現実
一年間の浪人生活。予備校に通う金なんてなかった。朝は新聞配達、昼は地元の図書館。ボロボロの参考書。コピー代も惜しくて、ページをノートに手で写した。手がかじかんでも、書き続けた。
結果、慶應義塾大学に合格。誰もが驚いた。東京での生活は、“夢の入り口”のはずだった。
だが、現実は甘くなかった。家賃四万八千の風呂なしアパート。トイレ共同。風呂は銭湯。
昼は授業、夕方から飲食店。深夜はコンビニ。奨学金だけでは足りず、土日もシフト。目が覚めたら、次のバイトに向かう。そんな毎日。
周囲の学生は違った。サークルで旅行、ゼミ帰りに居酒屋。親の仕送りで、余裕のある暮らし。
「え、三崎、今日もバイト?」
悪気のないその一言が、刺さる。同じ教室にいても、同じ世界を生きていない。誰が悪いわけでもない。でも、はっきりと“階層”があった。東京では、スタートラインすら別だった。
大学二年の春。三崎は港区の高級フレンチでホールスタッフのバイトを始めた。
理由は一つ。顔を売る。コネも金もない俺が這い上がるには、それしかなかった。学費、家賃、生活費。すべて自分でまかなう日々。講義を受け、接客をし、深夜にレポートを書く。寝る時間もろくになかった。でも、チャンスに喰らいつくためなら、痛みは我慢できた。
そんなある夜、“大物”が来店した。福井県選出の国会議員だった。
「この人の目に留まれば 」
そう思って、三崎は全神経を接客に注いだ。しかし、一緒に座っていたのは見覚えのある男だった。
高校時代、推薦を奪っていった、“あいつ”。
今は、その議員の秘書インターンをしていた。親のコネで、当然のように。目が合った。あいつの口元が歪んだ。
「えっ、うそ……三崎? ここでバイトとか、マジ?」
笑い声が、店内に響いた。空気が凍る。議員が笑って言った。
「なんだ、知り合いか」
「まあ、知り合いっていうか……同じ高校です。まあ、ちょっと違うっていうか……」
バイトなんかしてる人間と、同じ枠に入りたくない。そう言いたげだった。まるで「使用人」を紹介してるかのような口ぶりで、あいつは言った。
「先生、グラス空いてたら、こいつに言ってください」
議員はワインを口に含み、軽く頷いた。
「君、立ち振る舞いがいいね」
その言葉に、あいつが続けた。
「こいつ、こういうの向いてるんですよ。高校の時から、黙々と働くのが似合ってたし」
黙々と働くのが似合う。つまり、「使われる側」ってことか。
接待が終わると、議員はあいつの肩を叩いた。
「いい店だったよ」と言って、俺には目もくれなかった。あいつも携帯片手に、軽く手を挙げただけ。
ありがとうも、またなもない。まるで、使い終わった小道具に、もう興味はないという顔。
自分が「使える奴」じゃなく、「使い勝手のいい奴」に見られていた。それが、悔しかった。現実は、静かに、深く、三崎を壊していった。
あいつみたいな人間にはなりたくなかった。上に上がる奴らは、もっと他人を見ていて、リスペクトしている。そう信じたかった。でも、違った。
人間は、他人なんか見ていない。東京という街は、それを静かに教えてくれた。
ーーそして今。
その血塗られた原点と呪いは、一人の少年に色濃く受け継がれている。
グラウンドの歓声を背に、才は誰にも告げず天王寺
学院を出た。
制服のまま電車に乗り、西へ向かう。向かう先は
一一西成。
「俺が証明したる。誰が"本当の父の子"か、な」




