亡霊
文化住宅の廊下に猫の鳴き声が反響しとる。タバコと味噌汁と下水のにおいが混ざった、いつもの夜や。十三の空気にも、もう慣れてきた。西成から離れて半年――徳永友介はここで、静かにやっていくはずだった。
階段の下に人影が見えた瞬間、足が止まった。――何かがおかしい。
あの立ち方、あの空気。夜の空間が、そいつを中心にして凍りついてるようやった。
フードをゆっくり脱いだその顔を見て、心臓が止まった。
「徳永やろ」
声出そうとしたけど、喉がつまって、出えへんかった。
――神谷才。
後藤猛を殺して姿を消した、“あの”神谷才が、俺の目の前におる。血の気が引くって、こういうことなんやろうな。震えながら、なんとか声を出した。
「さ……才さん……、お、お疲れっす」
情けない声やった。
才さんは、俺にとって伝説やった。闇天狗におった頃――直接話したことなんて、ほとんどない。でも背中は、ずっと見てた。何人もの先輩が、才さんに惚れて、才さんのために動いとった。もちろん俺も。誰より空気が重くて、でも下の面倒見はちゃんとしとるって噂もあった。
一方で――
「あいつはマジで何人か消してるらしい」
「笑ってるときが一番やばい」
そんな噂も、真顔でささやかれてた。本物の人間って、そういう矛盾を抱えたまま生きとるんかもしれん。
そんな才さんが今、俺の目の前で言った。
「一晩だけ、泊めてくれへんか」
頭が真っ白になった。
……なんで俺の居場所知ってんねん。
あの事件があって、全てやり直すために暴走族引退した。西成から逃げるように十三に引っ越して、夜のキャバの送迎で食いつないどるだけやのに。住所、誰にも教えてへんのに。なんで――あんたがここにおんねん。
「え、えっと、俺んとこ、風呂壊れてて……布団も一個しかないし……」
それでも才さんは、まっすぐこっち見とった。目の奥、昔と違う。光がなくて、でも何かに取り憑かれたような――そんな目やった。
俺は、鍵を回してしもた。
部屋ん中、めっちゃ狭い。ワンルームにテレビとローテーブル。冷蔵庫の中も空。
才さんは何も言わず、畳の上に座った。俺は何をどうすればいいか分からんまま、水だけ出した。喉を鳴らしてそれを飲んだ才さんの横顔見ながら、変な感情が押し寄せた。
――ほんまに怖い。でも――どこかで、来てくれてうれしい思いもある。
あんたは俺にとって、ずっと“あっち側”の人間やった。強くて、無茶苦茶で、でも筋が通ってて。俺みたいな“下っ端”には手の届かん場所におった。
その人が今、逃げるようにして、俺んとこに来とる。
――なんで俺なんや。
聞きたかったけど、聞かれへんかった。あんたの声が、昔より低くて、重くなっとったから。
沈黙が部屋の空気を重くしていく中、才さんの視線がふっと俺の首元で止まった。
「お前、チョーカーまだつけてくれとんのやな」
心臓が跳ねた。
首に巻いた、くたびれた黒い革紐。
憧れと勢いだけで身につけていたもの。更生したつもりで、これだけは捨てられずにいた。
「あ……」
慌ててTシャツの襟を引き上げ、それを隠すように首をすくめた。情けない。まだ俺はあんたの影を追っている。その事実を突きつけられたようで、顔が熱くなった。
「あ、いや……これは、癖みたいなもんで、もう、すぐ外すつもりやったんです」
言い訳を重ねる俺に向ける、才さんの目には、説明のつかない色が宿っていた。
「似合っとるわ」
その一言で、心臓の奥がじゅわっと焼けるような感覚がした。
その夜、ほとんど寝れんかった。怖くて。うれしくて。どっちも本音で、どっちも間違いじゃない。ただ一つだけ、確かなことがある。
俺の平凡な夜は、終わった




