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敗北

猛の瞳に、わずかに焦り――いや、初めての“恐れ”が宿った。均衡は、音を立てて崩れ出す。自分の呼吸が聞こえる。心臓が激しく脈打つ。竜の目が、刺すような光を宿して自分を追ってくる。それはかつての、怯え泣きながら追いかけてきた“弟の目”ではない。それは、痛みも恐怖も背負い、それでもなお逃げずに睨み返してくる目。


――その目に、猛は息を詰まらせた。脳裏に焼きついた、あの声がよみがえる。


『兄ちゃん、待って……! 置いてかんとって……!』


夕暮れの施設の裏庭。

泣きながら走る弟。何度も転び、膝を擦りむいても、必死に猛を追っていた。


『なんでなん! なんで俺だけ悪もんなん! 一緒におりたいだけやのに……!』


その言葉に、猛は振り返らなかった。

“弱い奴がついてきたら、自分まで弱く見られる”。

そう信じていた。本来、守るべき弟に自身の牙を剥かせた。

 

今、自身の目の前にいる弟は、恐怖を振り払った顔で立っている。汗と血にまみれながら、それでも引かない。


その姿は――自分を追っていた、あの弱くて不器用な少年の“続き”ではなかった。

 

猛の指が、震えた。


(……なんや……なんで……)


何発ぶつけても、潰れない。怯まない。背を向けない。


「……なんでお前がそんな……」


思わず、声が漏れた。竜は静かに答える。


「お前もほんまは一緒に助かりたかったんやろ…… あぁすることでしか俺ら兄弟は生きていかれへん。そう思っとったんやろ」


その瞬間、猛の中に、初めて“敗北”が走った。 


優秀な兄。愚かな弟。切れない血の繋がり。


あの地獄という舞台でそれぞれの役割を演じることでしか身を守れなかった幼い兄弟。


自分に力があればと……何度自身を呪っただろう。弟を救う優秀な兄になりたいと……何度願っただろう。


技でも、力でもない。「向き合う勇気」において、自分はすでに弟に負けていた。言葉が出ない。


竜が、ふらつきながらも一歩近づいた。


「もう、逃げんなや。兄貴」


まるで過去の自分にそう言われているようだった。そして、猛の足が――わずかに後ろへ退いた。


その視線の先には、かつて泣きながら自分を追っていた弟の姿など、もうなかった。――そこにいたのは、自分を超えて前へ進もうとする、一人の男だった。

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