力だ。」


馬越が言った。中條も自分の面をはずして尋ねた。


「…手を抜いたでしょう?」

「まあね…」

「何故です?」

「…あなたの腕を確かめるためです。次は本気でやりますよ。」


中條は、嬉しそうな表情をした。そして、馬越の手を取って立ち上がらせようとした時、何か鋭い視線を感じた。

ふとそちらの方を見ると、武田が鬼のような険しい表情をして、道場の入口に立ってこちらを見ている。


(…まずい…!)


中條は慌てて馬越から離れようとしたが、馬越はきっと武田を睨んで言った。


「武田さん、何か御用ですか?」


武田は馬越の方は見ず、中條を睨んでいた。


「…二人で何をしている?」

「ごらんの通り稽古をしているんです。それが何か?」


中條は、堂々とした馬越を感心した目で見た。

それが、武田にはいかがわしい目つきに見えたらしい。

ただぶるぶると震えて立ちすくんでいたが、やがて踵を返して立ち去っていった。


「…何か、勘違いされたようですね。」

「ほっとけばいいんですよ。」


馬越はえくぼを見せてにっこりと微笑んだ。

が、明日は武田の軍式訓練がある。中條が集中攻撃を受けることは確かであった。


……


呼び出された中條は、沖田の前に座っている。

沖田は、少し緊張している中條に微笑みながら言った。


「中條君、先日の軍式訓練で武田さんにかなりしぼられたそうですね。」

「は、はぁ…」

「何か、武田さんの心証を害するようなことをしたのですか?」

「…そうかもしれません。」


沖田は何もかもわかっているように、くすくすと笑った。


「馬越さんですね?」

「はあ…」


中條は、そう思わず答えてから、慌てて言った。


「でっでも、僕は別に、馬越さんと何も…!」


沖田が大笑いした。


「わかっていますよ、そんなことは…。あなたはそんな人じゃない。」


中條がほっとした表情をした。


「でも、これから大変ですね。あの人はかなり根に持つ(たち)ですから…」

「…」

「心配しないで…。私の方から、武田さんの誤解を解いておきますよ。」

「…あ、あの…待ってください!」

「?」

「もし誤解が解けてしまったら、馬越さんが困るのではないかと…。馬越さんは、僕が一緒にいると、武田さんが近寄ってこないから助かるって。」


沖田はふーっとため息をついた。


「…困ったものですね、武田さんも…。私には理解不能だ…。」

「はあ…。」

「馬越さんが来られる前からも、そういうことがなかったわけではないですが…。あの人が来られてから、どうも屯所内が色気づいたような…」

「い、色気…ですか…」

「とにかく、武田さんにはそれとなくあなたを攻撃しないように言っておきますよ。」

「申し訳ありません…」


中條は頭を下げて、立ち上がろうとした。


「…ああ、ちょっと待って…」

「…?はい。」

「身の回りに気をつけてください。どうも、敵は武田さんだけじゃないようですよ。」

「…!!」


中條が複雑な表情をしたのを見て、沖田も苦笑していた。


……


山野は想い人の家から屯所へ帰ろうと、夕闇の迫る道を歩いていた。

すると、前に中條が歩いているのが見えた。山野が思わず駆け寄ろうとした時、突然、手前の角から刀を抜いた男が中條の背中から斬りつけようとした。


「!!中條さん、危ないっ!!」


山野は叫びながら刀を抜いた。その声に気づいた中條が振り向きざまに刀を抜き、危ういところではじき返した。

刀をはじかれた男は、そのいきおいで山野に対峙した格好となった。


「!?…君は…!」


山野がその刺客の顔を見て絶句した。


「?」

「中條さん、この人は新人隊士です。…新選組の…」

「!?」


刺客はやけになって山野に斬りかかった。山野が危ういところで、刀を受け止める。


「山野さん、斬らないで…!」


山野はその中條の言葉に目でうなずくと、相手の刀をはじきあげ、胴を峰で打った。

刺客は地面に転がり、腹をかかえてうめいた。


「すいません…山野さん…」

「いえ…何もなくてよかった。」


二人は刀を納めながら、うめいている男を見下ろした。

中條は、その男の傍にしゃがんだ。


「何故、私を斬ろうとしたのです?」

「馬越さんに…」

「!?馬越さん!?」

「違うっ!!」


山野と中條がその声に驚いてそちらを向くと、馬越が息せき切って走りよってきた。


「すいません、中條さん…大丈夫でしたか?」


中條が立ち上がって「ええ」と答えて微笑んだ。

馬越はほっとした表情を見せると、うずくまっている隊士をにらみつけて言った。


「中條さんを斬れと誰に頼まれたんです?…私ではないはずだ。」


中條と山野はじっと新人隊士を見つめた。


「…武田組長ですか?」


新人隊士は小さくうなずいた。


「は?」

「武田先生っ!?」


二人は絶句して、顔を見合わせた。


「…信じられない…」


その時、ずっとうずくまっていた隊士が突然口を開いた。


「武田先生には、斬れとは言われてなかったんです…傷つけろと…。それで馬越さんに頼まれたと言えと…。」

「私と中條さんを仲たがいさせようとしたんですね。」


中條と馬越は同時にため息をついた。山野は苦笑するしかなかった。


「しかし…どうします?」

「?どうします…とは?」

「中條さんに何もなかったと知ったら、この人武田先生に何をされるかわかりませんよ。」

「僕が土方さんに頼んでみます。武田さんを何とかして欲しいって…。」


中條がため息混じりにうなずいた。が、ふと気づいて馬越に尋ねた。


「…でも馬越さん、どうしてここがわかったんです?」

「いえ武田さんが…「もう中條君のことはあきらめろ」とか「もう相手にされないぞ」とか、訳のわからないことをおっしゃっていたので、もしやと思って、中條さんを探していたんですよ…。そしたら案の定…。」

「……」

「…女も怖いが、男の嫉妬も怖いですね。」


山野がそう言うと、馬越は大きなため息をついて首を振った。


……


中條が道場で撃剣の稽古を終え、大部屋へ帰ろうと廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。馬越であった。


「すいません…中條さん、あれからも軍式訓練のたびに、武田さんに攻撃されてるそうで…」

「いえ…」


馬越は中條と並んで歩いた。


「どうも、武田先生だけじゃないようですよ。」

「…え?」


中條は大部屋へ入った。後ろから馬越がついて入る。

すると一瞬、二人は注目を浴びる。それはいつものことだが、問題はその後である。

一瞬浴びた視線はすぐに逸らされるのだが、数人の視線だけは離れないでいる。また、その視線は何か鋭いものを持っている。「馬越から離れろ」と言わんばかりに…。

馬越がその視線を送っている隊士を睨みつけた。

睨まれた隊士はぎくりとした表情をし、ふと視線を逸らした。

中條はそれを見て苦笑している。


「僕は無視していればいいけれど…馬越さんは大変ですね。」


中條が自分の場所にすわり胴着を脱ぎながら言った。馬越がその中條の前にすわり両手をついた。


「本当にごめんなさい。まさか…あなたにご迷惑をおかけするとは思わなくて…」

「よ、よしてください。…僕は構いませんから。」


馬越は「本当にすいません」ともう一度謝ってから、ふと顔を上げて言った。


「そうだ…武田さんの軍式訓練がなくなるって、ご存知ですか?」

「えっ!?…本当ですか?」


中條がそう言うと、近くにいた新人隊士達が一斉に馬越の方を見た。

馬越は思わぬ注目を浴びて、驚いた。

中條も驚いたが、そのまま馬越に尋ねた。


「どうしてまた…?」

「幕府が仏式調練を採用したらしいのです。それで新選組も武田さんの教える長沼流をやめると…」


聞いていた周囲の隊士達が嬉しそうな声を上げた。

皆、武田の訓練には嫌気がさしていた。そもそも武田自身、隊士からは好かれていないこともあるが…。

中條と馬越は思わず顔を見合わせて笑った。


「皆、喜んでますね…。」

「当然でしょう…あんな古臭い訓練…役に立つとも思っていなかったんです。」


中條はふと、仕事がなくなった武田から、よけいに攻撃されないかと不安になった。

…が、武田は意外な行動をとるようになるのである。


……


中條は表情を硬くした馬越が廊下を歩いているのを大部屋から見た。


(?…どうしたんだろう?)


そう思い大部屋から出ると、馬越もその中條に気づき少し小走りに駆け寄ってきた。

何か興奮気味である。


「…何かありましたか?」


中條がそう言うと、馬越は小声で「ちょっと外へ出ませんか?」と言った。中條は承諾した。


……


馬越はずっと中條の前を歩いて、黙り込んでいる。


「馬越さん…そろそろ話してもらえませんか?…どうしました?」

「ええ…実は…」


馬越はやっと立ち止まり中條に振り返った。

そして、少し中條に近づき、小声で何かを言った。

中條はそれを聞き、目を見開いた。


「…武田先生が?…本当ですか?」

「ええ…たまたま出てくるところを見たんですが…。どう考えても、あそこは薩摩藩の屋敷なんです。」

「そこから、本当にでてきたんですか?…場所違いではありませんか?」

「私もそう思ったんですが…」


やはり間違いない、と馬越が言った。


「いったい武田先生はどういうおつもりだろう?…もしかして監察に頼まれて、中を探っておられるとかではないでしょうか?」

「監察が武田さんに…わざわざ?」

「…そう言えば、そうですね…」

「…私は副長にご報告しようかと思っているんですが…」

「!!…」

「だって…黙っているわけにはいかないでしょう?」

「まぁ…そうですが…。」


中條は、ことがことだけにもう少し慎重に探った方がいいと馬越に進言した。


「それはそうですが…」


馬越は少し憮然とした顔をした。が、やがて「そうですね」とにっこり笑った。


「…確かに私独りが見ただけでは、信じてもらえないかもしれない…。中條さん、今夜、こっそり武田さんを追うときについてきてくれませんか?」


もちろん、中條はそのつもりだった。


「ええ、もちろんです。…でも…」

「…でも…なんです?」

「…僕のこの体…うまく隠せるかなぁ…」


馬越はきょとんとして中條を見上げていたが、やがて大声で笑った。


……


夜―


馬越と中條はある小路に身を潜めていた。馬越が時々小路から顔を出してはひっこめて、薩摩屋敷から武田が出てくるのを待っている。

その屋敷は勤王派が集まる所として、組でも警戒をしている場所であった。


「…しかし…通っているのが事実でも、そんなに頻繁に出入りするものでしょうか?」

「普通は、警戒して日を空けるでしょうけどね…でも、武田さんは武田さんで警戒しているつもりのようですよ。それがまたおかしくて…」

「????」

「…来たっ!…」


顔をだしていた馬越があわてて顔を引っ込めた。

そして、しばらくしてまた顔を出した。


「向こうへ歩いていきます。ほら見て…。」


中條も顔をだした。もし向こうから見られていたら、小路から上下に顔が出ているような状況になる。もしかすると少し滑稽な光景かもしれない。

馬越が武田と言った男は、さほど寒くもないのに、頭に黒い頭巾をかぶっている。

本人はそれで警戒しているつもりなのだろう。馬越がおかしいと言ったのは、逆に目に付くと思われるこの黒頭巾姿のことだった。


「あれですか?あの怪盗黒頭巾見たいな人…」


馬越は笑い出しそうになるのを抑えて言った。


「中條さん、こんな時に変なことを言わないで下さい。笑いそうになったじゃないですか。」

「あ、ああ、すいません。笑わせようとしたんじゃないんです…。」


中條は真面目に言ったのだった。


「…さぁ、追ってみましょう。これでは武田さんかどうか確認できないでしょう?」

「はい…」


二人は小路から出て歩き出した。

しばらくして、その武田らしい男が、黒頭巾を取り払った。

そして特徴のある坊主頭が現れ、その頭が見事に月の光に反射して輝いた。

さすがの中條も、その頭を見て武田だと確信した。あの頭を武田ではないと言い切るほうがおかしいほどであった。

二人はまた別の路地に隠れている。


「…本当だ…」


中條がしばらく絶句したのち、そう呟いたのを聞いて、一緒に路地から顔を出していた馬越がそのまま中條を見上げて得意気に言った。


「そうでしょう?」


中條がうなずいたのを見て、馬越は顔を引っ込めた。


「あのまま、どこか居酒屋へ寄って帰っていくのです。」

「…なるほど…飲みに行ったふりをするわけですね…」

「さぁ中條さん、私たちは先回りして屯所へ帰りましょう。こっそり屯所から出たのがばれたら、こっちの首の方が危ない。」

「そうですね…」


二人は武田が行った道とは反対の道へと踵を返し小走りに歩き出した。


……


翌朝 馬越と中條は、緊張した面持ちで土方の部屋にいた。

やがて、沖田が土方を連れて帰ってきた。


「お二人ともお待たせ」


沖田が土方の後ろで、にこにことして二人に言った。二人は固い表情で頭を下げた。

武田のことは、先に沖田に報告したのであった。馬越はすぐにでも土方へ話を持っていきたいところだったが、中條にとっては、まず自分の組の長へ報告するのが筋なので、馬越に承諾させた。

沖田は二人の報告を聞いて驚き「じゃぁ、すぐに土方さんへ」となったのであった。


土方がいつものように憮然とした表情で中へ入り、沖田が後に続いた。

土方は前に馬越から「武田をどうにかしてくれ」と頼まれていたのに、結局どうしようもなかったことが引っかかっている。が、土方の性格から、それを馬越に謝ることなどしない。


「…大事な話ってなんだ…?」


二人は、表情を固くしたまま頭を下げた。


……


報告後、二人はすぐに部屋から出された。

あの土方が、馬越の報告が進むにつれ、顔色をみるみるうちに変えたのである。

そして「よくつきとめてくれた」と二人をねぎらってから「このことを他言せぬよう」と言った。

馬越は川辺をゆっくりと歩きながら、大きな仕事を終えたような気分に浸っていた。

そして、中條は少し塞ぎこんだ表情になっている。


「…武田先生…どうなるでしょうね…」

「まず監察が調べるでしょうから、すぐにどうなるってこともないでしょうが…でも、ちょっと楽しみですね。」

「…楽しみだなんて…馬越さんも残酷だなぁ…。」

「中條さんは、そうじゃないんですか?」


馬越は意外そうに中條に言った。

中條は「ええ…まぁ…」と言ったきり、あとは何も言わなかった。


武田は軍学師範であったと同時に、文学師範でもあった。

新選組に入った頃、中條は字の読み書きができなかった。その中條を教育したのは武田だったのだ。

確かに軍事調練では、ねちねちと嫌味を言われ嫌な思いもしたが、字を教える時の武田は、実に懇切丁寧に教えてくれたのだった。それも、武田のしつこい性格の一つだったのだろうが、教えることをめんどくさがる様子もなく、いろいろと手本を作っては中條に字を書かせ続けた。そのおかげで、今、中條は字に不自由することがなくなった。

その中條にとって、武田は沖田に次ぐ恩師でもあったのだ。中條はその恩師を裏切ったような気持ちになっていたのである。

中條が馬越と薩摩藩邸に行ったのは、馬越の見間違いであって欲しいという気持ちからであった。

…しかし、見間違いではなかった。それを知った限りは、黙っているわけにはいかない。


武田は軍学師範を下ろされた後も、そのまま五番隊の長だったため、見かけ上の権威はそのままであった。…が、隊士達もだんだん武田を「先生」と呼ばなくなるほど、実質的には権威が落ちていた。

最初は武田の知識などを尊重しかわいがっていた近藤も、武田の性格を知る内部からの不満を耳にし、徐々に武田を相手にしなくなっていった。

武田が薩摩藩に出入りするようになったのは、その権威の失墜から、新選組に見切りをつけようとしたのかもしれない。

馬越は、黙り込んでいる中條に何も言わなかったが、やがて中條の気持ちを知ってか、


「…中條さんって…義理堅い方なんですね。」


と言った。

中條は困ったような表情して立ち止まり、川面を見つめた。

馬越は黙って、中條の背をただ見ていた。


……


十日後-

大部屋 夜。


中條が寝苦しさに寝返りを打っていると、そっとこちらに近づいてくる影が見えた。

中條は布団の中に入れている刀に手を乗せたが、ふと気づいた。


「馬越さん?」


馬越は隣で寝ている山野に気を遣いながら、小声で囁いた。


「…武田さんが…局長の部屋に…」

「!?…」


中條は飛び起きて何かをいいかけたが、馬越が慌てて手を伸ばし、その口を塞いだ。


「…部屋を出ましょう…そっとですよ。」


中條は口をふさがれたまま、うなずいた。


……


馬越と中條は、そっと庭から近藤の部屋の前に回った。

何か中が騒がしい。どうも宴会をしているようである。障子に何人かの影が映っており、中條はその中に沖田の影を見つけた。


「…もしかして…助勤以上の方が皆揃っているんでしょうか?」

「そのようですね…。武田さんが連れられて入ってから、もうかなりの時間が経つんですが…」

「…どうするつもりでしょう?」

「酒を飲ませて、気が緩んだところを殺るんでしょうね…」


そんな言葉をさらりと言う馬越の横顔を中條は驚いて見た。


「!…でてきましたよ!」


二人はあわてて縁下に伏せた。

その上を数人の足音がし、「武田、大丈夫か?」という声がした。

足音が去っていってから、二人は縁下から出た。


「さぁ…どうしたものかな…」

「追いかけましょう!」


中條がそう言って、体を低くしたまま武田が向かったと思われる方向へ歩き出した。


「!?…中條さん…?」


馬越はしばらく躊躇していたが、やがて中條の後ろをついて行った。

そして…その二人の後姿を、近藤の部屋から出てきた一人が見ていた。


……


銭取橋―

武田の後ろを斎藤と篠原泰之進が歩いている。

そして、またその後ろを中條と馬越がつけていた。


「中條さん…つけてどうするんです?」

「……」


中條もわからなかった。ただ黙って三人を追っていた。

やがて、武田の「ここで結構です」というような声がした。

中條と馬越はあわてて、そばにあった木に身を潜めた。

篠原がすっと後ろへ下がった。それと同時に斎藤が進み出て、柄に手をかけると同時に刀を一悶させた。

そして、斎藤が刀を納めた時には、武田はほぼ同時に倒れていた。

馬越と中條は予測できていた事態にも関わらず、何か複雑な思いでそれを見届けている。

中條の耳に「威張っていたわりには…」という斎藤の声が届いたが、その後何を言ったかよくわからなかった。

斎藤と篠原が屍に転じている武田を背にして、こちらへ向かって歩いてくる。

中條と馬越はじっと身を潜めたままでいた。

やがて二人の姿が見えなくなったとき、中條は武田の屍に向かって走り出した。それを馬越が追う。

中條は武田の遺体の傍でしゃがみ、武田の死顔を見つめた。


『何?字の読み書きが出きんだと?…よし、俺がしごいてやるから覚悟しろよ!』


武田の何か嬉しそうな顔が中條の脳裏によみがえる。ただ、人をしごくことに喜びを感じていただけなのかもしれないが、それでも中條には何か憎めない、いい師だった。

中條は手を合わせて、目を閉じた。


(武田さん…どうぞ成仏してください)


馬越はその中條の姿を見て、同じように武田に向かって、手を合わせていた。

しばらくして、武田に手を合わせていた二人の後ろで足音がした。

二人が驚いて振り返ると、沖田がこちらに向かって歩いてきていた。

馬越がぎくりとした表情をした。一般隊士は夜中の外出を禁じられている。それが見つかれば確実に切腹なのである。


「…沖田先生…」


中條が思わず呟いて立ち上がった。沖田は二人の傍に来て、武田の屍に向かって手を合わせた。

中條は、沖田が目を開いたと同時に言った。


「…先生…馬越さんは、僕が無理やり連れてきたんです。だから、咎めは僕だけに…」


その中條の言葉を聞いた馬越はおどろいて、あわてて沖田に言った。


「違います!…僕が勝手に中條さんについてきたんです。」


沖田は「わかったわかった」と笑いながら、二人をおさめた。


「今、君たちが戻ったら、確実に誰かに見つかってしまうからね。私が一緒にいれば咎めもないでしょう。」


沖田のその言葉に中條が驚き、馬越がほっとした表情になった。


「中條君…武田さんの最期を見届けられたかい?」

「!!」


中條は再び驚いたが、やがて「はい」と答えうつむいた。


「あなたが、武田さんに字を教えてもらっていた姿を思い出したんです。…二人ともとても真剣だったって…。…あの人は何かと極端な態度をとっていたけど、根は悪い人じゃなかった…」

沖田のその言葉に、中條がうなずいた。

「たぶん…武田先生は自分の居場所を求めていただけじゃないかと思うんです…。」

「…そうだね…」


沖田は、中條が武田に自分を重ね合わせていることを悟った。

馬越はそんな中條の顔をじっと見つめていた。


(武田さんに命を狙われたというのに……本当に気の優しい人なんだな…)


そう思った。


……


数日後-


中條は稽古の後、あわてて川辺へと向かった。そこには旅姿の馬越が待っていた。


「中條さん!」


馬越がえくぼを見せて微笑んだ。


「よかった!…間に合って…」


中條は両膝に手を当てて、腰をかがめ息を整えた。


「ごめんなさい…。わざわざ呼びだしてしまって…あなたにだけは、ちゃんとお別れがいいたいと思って…」

「いえ…。…僕もちゃんとお別れがしたかったんです。…どうか、道中お気をつけて…。」

「ありがとうございます。」


馬越は丁寧に中條に頭を下げた。中條は驚いてあわてて返礼した。

馬越は土方に隊を出るように勧められたのだった。

隊の人間の中に馬越のしたことを批判する人間がいたらしく、これ以上悶着が起こらないようにとの土方の配慮だった。言うなれば中條も同罪なのだが、馬越が武田に言い寄られていたことを皆知っていたので、非難が馬越に集中したようだ。馬越も従うしかなかった。


「…中條さん…。いつまでも、そのままの中條さんでいてくださいね。」

「…え???」


馬越は、にっこりと笑った。


「故郷へ帰ったら、いただいたお金を元手にして、何か商売をしようかと思っているんです。うまくいったら、京へも来ますね。その時にまたお会いしましょう。」

「はい!…また会える日を楽しみにしています!」


中條が明るく答えた。

馬越はなんども中條に振り返っては手を振り、立ち去っていった。

中條も馬越の背が見えなくなるまで、手を振った。


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