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期待

夜の空気は、肺の奥にまとわりつくほど重かった。ポケットで震える携帯を、才はじっと見つめる。


――出ない、という選択肢は、最初からなかった。通話ボタンを押す。耳に当てた瞬間、低く、圧のこもった声が鼓膜を打った。


「潰れたんやってな、ライゼル」


短い。それだけなのに、苛立ちと失望が皮膚に刺さる。喉が詰まりかけ、何かを言おうとしても言葉にならない。

才の父、南雲一家なぐもいっか若頭・三崎邦親みさき くにちかは構わず言葉を継いだ。


「薬がだぶついとんねん。わかるな?」


「……はい」と返そうとしたが、口の中がカラカラに乾いていた。


「闇天狗の奴ら使って捌かせろ。すぐや」

 

 その言葉が、胸の奥を冷たく締めつける。

 才は震える息を押し殺しながら、かすかに口を開いた。


「……闇天狗は、まだ――」


「あ? 使えんガキ集めとんのか?」


遮るように叩きつけられた声。まるで腐った雑巾でも見るような言い方だった。

一瞬でも、反論しようとしたことが、もう間違いだった。


「才……期待はずれやな」


無機質な電子音が通話の終わりを告げた。


才は携帯を耳に当てたまま動けなかった。

奥歯を噛み締め、こみ上げるものを押し殺す。ポケットの中で、薬が入ったビニール袋がかすかに音を立てる。それは――命より重い責任だった。才はそれを指先でなぞりながら、黙って夜の闇に踏み出した。



西成の夜の路地裏に、鈍い音が続いた。拳が肉を砕き、骨が軋む音。呻き、泣き叫ぶ声。それらすべてを、濡れた夜風が無情にかき消していく。地面に転がるのは、武市海をはじめ、ライゼルトップスの残党たち。才は、その光景を、ニヤニヤしながら見ていた。


「海くん、人のもんは返さなあかんやろ?」


血に濡れた海の頭を、才は靴底でぐりぐりと押し潰すように踏みつけた。声だけは明るい。だが、笑みの奥の目には、苛立ちと子どもが虫を潰すときの無邪気さしかなかった。


「……た、頼む……」

 

海は、もはや自分でも何を言っているのかわからない。嗚咽交じりに、震える指先でポケットをまさぐった。ビニール袋。粉末入りのカプセル。才は、それを奪い取り、透かして見上げる。夜の街灯に、白い粉がぼんやりと光った。才の口元が、にやりと歪む。


「これなあ――大事なもんなんや。わかる?」


海は血まみれの顔を上げ、必死に首を振った。


「切れ目なんや……少しだけでええ、働くから……」

 

泣きながら、這うように縋りつこうとした。その姿はもはや人ではなかった。

才は、笑った。無邪気に、嬉しそうに。


「街でのメンツなくなった不良に何ができんねん」


「俺らなんでも……」


海がいい終わらないうちに才は答えた。


「――ほんで、お前らいつこの街から出ていくんや?」


軽く聞いただけだった。だが、海の目から、魂が抜け落ちた。もう何もかも諦めた顔で、海は這うように逃げ出した。才は、その背中を、無表情で見送った。そこには、怒りも、哀れみも、何一つなかった。才は、空を仰いだ。黒く沈んだ重い夜空。


その闇に引きずられるように、記憶が呼び覚まされる。


あの夜――父・三崎に呼び出された、あの夜を――場末のスナックの裏、埃臭い応接間。色褪せたソファに、三崎が座っていた。才は、その前で、拳を握りしめて立っていた。三崎は、火の消えかけた煙草を灰皿に押し込む。何気ない仕草が、圧倒的だった。


「――西成のガキどもを、まとめろ」


短く、鋭い命令。才は、心の奥底で問いかけた。

南雲一家の名を出せば、街のチンピラも少年たちも、膝をつく。逆らう者など、誰ひとりいない。それをなぜ――わざわざ俺に? 三崎は、才の疑念を見透かしたように続けた。


「お前の器量を、試したいんや」


 静かに、だが確実に刺さる声だった。


「将来、お前は南雲を背負うかもしれん。そのためには、力だけじゃ人はついてこんってことを知っとかんとな」


その言葉に、熱いものが込み上げた。愛人の子。裏切り者の血。忌み子。どこへ行っても、誰の目にも映らない存在だった。(でも――親父は、俺を見てくれた)そう思った。思い込んだ。才の反応を見て三崎は口を開く。


「うちもシャブを扱うで」


才は目を見開いた。南雲一家は、南雲景寿を創設者とし、その伝統を重んじる生粋の博徒系組織。どんな組織に的にかけられようと、どんな荒波に飲まれようとも”独立と薬物厳禁”を守り続けてきた。


「先代が死んで十年。時代も筋も変わる。オヤジのやり方では、南雲の看板は守れんのや」


「……だから、薬もありなんか」


「お前が動くんや。お前の手が汚れたって、ウチの名は汚れへん。……お前が南雲の未来を決めるんや。ありがたい話やろ?」


その瞬間、才はすべてを投げ捨てた。正しさも、善悪も、誇りすらも。


「……はい」


その返事を聞いて三崎はただ、微かに口元を動かした。それが、才には微笑みに見えた――

 

才は、路地裏に視線を戻した。


(俺は――やる)


どれだけ手を汚しても。どれだけ誰かに憎まれても。父に、必要とされるために。才は、ゆっくりと歩き出した。


この街は、俺のものになる。いずれ、すべてを、俺が手に入れる。それだけを信じて。

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