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地獄

次の瞬間、恐怖を振り払うかのように竜が飛び出す。

だが、恐怖の足枷が竜を縛ったのか、ほんの1コンマ遅れる。


既に猛の顔が目前に迫っている。避けられると分かっている。弾かれると知っている。だが、拳を振るわない限り、“過去”には届かない。


猛の右拳が、速さも躊躇もなく返り竜の顎が跳ね上げる。


身体が浮き、数歩よろけて地面に手をつく。

血が、ポタポタと地面に落ち砂利が赤を和紙の様に吸い込んだ。


「弱いまんまやなァ、お前は」


猛の冷徹な言葉を受けた竜の表情は――笑っていた。


「……そうや。弱いまんまや。けどな、お前の“強さ”にはもう怯えへん」


猛の顔に、初めて影が差す。眉間に皺を寄せ呟いた。


「……兄弟喧嘩ですむと思うなよお前」


竜は首を横に振り、はっきりと猛を直視し言った。


「お前に勝ちたいんやない。殴られ続けたまんまの“俺”を終わらせに来た」


そんな言葉は耳に入らないと言わんばかりに猛が突っ込んだ。


竜のこめかみに向かって弾丸のように迫る。


だが――竜は、目を閉じない。

踏みとどまり、拳を迎え撃つ。


硬質な衝突音が響き、骨が軋む音が響く。

 

「ぐぅぅ……」


手をおさえ、静止する二人。息が、荒い。汗が、垂れる。


じっくりと見る竜の瞳。あの時の瞳。猛の中に、幼き日の声が甦った。


『兄ちゃん、もうやめて……痛い……!』


突如、記憶のノイズが空気を裂く。

 

心ここにあらずといった趣で猛はふと構えを外した。


しばらくの静寂の後、錆びついたホテルの看板「グッド・ヘヴン」を見上げ、ぼそりと口を開いた。


「……カンダタって、知っとるか?」


「は…」


唐突な言葉に竜は窮した。ただ、耳を傾ける。


「地獄に落ちた悪人がな、たった一度だけ、クモを助けたんや。それを見た仏が、一本の糸を垂らしてくれる。それを登って、地獄から抜け出そうとするんや」


猛は空を見つめたまま、言葉を続ける。


「けどな……糸は切れる。下にいる他の亡者を蹴落としたから? ……違う。あれは最初から切れる運命やった。……仏は救う気なんてなかった。俺らは――地獄で生きるしかなかった」


猛の目が、竜に戻る。


「抜け出すには、善行か? それとも信仰か? 笑わせんな。あの施設で救われるんは―― “運と力”を持つもんだけや。善意で差し伸べられる手なんか、一本もなかったやろが」


拳をギリ、と握る。


「お前は、それを忘れかけとる。“仲間”とか、“絆”とか、耳障りええ言葉ばっか使いよって。けどそれは全部、地獄を知らん奴らの“戯言”や。中に残っとる奴は、今も喰い合うとる」


その声には、怒りも、憎しみもなかった。あるのは、諦めにも似た冷笑だけだった。


「俺は……その糸を誰にも譲らんかった。お前にも……。お前も、あの時、俺の足を掴まんかったら――落ちずに済んだかもしれんな」


竜は、小さく首を振った。


「ちゃう。お前は最初から――登ろうとしてなかったんや」


沈黙。空気が止まった。猛は微かに眉を動かす。ほんの一瞬だけ、目が曇った。しかしすぐに、口元に皮肉な笑みが戻る。


夜の静寂が、まるで地獄の底のように張り詰めていた。一瞬の沈黙ののち、猛が地を蹴る。ズ、と空気が揺れる。その動きに、殺気が混ざった。


「恨んどるんやろぉがぁぁ!! 殺す気でこいやぁぁ!」

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