天使の羽
あたしが恋した人は、天使の羽を持っている。
天使の羽
潮の香りに包まれて、白い息を吐き出しながら空を見上げてみた。
乾いた空気が作る冬の夜空には、名前も知らない星が無数に散りばめられている。届かないモノほど輝いて見えるって言葉は、こんな星空に向けて使うのがピッタリだと思った。
上着のポッケに手を突っ込んで、首元のマフラーに顔を埋める。それくらいの仕草では、こんな冬の寒さはしのげない。まして、もうすぐ日付が変わる真夜中だっていうのに。
目前に広がる漆黒の海原が、聞き慣れた波の音を響かせて、あたしを心地よくさせる。
この町は好きだ。決して都会ではないけれど、静かな夜を過ごす事ができる。波の音が、何もかも包み込んで海に溶かしてくれる。
冷えた空気に身を縮こませ、ふうっと溜め息をもう一つ吐き出した。
「こらーっ。ゆず!」
心地良い静寂の中、それを引き裂くようにあたしの名を呼ぶ声がこだました。
少し低い、でも幼さの抜けない、よく知っている声だ。
驚きはしない。そろそろだと、思っていた。半ばうんざりして、あたしはその声がした方へ顔だけ向ける。
堤防に沿う道端で、鼻を真っ赤にしてこちらを見上げているのは、思った通り幼馴染みの亮平だった。
「そろそろ見つかる頃だと思ったよー」
膨れっ面で亮平にそう言うと前を向き直し、
「こっち登ってきて」
と続けた。
地面と堤防を繋ぐのは、ちっぽけで三、四段くらいの木の階段。それを登る亮平の足音が、辺りに響き渡る。
「帰ろーぜ? 俺、寒いの嫌いなんだよな」
側まで来ると、鼻をすすりながらあたしに手を差し出す。そんな亮平を見上げて、
「イヤだ」
と首を振った。
「……たく兄が心配してるぞ、ゆずが出て行ったーって」
亮平は、きっとあたしの事なんてお見通しなんだ。と言うより、亮平自身がそう思っているんだ。
「たく兄が」
と言えば、あたしが聞きわけ良く帰ると思っているに違いない。
「たっくんは亮平のお兄ちゃんでしょ。あたしのお兄ちゃんじゃないんだから。心配なんかしないよ」
いつもなら、亮平の思惑通りになるんだけど。今日はそうはいかない。あたしがここに来たのは、お父さんに怒られたからでも、亮平にいじめられたからでもない。
「お前なぁ、ヒトの兄貴をよくもそんな風に……たく兄だって自分の彼女の心配くらいするっつーの」
「たっくんはあたしの事、彼女だなんて思ってないもん!」
半ば涙声でそう吠え立てたあたしに、亮平は目を丸くした。
何か察したのか、亮平は黙って隣に座った。数秒間だけ波の音を聞き、
「たく兄とケンカした?」
と問掛けて、
「ま、言いたくなけりゃいーけど」と足した。
亮平は昔からこうだ。不器用な優しさは変わらない。そして、あたしはそれに気付かないフリをした事は無い。
隣でカチカチ歯を震わせる亮平に、つい二時間前の事を話し出した。
それは、七つ離れた亮平のお兄ちゃん“たく兄”こと、あたしの彼氏“たっくん”との出来事。
「たっくんね、付き合って二ヶ月経つのに何もしてこないんだ」
吐き出されるお互いの白い息を見つめ、亮平は
「ふーん」とだけ相槌を打っている。
「キスもしないんだよ? 部屋で二人っきりなのに」
「ふーん」
相変わらず、同じ返事の亮平。兄弟のこんな話を聞くのは気が退けるのかな、と少し思ったけど、あたしは構わず続けた。
「たっくん何もしてこないから。だから、あたしが押し倒したの」
「ふー……はぁっ!?」
予想以上の反応だ。横目で見ると、亮平は鼻だけじゃなくて顔全体を真っ赤にしていた。
「何、女から迫っちゃ駄目なの?」
有無を言わせない、そんな視線を亮平にやる。
「い、いや、そーじゃないけど、まぁ、なんつーか、だ、大胆だな」
亮平は落ち着きを無くした様子でガシガシ頭を掻いていた。
「本題はね、ここからなんだよ」
自然と声色を落としたあたしに、亮平は
「うん?」
と自分も声を抑えて、続きを促してくれた。
二時間前、大好きなたっくんの部屋でのんびり過ごしていた時。
「好きだよ」
って言葉も無い、キスもそれ以上の事も起こらないたっくんとの関係に、あたしはとうとう我慢できなくなった。
ベッドで無防備に寝転がるあたしをしり目に、テレビゲームに夢中のたっくんから無理矢理コントローラーを奪い取り、そのまま絨毯に力の限り押し倒した。
「ちょっと亮平、顔赤いってば。想像しないで聞いてよ、こっちが恥ずかしくなるでしょ」
「んな事言ったってなー! あーっ……わーったよ。で、何が本題なんだよ、それを聞かせろ」
「たっくんの服、脱がした時にね、あたし見たんだ」
ふと目の前の海を見渡した。暗くて向こうまでよく見えない。吸い込まれてしまいそうで、何だか急に怖くなった。
「ゆず? ちゃんと聞くからさ。な、言ってみろ」
亮平の優しい声が、少し寂しそうに聞こえる。辺りが静かなせいなのか、よく解らないけれど。
目を閉じて、思い出してみる。ほどよく筋肉がついた、たっくんの肩にあったモノ。鮮明に瞼に浮かびあがる。
「天使の……羽」
可愛らしくて、柔らかそうな。
「天使の羽?」
不思議そうに聞き返す亮平に頷いて、あたしはもう一度言った。
「たっくんの肩に、天使の羽があった」
それはまさに、絵に描いたような可愛らしい天使の羽だった。たっくんの肩にくっきり刻まれた、片翼の小さな天使の羽。
「絵に描いたような」
という表現はおかしいのかもしれない。だってあれは、紛れもなく
「描いた」
モノだから。
「あぁ、たく兄の右肩にあるタトゥーか。天使の羽、片方だけ描いてあるヤツだろ?」
「亮平知ってたの?」
ジーンズのポケットから煙草を取り出しながら、亮平は軽く頷いた。
「俺も最近知ったんだけどな。たく兄、去年まで市内の大学通ってただろ? 一人暮らししてさ。だから今年卒業してこっちに帰ってきた時、俺も初めて見たんだよな」
カチッと亮平がライターに火を点けると、薄暗い中にぼうっと小さな灯りが浮かんだ。すぐにそれが、亮平がくわえた煙草の先端に移される。鼻に微かに届いた苦い香り。たっくんと同じ匂いがした。
「……たっくん、大学行ってから煙草吸い始めたよね。それもたっくんがこっちに帰って来てから知ったけど。あたし、たっくんが向こうの大学通ってる時の事、何も知らないんだよ」
「それと天使の羽がどう関係してんの?」
たっくんの部屋で、天使の羽を見たのは今日で二回目だ。初めて見た、右肩のタトゥーと全く同じ天使の羽を、前にも見た事がある。
「たっくんのジッポ、天使の羽が刻んであるの知ってる?」
煙を吐き出し、亮平は首を横に振った。
「そのジッポ、あたし欲しがったんだよね、すごい可愛かったから。そしたらたっくん、駄目だって」
「何で?」
とすねて聞くあたしに、大切そうにジッポを握りながら
「貰いもんなんだよ」
と答えた。その時は気にも留めなかったけど、肩に刻まれたあの天使の羽を見た時に、あたしの胸は嫌な音を立てて騒ぎだした。
肩に描かれた見覚えのある天使の羽に、あたしは手を止め、しばらく動けなくなった。そんなあたしにたっくんが言った。
「ゆず、ごめん」
と。
その天使の羽に、何か深い意味があるんだとすぐに悟った。そしてたっくんはそれを、あたしには教えてくれないという事も。
悲しくて寂しくて、押し寄せてくる不安と目の前のたっくんから逃げるように、彼の部屋を飛び出しこの堤防まで走った。と言っても、五分もかからない距離だけど。
「亮平ごめんね。亮平がここに来た時、何でたっくんじゃないのってちょっと思っちゃった。でも解ってたけどね。たっくんじゃなくて亮平が来る事は」
小さな頃、何か嫌な事があるといつもこの堤防に来ていた。その度に迎えに来てくれた優しいたっくん。けれど、たっくんが大学生になってこの町を離れてからは、代わりのように亮平があたしを迎えに来てくれたんだ。
「だから今日も、亮平が来ると思ってたよー。亮平、意外と世話好きだしね」
重い空気を払おうと笑って見せたけど、亮平は難しい顔をしながら煙草をコンクリートに押し付けた。
すっと立ち上がり、少し強引にあたしの腕を掴む。
「たく兄のとこ行くぞ」
「え、やだ。会いたくないよ」
亮平はいつの間にこんなに力が強くなったんだろうか。頭の隅っこで呟くあたしが居る。掴まれた腕は、どんなに拒否しても解かれる事は無かった。
「たく兄に直接聞けよ。このままの方が本当は嫌だろう? お前、意地っ張りだからな。俺が連れてってやる。ほら、立ちやがれ」
今度は後ろから羽交い締めの形で、体ごと持ち上げられそうになり、
「わかった、わかったよ! 自分で立つから」
と渋々重い腰を上げた。
「それでよし」
やっぱり亮平は、何もかもお見通しなんだ。
「たく兄のとこ行くぞ」
――あたしはこの何分間、本当はその言葉を待ってたのかもしれない。
頬に当たる風が痛い程に冷たい。じっとしてればそんなに感じなかったのに、歩き出すと凍てつくような寒さが途端に襲う。あたしはマフラーに一層顔を埋めて、前を歩く亮平について行く。
たっくんのとこ、とはつまり亮平の家でもある。幼い頃から行き馴染んだ家だからこそ、こんな真夜中でも何の抵抗も無しにお邪魔できた。
ギシギシ音を立てる木製の階段を上ると、狭い廊下に向かい合わせの部屋がある。たっくんの部屋と、亮平の部屋。
「俺、一階に居るから。気にしないで話せよ」
そう気を利かせて、亮平はあたしの背中をポンと押すと、また階段へと戻って行った。
扉の向こうに、たっくんが居る。聞こえないように深呼吸をして、遠慮がちに扉を開ける。
「ゆず。入れって、寒いだろ?」
隙間から顔を覗かせただけのあたしの耳に、そっと気遣うようなたっくんの声が響いた。
おずおずと部屋の中に入る。たっくんはベッドに腰かけて、申し訳なさそうに笑った。
「ゴメンな、俺が行かなきゃいけないのに。亮平に行かせちまった。その方が良い気がして」
栗色の短い髪を、綺麗な長い指でガシガシ掻くその仕草は、やっぱり兄弟で。亮平の同じ仕草とよく似ている。
「たっくん、聞きたい事があるの。答えてくれる?」
たっくんの足元に座り込むと、ギュッと拳を作りながらもきっちり彼の目を見据えて言った。
大きな手に優しく頭を撫でられる。身体のずっと奥の方から、熱いものが瞼まで込み上げてきた。それを強く強く我慢して、あたしは続ける。
「天使の羽が彫ってあるジッポは、誰に貰ったの?」
彼の答えを急く自分と、聞きたく無いと拒む自分。ジレンマが途端に迫ってくる。ほんの少しの沈黙も痛かった。
たっくんの手が頭から離れる。袖口から微かに煙草の匂いがした。
「大学ん時、付き合ってた彼女がいたんだ。その娘に貰ったものだよ」
その表情は穏やかで、だけど視線はどこか遠くに在る。いちいち早くなる胸の鼓動が煩わしい。あたしの心臓、もっと頑丈なら良いのに。
「ゆず、お前に告白された時にちゃんと話しておくべきだったな。俺心のどこかで、いつまでもお前の事を妹みたいに思ってたから、こんな事を話すの躊躇っていたんだ」
絨毯の上で小さく震えだしたあたしに、そっと毛布をかけてたっくんは哀しそうに笑った。
「俺の元カノね、口癖みたいにずっと言ってたんだ。天使になりたい、天使になりたいって」
思わず首を傾げた。たっくん変わった人と付き合ってたんだね、という言葉が喉元まで出かかったけど直ぐ様呑み込んだ。たっくんが、あまりに愛しそうにその彼女の事を話すから。
「天使になりたいって、どうゆう意味なの?」
「んー……。天使って純粋無垢なイメージだろ? そんなふうになりたかったんだって。嫉妬とか、独占欲とか捨てたいってずっと言ってた」
なんとなく、彼女の気持ちが解った気がした。天使になりたいと言ったその心意さえ見えた気がした。
「たっくんカッコイイから不安だったんだね。それで嫉妬したり、独り占めしたくなったりして。そんな自分が嫌だったのかな」
そう言うと毛布に埋くまり、不意にたっくんを見上げた。そこには、言葉も出ない様子のたっくんの顔がある。
「たっくん?」
怪訝に彼の顔を覗き込む。
「あ、あー。ゴメン」
目を瞬かせ、たっくんは手を自分の口元に持っていった。
「どうしたの?」
「いや。ゆずがそんな事言うとは思ってなかった。やっぱおっきくなったんだなぁ、お前」
ふぅーっと大げさに息を吐き出して、たっくんはベッドに寝転がった。頭の後ろで両手を組み、天井を見上げている。
あたしはというと、ベッドの脇で相変わらず毛布にくるまって。彼の口が次に動き出すのを、じっと待っていた。
沈黙が続く。時折窓の外で誰かの足音がしたり、猫の甘えるような鳴き声がしたり。それ以外には、煩わしい騒音なんて聞こえない。そんなお気に入りの静かな夜が、今日は何故かやりきれない。立てた膝に、額をくっつけて顔を埋めた。
それから何時間経っただろうか。実際には五分にも満たない時間だったけど、あたしにはとてつもなく長い間に感じられた。
「ゆず、顔上げて」
たっくんの小さな声に促されるまま重い頭をもたげる。たっくんは体を起こしベッドの上であぐらをかくと、着ていたトレーナーをゆっくり脱ぎ始めた。
「たっくん」
何してるの?とあたしが続ける前に、たっくんは自分の右肩を指差した。
「コレ、何で片翼なんだと思う?」
小麦色の肌に、鮮やかに描かれた小さな片翼だけの天使の羽。透き通るような淡い水色の線が、羽の縁や細かい模様やらを型どっている。そこに、いかにも純粋無垢を象徴するかのように、混じりっ気の一切無い白で濃淡を強調させながら天使の羽は色付けされていた。
タトゥーって、肌に絵や字を彫って描くモノなんだと思っていたけれど。たっくんの肩に在る天使の羽は、綺麗な絵の具で優しく描いたような。本当に、可愛らしくて柔らかそうで。今にもそこから、羽がひとつふたつ舞ってきそうだ。
「天使は片翼じゃ翔べないだろ?」
すっかり天使の羽に見入っていたあたしに、たっくんがまた問掛けた。
「たっくんはさっきから何が言いたいの? そんな遠回しにじゃわかんないよ。はっきり言ってほしい」
たっくんの肩から視線を外して、下唇を軽く噛む。――たっくんごめんね。本当はわかっているんだよ。
たっくんは昔から、亮平と違ってとにかく優しかった。七つも離れたあたしの事を、やっぱり
「妹みたいに」
思っていたんだろう。泣いたら頭を撫でてくれ、すねたら必死になって機嫌をとってくれた。今だって、あたしを傷つけないように言葉を選んでくれている。
その優しさを目の前に、
「何が言いたいの」
なんて言葉を放ったあたしは、どこの誰よりも最低の女だ。
だけど、今日はそんな優しさは悲しいだけだから。あたしは強い意思を持ってたっくんを見つめ続ける。
あたしのそれを感じとったのか、たっくんは一呼吸置くと頷くように微笑みを返してくれた。
「ゆず、今からお前の事を妹みたいじゃなくて、一人の女として意識して話すからな」
「……うん。そうして、たっくん」
大人ぶって、背伸びして。あたしも同じように微笑んでみせる。
なぞるように、たっくんの指先が優しく天使の羽に触れる。
「服着なきゃ、風邪ひくよ?」
と言うあたしに、
「そんな弱い体じゃないよ」
と笑った。
また窓の外で猫が鳴いている。部屋の中は時計の音しか響かない。だけど、もう痛い沈黙ではなかった。天使の羽を見つめるたっくんの瞳が、とても綺麗だった。
「ゆず、ごめんな。俺、彼女の事を忘れられない」
とうとう、始まってしまった。そう思った。別れ話も、失恋も、生まれて初めての体験だ。置かれた状況の割に、あたしの脳内は不思議と冷静だった。
「このまま、ゆずとは付き合っていけないよ」
「……うん」
鈍い痛みが、胸の辺りにじんわり広がっていく。どんなに大人ぶってみても、その痛みに嘘をつく事はできないんだと、身体中で感じていた。
でも目を背けてはいけない。たっくんもきっと、同じような痛みを抱えているんだから。もしかしたら、これ以上の痛みかもしれない。
たっくんの話では、彼女はすごくヤキモチ妬きだったらしい。それに加え、寂しがりで、誰より弱い心を持っていたとか。こんな言い方をすると、軽く捉えがちだけど。二人にとって、それは深刻な問題だったと、たっくんは悲しそうに言った。
「俺は別に、彼女のそうゆう所が嫌だったわけじゃないんだけどな。彼女は気にしてたんだ。汚い感情ばかりの自分が嫌だって」
やっぱり、あたしの想像は当たっていた。あたしだって、この二ヶ月間で何度思ったか解らない。独り占めしたい、とか。あたしじゃない女の子と関わらないで、とか。……口に出す勇気なんて無かったけど。
「ヤキモチ妬くとね、今あたしすっごく醜い顔してるって、自分で思うんだ。そんな顔を好きな人に見られるのも嫌だけど、見られてない所でするのも嫌だよ。あたし汚いなぁって、思うの」
たっくんは、小さく
「うん」
とだけ答えると、おもむろにベッドの下に手を潜らせた。どうやら、何かを手探りで見つけ出そうとしている。
「何があるの? あたし探そうか?」
たっくんは頭だけ横に振って答える。それからほどなくして、
「あ。あった」
と言いながら、ベッドの下から手を引っこ抜いた。
彼の右手には、少しヨレた一枚の写真が握られている。
「前の彼女。説明するより見た方が早いから」
その意図も解らないままに、差し出される写真を素直に受け取った。そこには、青い空と海をバックに、賑やかな砂浜で肩を寄せ合う、水着姿の一組の男女が映っている。
途端にあたしの瞳は、その萎れた写真の映像に釘付けになってしまった。
その男女は、間違いなくたっくんと“前の彼女”なんだろうけど。あたしが目を奪われたのは、大きな瞳とふっくらとした唇を持つ“彼女の顔”でもなければ、透き通るような白い肌でもない。
たっくんの右肩と、彼女の左肩。ピッタリくっついた二人の肩が造り出すものは、まさしく完成された、ひとつの“天使の羽”だった。
「俺とアイツは、ふたりでやっと一人前なんだ。この羽が、片方だけじゃ意味を持たないように、俺とアイツだって、お互いがお互いを必要としてる。片翼じゃ翔べないんだ」
「……じゃあ、何で別れたりしたの?」
「さぁ……わかんね。アイツが、もうやめようって寂しそうに言った時。何でそれを了解したのか、自分でもわかんないんだよな、今思うとさ」
宙を見つめて、たっくんは
「俺、何で引き止めなかったんだろ」
と呟いた。
二人の別れ際に何があったのか、詳しくは解らないけれど。なんとなく思う。彼女もたっくんも、お互いを想い過ぎていたんじゃないか――って。
「この羽、彫る時に約束したんだけどなぁ。ずっと、一緒だよって。二人で翔ぼうって」
写真の中で微笑む彼女へと、思いをはせるようにたっくんは息を吐いた。そんな彼の表情から、反らすように視線を写真へ移す。
太陽に照らされ反射する青い海よりも、二人の肩に映える羽の白と水色の方が綺麗に見えて、胸が焦げるように熱くなった。
ポタリ、と写真に滴を落としたのは、あたしの瞳。
「ゆず?」
一度溢れてしまったものは、なかなか止まってはくれない。悲しいのか、寂しいのか、切ないのか。この感情を何と呼べば良いのか解らない。
小さな頃からたっくんが好きで好きで、大好きで。いつも追っていた大きな背中。やっと追い付いて、隣に並んでみれば、その肩には他の誰かに永遠を誓う片翼の羽。辛くない、わけが無い。だけど――たっくんと彼女が離れてしまった事に、一番寂しく思うんだ。
ポタリ、ポタリ。涙で天使の羽が滲んでしまう。歯をくいしばって必死に堪えても、容赦なく次々と溢れてくる。
慕う気持ちが膨れ、恋に変化したあたしのちっぽけな愛情なんて、入る隙間も無い程に。お互いの肩に描かれた片翼の天使の羽は、きっと今でも相手を求めている。
「ゆず、ゆず」
あやすように名前を呼ぶたっくんの穏やかな声が、余計にあたしを泣き虫にする。
「お前の事、傷つけたかった訳じゃないんだ。泣かせたくて、一緒にいたんじゃないんだ」
知ってる、知ってるよ。たっくんはあたしを傷つけるの嫌いだもんね。あたしはね、それを知ってて、告白したんだよ。
「たっくんがあたしの事、妹みたいにしか思ってない事は付き合う前から解ってたよ。でも、でも彼女になれれば、いつか大人の女として見てくれるんじゃないかって……あたしズルイ」
服の袖口で、自分の涙をグイッと拭った。あたしが泣いていては、たっくんだって前に進めない。
「俺だってズルイよ。もしかしたら、アイツの事忘れられるんじゃないかって。そんな汚い事考えながら、ゆずと付き合いだしたんだから」
その言葉に、また涙が溢れだした瞳を顔ごと上げれば、たっくんの表情が切なく歪んだ。
「ごめん、ごめん、ゆず」
押し殺すような声が耳に届くと同時に、あたしの体はたっくんの大きな腕の中に包まれて、痛いくらいの力で抱き締められた。
鼻と、頬と――それから、彼に触れる全ての体の部分から。匂いも温度も感触も、何ひとつ洩れる事なく、身体中に伝わってくる。
「は……初めて、ギュッてしてくれた」
たっくんの肌に、あたしの涙が染み込んでいく。こんな温かさを知ってしまったら、せっかくの決意が揺らいでしまう。
泣き言なんて、言いたくなかったのに。大人ぶって笑って
「バイバイ」
を言うつもりだったのに。涙と一緒に、感情までこぼれおちてしまう。
「たっくんの、天使になりたかったよぉーーっ」
叫びにも似たあたしの言葉が部屋中に響く。抱き締めるたっくんの腕が、一層力を増すと、あたしの心までもを痛く締め付けた。 伸ばせば届く距離にあったのに、あたしはたっくんの背中に自分の手を回せなかった。
ただただ、右の掌で握った写真の中の“彼女”に、どうかあなたも、たっくんと同じ気持ちのままでありますようにと、願い続けていた。
ひとしきりたっくんの胸の中で泣いたあたしは、ようやく落ち着くと、自分から彼の腕を離れた。
「目が重い……」
鼻声で言うと、たっくんは小さく
「冷やして寝れよ」
と笑ってくれた。
「たっくん、あたしもたっくんの事、傷つけたくないから。だから――ちゃんとバイバイするね」
今度は、笑って言えた気がする。だって、この別れは悲しい事なんかじゃないんだって、たっくんの胸の中で気付いたんだ。
あたしを抱き締める両腕の、右の肩。涙でぼやけながら、それでも見えた天使の羽は、たっくんの永遠の想い。
あたしが恋した人は、天使の羽を持っている。変わらない、永遠の愛を誓った証を体に刻んで。同じシルシを持つ相手だけを、今も求め続けている。それがとても、誇らしく思った。
「ゆず、ありがとな」
たっくんの言葉に、首だけでコクンと頷く。絨毯の上のマフラーを手にとり立ち上がると、深く息を吸い込んだ。
口の端を上げとびきりの笑顔を作って、くるっと振り返る。ベッドの上で、たっくんは
「じゃあな」
と右手を上げた。
角度を変えた右肩で、電球の光に照らされた天使の羽が、鮮やかに煌めいて見える。あまりにもそれが、眩しすぎるように思えて。あたしには触れられない尊さを感じた。
天使の羽を、瞼に焼き付けて。たっくんの永遠の愛を、胸へとしまいこんで。彼と同じように手をあげると、ついに心を決めた。
「たっくん、バイバイ」
返してくれた笑顔は、今までで一番、心の奥底に響いた。
最後に
「ありがとう」
と呟いて部屋の扉に手をかけると、あたしはたっくんの部屋から足を踏み出した。
音を立てないように玄関の扉を開けると、鼻や耳まで真っ赤にした亮平が立っていた。どこから連れてきたのか、茶色の猫を抱きかかえながら、
「送ってってやるよ」
とぶっきらぼうに言った。
寒いの嫌いなのに、ずっと待っていてくれたのだろうか。聞いてみたって、きっと亮平の事だから
「そんなんじゃねーよ」
ってそっぽを向くのだろうけど。
あたしだって、お見通しなんだよ。亮平は不器用に優しいって事。それが何だか、妙に心に染みる。
「ありがとう」
「おー」
ふと見上げた夜空は、やっぱり綺麗で。到底届きそうのない星空に、たっくんを想った。
「あ。どーりで寒いと思ったら、雪降ってきたし」
亮平の言葉と共に、頬に一片の雪が舞い落ちる。
「天使の羽みたい」
それはまるで、あの天使の羽を思わせるような純白の雪。やがて降り頻り出したその光景に、願わずにはいられなかった。
どうか、どうか。たっくんの羽が、早くその片割れに再会できますように。そうしてひとつに成った天使の羽が、早く素敵な世界へ翔びたてますように――。
完