生死
廊下を駆ける靴音が、無機質な病院の空気にやけに響いていた。
息を乱しながら走る近藤の手には、震えるスマホが握られている。
画面には仲間からのメッセージが短く一文――
「小野原さん、意識戻った」
それだけだった。言葉を反芻するたびに、胸の奥が軋んだ。“助からんかもしれん”と医者に告げられてから、何度も覚悟した。あの人が目を覚まさず、そのまま逝ってしまう未来を。だから今、足が勝手に動いていた。考える前に、体が走り出していた。
「お待ちください!」
看護師が追いかけるように声をかけてくる。彼女は白衣を揺らしながら近藤の前に立った。
「落ち着いてください。まだ絶対安静です。興奮させると命に関わりますから」
「はい。わかってます」
息を整え、うなずいた。やがて病室のドアの前に立つ。ドアの向こうには、生きて戻った小野原千里がいる。
近藤は、拳を握った。
(俺は、何を言うべきや?)
答えは出ないまま、深い深呼吸。看護師の案内で、ゆっくりとドアが開かれた。
近藤の目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
――小野原は腹筋をしていた。
「な、なにしてるんですか!」
思わず声を上げた看護師に、小野原は息を弾ませながら笑った。
「いやぁ、ちょっと体なまってしもてな」
看護師が呆れたようにため息をつき、「絶対安静ですからね」とだけ残して病室を出ていった。
室内には、二人だけが残された。沈黙。空気が重たい。
点滴の機械が、規則的な電子音を刻んでいる。近藤は一歩、また一歩とベッドに近づき、ふいに深く頭を下げた。
「……すみませんでした」
声は震え、かすれていた。謝罪の理由が言葉になる前に、小野原がぽつりと尋ねた。
「勝ったんか?」
「え?」
「喧嘩や。京志一家との。勝ったんかって聞いとんねん」
その声には怒気も苛立ちもなく、ただ真実だけを求める静けさがあった。
「……いえ、負けました」
小野原の眉がわずかに動く。
「その報告が先やろがい」
そう呟いて、視線を天井に向けた。
「そうか。負けたんか」
「ほんで……猛さんも、才に殺されたんやてな」
「……はい」
長い沈黙が落ちた。時計の秒針だけが病室に響いていた。
やがて、小野原が静かに口を開いた。
「近藤……俺は、京志一家に入るで」
「え?」
聞き間違いかと思った。いや、願望だったのかもしれない。
「猛さんの弟と拳交えて、思たんや。あれは逸材や。猛さんに勝るとも劣らん。詳しいことは分からん。でも、命賭けて猛さんはあいつを守ったんやろ……」
近藤は黙って俯く。
「なら俺が、あの人の意思を継がなあかん。あいつをかつぐ。それが、あの人の願いや」
「でも……」
近藤の言葉を、小野原は手で制した。
「才にやられてた時な、あの目つきの悪いガキ――京志言うたか。あいつが、才に殴りかかったんや」
近藤は顔を伏せた。あの時、自分は何もできなかった。ただ見ていることしか。
「その時の目、怒ってたんか哀しんでたんか分からん。でもな、なんか知らんが思てしもたんや。……こいつらと一緒にやりたいって」
「この小野原千里がやで? この漢達をかつぎたいって本能で思ったんや。不思議なもんや」
ふっと笑い、遠くを見るような目で続けた。
(……猛さん)
沈黙の中、小野原は言った。
「近藤。お前は真っ当に生きろ」
「……!」
「だから――今日で闇天狗特別遊撃隊は、解散や」
「小野原さん……」
「もう俺も十九や。バカやるんも、これが最後。猛さんにずっとついてきたお前らが、納得できへんってのも分かっとる。せやけど……」
「すまん、この通りや」
そう言って、小野原はベッドからよろめき立ち、身体を支えながら、深々と頭を下げた。
「やめてください、小野原さん!」
近藤が駆け寄る。目に涙を浮かべていた。
「俺は……あんたを裏切った。黙って見てることしかできへんかった。謝られる資格なんて、俺には……」
拳を握りしめて言った。
「でも、でも……あんた、勝手すぎるっすよ……!」
顔をゆがめながら、近藤は叫んだ。
「俺らは、別に“闇天狗”のために命張ってきたわけやない! 小野原さん……あんたの、あんたやから……俺らは……!」
目頭が熱くなる。胸が張り裂けそうだった。
その姿を真っ直ぐ小野原は見つめている。
近藤はいてもたってもいられなくなり、病室を出ていこうと踵を返し、ドアに手をかけた。
その瞬間――
「――こんどぉぉぉぉ!!!!!」
病室に響いた小野原の声。近藤の背中が、びくりと震えた。恐る恐る振り返る。
小野原千里が、まっすぐ彼を見ていた。
「お前も……まだ、一緒にバカやるか?」
……たまらなかった。近藤は涙をこぼし、声にならない声で、
「――押忍!!!!」
と、直立し叫んだ。




