きみへ祈る
こんこん、と窓がノックされた。サジェは作業の手を止め、沈痛な面持ちで窓を開けた。
「ルウ、お前玄関から入ってこいよ。子どもじゃないんだから」
「やーだよ、面倒くさい。おっじゃましまーす」
お決まりとなったやり取りが終わると、隣の家の窓からルウが身を乗り出し、こちらへ渡ってくる。これが始まったのは、確かルウが十歳ぐらいのころからだ。それまでは、ルウが大泣きするたびサジェが仕方なしに窓を渡っていたのを思い出す。五歳年下の彼女に、何故か懐かれたのだ。
今ではルウも十六になっていた。じきに十七になる。それでもTシャツにジャージ姿で窓をこえるのは変わらない。サジェが危ないからやめろ、と何度警告してもルウは無視する。
「ちょうど良かった。ルウ、これどう思う。もらった端切れで適当に作ったんだけど」
「なになに?」
ルウが目を輝かせる。渡したのはバッグだった。ビニルの透明なバックの中にカラフルな布地の巾着がおさまっていた。お揃いの布地で作られたクマのぬいぐるみが取っ手にぶら下がっている。
「わっ。かわいいー! くれるの?」
「気に入ったなら」
そうサジェが言ったとたん、ルウは不審者でも見る眼差しで凍りついた。
「……なんだよ」
「だって、サジェがそんなこと言うなんて初めてじゃない。アレ欲しい、コレ欲しいって言ったって今まで絶対くれなかったのに」
手先が器用だったサジェは、バッグや洋服、アクセサリーなんかを時折作っていた。服は毎度奇抜なデザインだ。真っ白の布を焦げ付かせ、それを身に纏わせて「ドレスだ」なんて胸を張ったこともある。
ルウが何度「いいなぁ」と物欲しげな目を向けても、素知らぬ振りを続けてきたのだ。
「じゃ、いらない?」
「いる!」
ルウはバッグを両手で抱きしめて、威嚇した。
「……って、これクマの足が片方付いてないじゃん!」
「付けてる途中でお前が来たんだよ。ほら、貸せ。あとは縫いつけるだけだから」
唇を尖らせてバッグを渡したルウは、当然のようにそこにあった菓子をつまみ、冷えたコーヒーを飲んで、ベッドへダイブする。嬉しそうにサジェが針と糸を持つ様を眺めてごろごろと転がり――やがて不思議そうに身を起こした。
「ねぇ、なぁに、このダンボール。いっぱいあるよね」
部屋の変化にルウの声は、笑っていたけどどこか不安交じりだった。
サジェは少し前から抱えていた秘密を、そっと打ち明けた。
「俺ね、ルウ、ちょっと学校辞めてきたよ」
ルウが呆気にとられてサジェを仰ぐ。
ルウは、サジェにとってお隣に住む女の子で、可愛い妹だった。多少サルみたいなところはあるが、どんなに邪険に扱っても、喧嘩をしても、翌日にはこうして窓からやってくる血のつながらない妹。サジェのベッドを我が物顔で占拠し、親には内緒でこっそり泊っていくこともザラにある。
年ごろだからやめろと口うるさく言っているのに、ルウは聞く耳を持たなかった。六年間飽きることなく窓を飛び越えてやってくる。それはサジェに彼女が出来ても途切れることはない。さすがに彼女を連れ込んでいるときはやってこなかったが、
「サジェ、今度の彼女は一週間しかもたなかったんだ?」
よく窓越しにルウは笑ったものだ。不幸なことに容姿に恵まれたため、サジェは女によくモテた。そして景気良く振られていた。手形が残るほどビンタされることもしばしばだ。
そのたびルウが、いっひっひと笑うのだ。
何人彼女ができても、ルウのポジションは変わらない。
「ねぇサジェ、私にしときなよ!」
そんなことを言うのもお決まりの文句。良い女になるよ、と身をくねらせるルウの額を指で軽く押し、
「ばーか、お前みたいなチビを相手にするか」
と言うのがサジェのパターン。
しかしその関係は今日を持って終わりを告げる。サジェが終わらせる。
「なんだ……、ついに辞めちゃったんだ。いつまで続くだろうと思ってたけど、親泣かせのサジェ。おじさんとおばさんは承知してるの?」
「反対はしたけどね、今やらなきゃ一生後悔するって説得したよ」
サジェはルウが拗ねて悲しむと予想していた。泣きわめくか、怒りだすか。しかし、ルウの反応はサジェのそれを裏切った。
「なんだ、やっと何かに本気になったんだ」
ルウは小さく苦笑した。
「サジェはさー、いっつも面倒くさいって適当で、無関心で、諦め早くて、何も長続きできなくて……彼女でさえそんなだから、すぐ振られてたんだよ。わかってる? このままだったらヒモ男一直線だったんだから」
サジェは同じようなことを何番目かの彼女に言われたことがある。
――サジェ、あんたにお似合いなのはヒモだわ。何もせず、女に可愛がられているのがいいわ。女に守られているのがお似合いだわ。
別れ間際のセリフだった。あのときの彼女が悲しそうに泣きながら笑っていたことをサジェは覚えている。それに一つも反論できなかったことも。
サジェはルウの頭をがしっとつかんで、ぐしゃぐしゃとかきまわした。ショートカットの柔らかな髪の感触も、ここを離れたらしばしの別れだ。完成したバッグをルウに渡しながら、
「なーにわかったような口利いてんだよ、ばーか」
「わかってるから言うんだよ、ばーか」
べえ、と舌を出してルウが窓を開けた。
「……遠くへ行くの? もう会えなくなるの? いつ行くの? 何をするの?」
「車なら半日ぐらい? 会えなくなるってこたないよ。それと出発は明日。何をするかは……考えてるけど今は内緒」
わかった、と言ったルウが窓枠に足を乗せながら振り返る。サジェは、引っ越し先を告げる気はなかった。それを察していながら少女は笑いかけてくる。いつものように明日また会えるんだというような、気安さで。
「サジェ。応援してるけど、嫌になったらいつでも戻っておいでよ。ね?」
「戻らねーって」
「ふふっ、それじゃーね! このバッグ、大切にするから」
それがルウとの別れだった。
色気も何もなくて、妹みたいで、いつでも手の届く距離にいたルウ。もうずっと前から好意を寄せられていることにサジェは気付いていた。冗談めいたやり取りの中でかわされる「好きだよ」の合図。子どものように未発達だったそれが、いつしか本気に変わっていた。
まだ十二歳。まだ十五歳。サジェの見ている前でルウはどんどん成長を遂げていく。
甘えていたのはサジェのほうだったのかもしれない。
ゆえに何も言わなかったし、言わせなかったのかも。
ろくでなしでどうしようもないサジェは、ルウがいるから道を踏み外せなかった。ルウはどれほど情けないサジェでも受け止めてくれた。親さえ諦めたサジェの傍を、ルウは離れなかった。窓からやってくるのは、二人だけの、二人のための出入り口だったからか。
サジェは冷めたコーヒーへ手を伸ばし、それが空だと知って舌打ちした。ルウが飲んでいったのだ。仕方なくポケットをまさぐってたばこを取り出し、安物のライターに火をつける。煙を吐き出しながら、改めて部屋を見渡した。そして隣の窓を見つめる。レースのカーテンの先にルウの姿は見えなかった。
……大切な妹だから、いつまでも妹の距離でいてほしいと願ったのか?
自身に問いかけ、くく、とサジェは口角を押し上げた。そんなことは今更問いかけるまでもない。旅立つと決めたのだ。この居心地の良さから離れると。
階下から引っ越しを手伝いにきた友人たちの声が響く。返事をしながら、もう一度窓をサジェは振り返った。向こうの窓を飾るカーテンが、揺れた気がした。
……さようならだよ。ルウ。俺は、この場所を出て行くから。
だから、数年経ったころにこの報せの届く日がくることも、覚悟はしていたのだ。
「サジェ、ルウが結婚するよ」
十年ぶりに戻った故郷は、少しずつ昔と色を変えていた。それはサジェの部屋も同じだ。出ていったときのまま、色あせていた。自分の残滓はたしかにあるのに違う表情をしていて、妙な違和感があった。
いや、違和感はサジェ自身にあったのかもしれない。
この部屋にいたころは夢に溢れ、未来に希望も持っていた。働くことを知らず、あまりに幼かったころの自分と今のサジェは、あまりに違っていた。くたびれた雰囲気の自分に対し、苦笑が漏れる。
「あなた、本当にあのサジェ?」
昔の知人からは胡乱なまなざしを向けられた。
――部屋を出ず、ずっとここにいたら俺はどうなっていたんだろうな。
ルウや昔々の彼女から言われたように、ヒモとして生きていたのだろうか。
苦々しく笑みをこぼしながら窓を何気なく開けた。すると……向かいの窓もレースのカーテンが開いた。そこに、見覚えのある女性がいた。あまりに突然で、二人は絡み合った視線をほどくこともできなかった。
「サジェ……?」
女性は目を大きく見開き、サジェの名前を呼んだ。その声でサジェはルウだと確信を持つ。
彼女は腰の近くまで髪が伸びていた。サジェの好きだった柔らかな猫っ毛が風に流され、白い手がそれを押さえる。
「ひさしぶりだな、ルウ」
化粧をした顔が、ゆっくりと驚きから笑顔へ変わった。
「サジェ、戻ってたんだ。連絡くれたらいいのに!」
ルウは昔とおなじようにサジェを受け入れてくれる。
しかし、その左手には婚約の印が輝いていた。
「ねぇ、そっち行ってもいい?」
「お前、何歳になったんだよ。やめとけ、怪我したらどうするんだ」
「怪我なんてしないよ」
ぷくっと頬を膨らませ、ひざ丈のスカートから白い足が覗く。履いているのはピンヒール。Tシャツにジャージ、スニーカーではもうないのだ。それを躊躇なくルウは脱ぎ捨てる。
「受け止めてよ、サジェ」
身を乗り出す『妹』に、サジェは慌てて手を差し出した。ふんわりと抱きとめたルウに、かつての少女の面影を見た。しかしもう少女ではない。小枝のように細かった身体は柔らかなラインを作っていたし、香水と化粧品の匂いを纏う、すっかり大人の女性だ。
「ああ、ドキドキした! 久しぶりにやったけど、危ないことしてたんだね私」
「お前、何無茶してんだよ、死ぬぞ」
でも受け止めてくれたでしょ、とルウは笑いながら乱れた髪を整える。抱き留めた彼女から少し身を離して、サジェは小さくほほえみかけた。
「おめでとう。結婚するんだって聞いたよ」
「半年後、だよ」
呟いたルウは、離れようとしたサジェの袖を掴んだ。それから躊躇うように、腕を掴みなおす。
「……ねぇ。私、サジェをずっと待ってたんだよ。ずっと、ずっと、ずっと。連絡くれないかな、とか。戻ってこないのかな、とか。ねぇ、一度も帰ってこないなんて、一度も電話も手紙も寄越さないなんて、酷くない?」
「連絡できるようなことが、何もないってことだろ」
「それでも! ……私は待ってたよ。ねぇ、今日はどうして帰ってきたの」
すがるような眼差しが、連れ去ってくれないのか、と告げていた。私を迎えにきてくれたのではないのか、と。
サジェ、と目を潤ませながらルウが胸元に頭を寄せる。抱きしめて欲しい、と訴えているのがわかる。
サジェは、苦笑をしてかつてのように妹の頭をなでた。
「今日はプレゼントがあって帰ってきたんだ。もしかしたら決めてしまったかもしれないけど」
大切に抱えてきたトランクを、サジェが広げる。真っ白なレースがいっぱいに詰め込まれていた。
「デザインしたんだ。きっとルウに似合うと思って」
純白のウェディングドレスをサジェが持ち上げる。床に引きずるほど長い裾。ふんだんにフリルとレースで彩られていた。
「サジェ、服を作ってるの? そういえば、そういうの得意だったね。もらったバッグも手作りで……」
「思い出した?」
「あの焦げた白いドレスとか?」
「残念だが、これはアレほど斬新じゃないよ。至って普通なもの」
ルウにとびきり似合うように。
「ふふ、本当かなぁ? 私のサイズ知ってるんだ?」
「いいや、知らない。だから、調整はそっちで頼むよ。……でも、失敗したな。可愛らしすぎたかもしれない。シンプルな方がお前には映えたかも」
何よそれ、とルウが笑う。涙でゆがんだ笑顔だった。
「……そういえば、サジェの周りって綺麗な人が多かったよね。そっか。モデルさんだったんだ」
ルウが小さく苦笑した。あのかばんまだ持ってるよ、と耳元で囁く声は、甘く、懐かしさを誘う。
「そう。ずっとルウにだけは言えなかった。悪い」
「本当だよ。どれだけ心配したと思ってるの」
ばくち打ちにも近い男を、待っていてくれとは言えなかった。デザイナーとしての腕をそこまでサジェは過信しない。やっと、そこそこ仕事を任せられるようになったが、今だって収入は不安定に近いのだ。
それでもルウは受け入れてくれるだろう。仕方ないなぁ、と笑いながら傍にいてくれるだろう。それを、サジェが望んだなら。
――嫌になったらいつでも戻っておいでよ。
やさしくて残酷な言葉が、サジェをずっと支えてきた。しかし、これからは違うのだ。
ドレスごとサジェはルウを抱きしめた。
「ありがとう、ルウ。でも俺をもう待たなくていい。お前は幸せになるんだから」
「……サジェがいないのに?」
「なれるよ。ルウは絶対に幸せになれる。どこにいても、誰と一緒でも。そう祈ってる」
お前は良い女になったよ、とびきりの。
そうサジェが伝えると、ルウの頬を涙が伝って落ちていく。
「ばか。もうサジェの手なんか届かないんだから。……ドレス、ありがとう」
ルウとの再会は永遠の別れにも似ていた。
涙を浮かべるルウが爪先立った。唇が重なる。
最初で最後のキスだ。
「ばいばい、サジェ。大好きだった」
やって来たときと同じように、ひらりとルウは隣の家屋へ移った。
サジェに残されたのは、あたたかな記憶と唇と腕に残った感触だけだった。
ルウが選んだ相手は、好きな人がいるからと断り続けた彼女を何年も思い続けた男だった。真面目な堅物で、ユーモアの一つも言えない男だが、一途にルウだけを見ていた。
「俺ならルウを一人にしないし、何年も待たせたりしないし、不安にもさせない」
実直で誠実な人柄に、惹かれていったらしい。俺とは真逆の人物だ、とサジェは苦笑した。
晴れ渡った空の下、ウエディングの鐘が鳴る。
そうして妹はサジェとは違う誰かの手を取る。しあわせになるために。
サジェが贈ったドレスを身に纏って、彼女は微笑んだ。
数年前のものが出てきたのでUP。
最後まで読んで下さってありがとうございました。