無敵
荒い呼吸だけが夜空に消えていく。その目は、ようやく焦点を取り戻し、自分を見下ろす竜の顔を静かに映した。
「なんで勝ったのに、そんな目ぇしとんじゃ……」
その声は、少し寂しげだった。小野原は血を吐きながら、静かに続けた。
「猛さんもそうや。勝った後も、いつも“そんな目”をする」
浅い呼吸をしながら、竜の顔をまじまじと見る。
「俺らにとっては恩人や。喧嘩しかない俺らに居場所をくれた。……兄貴みたいな存在や」
(兄貴みたいな存在……)
「ふん……ほんまの弟のお前に”負けた”言うたら……あの人、なんて言うやろなぁ」
再び静寂。全てが終わった……かに見えた――その時だった。
パチン。
才が指を鳴らす。闇天狗・才派の兵隊たちが一斉に動き出す。ズラリと京志一家を囲み、完全に包囲する。その真ん中で、才が不快そうに吐き捨てる。
「だらしないのぉ、小野原くん。ほんま、がっかりやわぁ」
その言葉に、小野原の顔が紅潮した。奥歯の軋む音が聞こえる。
「まあええ。そっちの“ガキ”どもは、俺がきっちり仕留めたるさかい」
才が細めた目で、獲物を値踏みするように京志たちを舐めまわした。その視線が、動けない竜や、肩で息をする春也に止まるたび、周囲を囲む兵隊たちの殺気が一段階ずつ跳ね上がっていく。
「……切り抜けるぞ!」
京志が短く、鋭く叫んだ。
「俺の背中だけ見ろ! 遅れんな!」
その声は、絶望の淵にいた仲間たちの鼓膜を叩き起こした。
江藤が這いつくばるようにして竜をおぶる。間柴が、砕けた肋骨を押さえる春也の前に壁となって立ちはだかった。
しかし、闇天狗の包囲網は、獲物の足掻きを嘲笑うように容赦なく収縮していく。
逃げ道はない。
一歩、また一歩。鉄パイプがアスファルトを叩く乾いた音が、死刑宣告のカウントダウンのように響く。
敵の足蹴りが一発、間柴の無防備な背中にめり込んだ。
「ぐあぁっ!!」
衝撃で春也の身体が宙に浮き、二人は縺れ合うように地面へ崩れ落ちた。
「終わりや、ガキども」
才派の男がニチャアと笑い、間柴の頭上へ鉄パイプを振り上げた。
終わりを覚悟したその瞬間――。
肉がひしゃげる重い音と共に、その男の体が、まるで大型トラックに撥ねられたかのような勢いで真横に吹き飛んだ。
誰も反応できない。才さえも、その「異物」の正体に一瞬、思考が止まった。
全員の視線が、一点に吸い寄せられる。
そこには――小野原が立っていた。
顔は判別がつかないほど血に染まり、膝はガクガクと笑っている。それでも彼は、鉄柱のように、京志一家と才の兵隊たちの間に、その巨大な背を割り込ませていた。
春也が、信じられないものを見るように呆然と声を漏らす。
「……お、お前……?」
「チョーパン……入れたっただけや」
そう言って、小野原はゆっくり顔を上げる。
「勘違いすなよ。お前らを助けたんちゃう。あいつの舐め腐ったやり方が気に入らんだけや」
才の表情が、一瞬で歪む。まるで“虫”でも見るかのような冷たい目。
「このボケがぁ、あほんだらぁ! なんしとんねん! 死ねぇ! てめぇは死ねやぁ!!」
才が木刀を引き抜き、小野原に襲いかかる。頭、背中、肩、足――容赦のない連打。
鈍い打撃音と、骨が悲鳴をあげる乾いた音が、交互に夜の闇を叩いた。
血がしぶきとなってアスファルトを濡らす。誰も動けない。間柴も、江藤も、そして春也さえも、その凄絶な「意地」に息を呑んでいた。
それでも、小野原は笑っていた。
折れた歯の間から、血混じりの笑みを零し、吐き捨てるように呟く。
「クソがぁ……いっぺん死んどけ……てめぇみたいな奴はぁよぉ……」
才の顔が、怒りと屈辱で真っ赤に染まる。
「負け犬がうるさいんじゃボケェェェェ!!」
才が渾身の力で、とどめの木刀を振り上げた。
その刹那――。一筋の閃光。
京志の拳が、無防備に晒された才の顔面に深々と突き刺さった。
才の端正な顔がひしゃげる。才の身体は紙屑のように浮き上がり、後方の単車へと激突した。
「お……お前……」
鼻から鮮血を垂らし、信じられないものを見る目で京志を仰ぎ見る才。
その直後だった。
けたたましいサイレンが夜の帳を切り裂き、赤色灯の群れが国道へ雪崩れ込んできた。
一台や二台ではない。十数台のパトカーが、タイヤを悲鳴させながら現場を包囲していく。
「警察やぁ!! ガキどもぉ全員その場に伏せんかぁ!!」
拡声器を通した怒声。現場の空気が爆ぜた。
誰よりも早く、本能的に動いたのは才だった。
「散れ!! お前らぁ!! 全員、散れぇぇぇ!!」
先ほどまでの余裕は微塵もない。才は部下たちを突き飛ばすようにして単車に跨り、歩道の隙間から闇へと消えていく。
傷だらけで倒れている小野原が、最後の力を振り絞って叫ぶ。
「こんどぅ!!! お前らもやぁぁ!」
駆け寄ろうとしていた近藤が、顔を青ざめ足を止める。
「……でも、小野原さんが……」
一瞬、小野原がニヤリと笑った。血の唾を吐き捨て、震える声で言い放つ。
「こんな傷がなんや……ポリさんなんか関係あらへん。こんどぉ、忘れんな? ……俺らぁ無敵の闇天狗特別遊撃隊や」
絞り出すような慟哭を奥歯で噛み殺し、近藤は血に染まった小野原の背中に背を向け、泥を蹴って闇へと走り出した。
闇天狗の兵隊たちが、そして京志一家が、散り散りになって夜の闇へと逃げ込んでいく。
――後に残されたのは、一台の救急車。
26号線沿い、高架下。血の臭いと爆音の余韻だけを残して、祭りは終わった。
搬送される担架の上。
小野原の顔面は蒼白で、意識は深い闇の底にある。呼吸は浅く、胸元が不規則に上下するだけだ。
「意識反応なし! 血圧低下……!」
「酸素投与最大! 急いで搬送を!」
救急隊員の切羽詰まった声が、狭い車内に反響する。
心電図の電子音が、か細く今にも消えそうな「生」の脈動を刻んでいた。
(俺らぁ……無敵の……遊撃隊……よぉ……)
遠ざかるサイレンの音。
国道に捨て置かれた闇天狗の黒旗が、寒々しい夜風に吹かれ、アスファルトの上で独り、激しく揺れていた。




