計略
小野原千里が一人、廃ビルの屋上で紫煙をくゆらせていた。眼下に広がる西成の街は、静かで、どこか物悲しい。鼻の腫れは引ききっておらず、夜風が吹くたびに鈍い痛みが走る。
そこへ――気配もなく、闇から滲み出るように黒い影が現れ、小野原の隣に立った。
「鼻、ようなったみたいやなぁ」
才は自分の鼻頭を、人差し指でトントンと軽く叩いてみせた。
小野原は視線だけで才を射抜いた。その目には警戒と苛立ち、そしてほんのわずかな迷いが見え隠れする。
「お前、何の用や」
「別に。ただな、鼻折れたままやと味せんやろ? 煙草」
小野原は短く舌打ちし、くわえていた煙草を口から外した。まるで、才の言葉そのものが不快であるかのように。そのまま足元へ落とし、靴底でアスファルトに強くねじり込む。
「用件、言えや」
才は屋上のフェンスに背を預け、口角を歪めた。
「簡単な話ですわ。――このままやと、猛はん、“引きずり下ろされる”」
「……は?」
「闇天狗の中でも今、ざわついとる。“京志一家に手ぇ出せへんのは、ビビってるからや”ってな。……“もう猛はんの時代は終わりや”って、囁かれとる」
小野原のこめかみに青筋が浮かぶ。怒りか、焦りか、それとも――どちらでもない感情か。
「黙れや。囁いとんのはおどれらやろが」
「――せやから」
才は小野原の抗議を、冷え切った声で断ち切った。
「わいは、猛はんを担ぎたいおもてんでっせ」
小野原は何も言わずただ、濁った眼光でじっと才の値踏みをしている。
才は言葉を重ねる。見えない間合いを詰めるように、じわりと心に入り込む。
「今、猛はんに必要なんは、“忠実な犬”やない。“証明”や」
千里の肩が揺れた。拳がゆっくりと握りしめられる。彼のプライドの急所を、才は正確に突き刺してくる。
「才ぃ……お前、俺を焚き付けて、京志一家にぶつけるつもりか?」
才は何も言わない。ただ風の中、冷ややかな笑みを浮かべている。その笑みは、憐れみでも優越でもない。“肯定”だ。小野原という男の在り方を、認めたうえで――火をつけようとしている。
「……ふん、ええ度胸しとるやんけ。――ええやろ、のったるわ。俺が潰す。誰にも――猛さんも、闇天狗も……なめさせへん」
その目は、迷いの晴れた“漢の目”だった。才はその表情を見て、ゆっくりと目を細める。 強まる風の中、彼の笑みは、どこか哀しげでもあった。
(ごめんな、千里くん。お前みたいな“真っすぐ”が、一番先に燃え尽きるんや)
だが、その言葉は夜風に消えた。




