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西成

裸電球の代わりに、間接照明が静かに灯る。

窓の外にはあべのハルカス、その下に広がる大阪の夜景。天王寺スカイレジデンスの高層階から見下ろすこの景色を剛田は見ていた。


テーブルの上に置かれた透明の袋。その中には、白く乾いた錠剤――“スピン”。

真澄はソファに浅く腰掛け、缶ビールを片手にその袋を見下ろす。


「ヤクザに深入りは厳禁や。薬のバイなんて橋わたらんでも今んとこうまく回っとるやないか」


この部屋に似合わない、リアルすぎる警句だった。

床の無垢材も、壁にかかる抽象画も、何かの真似事に見えた。


剛田は窓辺に立ち、夜景を背にしたまま動かない。

缶コーヒーを手に取り、ぽつりと返す。


「稼げてるうちに、もっと稼ぐんや。法はいたちごっこ。……それに遅かれ早かれ、どっかの組織が“粉”かけてくるやろ」


ビルの灯りが窓ガラスに反射し、剛田の目元だけがぼんやりと浮かぶ。


「なら――共存。いや……徹底的に、“利用”する」


真澄が一瞬、表情を曇らせた。


「焦りすぎや、理貴。

……見とるんは“空”か? それとも“地べた”か?」


剛田は短く息を吐くと、缶コーヒーを一口飲んで、ただ一言だけ置いた。


「ええんや。これで」


言葉には、若さも未熟さもなかった。

高層に住んでも、地べたの温度を知ってる者の声だった。


真澄は残ったビールを喉に流し込む。粗野な仕草だった。空になった缶が、乾いた音を立ててテーブルの上の袋の隣に置かれる。


「……手配する」 


そう言い残し、真澄は携帯片手に足早に去っていった。


一人夜城に取り残された剛田は地べたを見下ろしていた。

 

――俺の育った街


剛田は遠くの方にある、弱りかけの蛍のような光を放つ西成のドヤ街を見ながら自分の過去を思い出していた。


「日本は平和な国や」

「スラムなんか存在せん」

「グレるのは本人のせいやろ」


――聞き飽きたわ。


車椅子の人間に“立て”言うんか。赤ん坊に“泳げ”言うんか。表しか見とらん連中の綺麗事や。何も知らん奴らの、口先だけの正論や。


西成いうても広い。ピンもおればキリもおる。イメージっちゅうのは恐ろしい。好き勝手言いよるが、拍子抜けするぐらい大半は〝普通〟や。


でも俺の現実はちゃう。


“底”の、さらにその下。――そこが、俺の生まれた場所。釜ヶ谷や。

“西成”っちゅう看板の陰に隠れた、もう一つの世界。


朝っぱらからシャブで目がイッた奴が地面のたうち回っとる。日雇いのジジイらが、炊き出しの列に口開けて並んでる。誰の顔にも、希望なんか一滴もない。酒、暴力、薬。

その匂いが地べたに染み込んで、二度と抜けへん。


行政? 警察?――あんなもん、誰も最初から期待してへん。ガラスが割れる音がしても、誰も立ち止まらん。それが“普通”や。負が負を呼び、沈んだら最後。


――ここには、終わりがない。ただ、沈み続けるだけや。俺は、そこで生まれた。「学校」より、「現場」の空気で育った。ドヤの路地裏。炊き出しの湯気。野良犬みたいなガキども。


この街では、人間の価値は“使い道”で決まる。真面目に学校行って、卒業したとこで待ってるのは、ボロい作業服か、生活保護の申請書や。それが“こっち側”の現実や。


せやから、俺はあえて「釜ヶ谷出身」って言う。「西成」なんて言葉でくくられたらムズ痒うなる。――俺が見てきたもんは、そんな生ぬるいもんとちゃう。


おかんは十五で俺を産んで、飛高新地で座ってた女や。いわゆる“女郎”。情緒不安定で包丁を突き立てたられたこともあるけど、牛乳入れてくれたり、風呂沸かしてくれたり俺はオカンが好きやった。


親父は福岡でヤクザやっとって、失敗して破門。流れ流れて西成に来て、飛高の客になって――オカンが惚れて、一緒になったらしい。籍は入れとらん。母子家庭の方が都合がええからな。


二人とも、心が壊れとった。

現実を忘れたくて、オカンの稼ぎで二人してシャブ食うてた。包丁を振り回す母親。酔って暴れる親父。ホークスが負けた日には、それだけでオカンも俺もボコボコにされた。

 

誕生日? 正月?――知らん。

クリスマスっちゅう言葉を初めて聞いたんは、小五のときや。隣のクラスの奴が「サンタにDSもろた」って言うとって、呪文かと思った。


“普通に生きる”って何や。最初から、俺にはその選択肢は用意されてへんかった。いや――”普通”を知らんかっただけかもしれん。

 

結局俺は、“普通じゃない道”を選んだ。それだけの話や。

 

山王中。地元の連中が通う学校や。

大半は真面目に生きとる。

この街では中途半端が一番早く死ぬ。ヤンキーぶって粋がっとる奴? 笑わせんな。そんな“イキリ”は、ここでは秒で潰される。


ここでは皆、リアルに生きとる。使い捨てとして死ぬか、本職で食ってくか、街を出るか。三択や。

見栄も夢も、意味も、とうに腐っとる。

けど――俺は違った。

 

誰にも食われたくなかった。この街の“リアル”に、牙を剥いた。俺なりのやり方で、生き残ろうとした。


山王中だけやない。西成中央、花園中。“同じ匂い”のする奴らを、かき集めた。

車上荒らし、空き巣、おやじ狩り。何でもやった。


――金が欲しかった。

金は力や。力がなきゃ、食われるだけやからな。……今になって思えば、全部が正しかったわけやない。けど、あのときの俺には他に道なんかなかった。

 

そういう街で育った。ただ、それだけのことや。


――ある日の夜中、家に帰った。

案の定、親父がオカン相手に暴れとった。


「お前、股開いてそんだけしか稼がれへんのか!」


「アンタが殴ってこんな顔にしたからやろが!」



「ふん、お前もそろそろ妖怪通りいきやな……」



その言葉にオカンが、キレた。

包丁を、親父に突き立てようとした。


「やめぇって、オカン!!」


俺は止めようとした。


でも――親父がオカンを平手でぶっ叩いた。包丁が、床に転がった。俺の足元に。親父が逆上して。


「このパンコが……!」


次の瞬間、殴る。蹴る。畳に沈んだオカンを、何度も踏みつけた。誰も助けてくれん。誰も来ん。この街では、それが“普通”や。


ふと見たら、オカンが――涙を流して、うつろになっとった。


……俺は、包丁を手に取った―― 



――――――




西成の街を一望しながら普段、表情ひとつ動かさない剛田の額に、汗が一筋、滲んでいた。


「……チッ」


小さく舌打ちし、部屋の明かりを切る。

闇が満ちる。剛田の輪郭は、そのまま闇に溶けて消えた。

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