卒業
卒業式前日
教室の隅で、江藤が鏡をのぞき込みながら、ぼそぼそと独り言をつぶやいていた。
「はぁ〜…前歯ないと、やっぱ決まらんわぁ……。卒業式、俺だけ罰ゲームやん……」
その横で春也が笑いながら声をかけた。
「今さら気にすんなや! 江藤の魅力は“前歯以外”に詰まってるやろ!」
江藤は一瞬だけ笑みを浮かべたが、すぐに顔を引き締め、ぽつりと言った。
「春也……俺な、卒業する前に、どうしても言いたいことあんねん」
「藤田先生のことか?」
江藤は、頷いた。
「藤田先生に、ちゃんとお礼言いたい」
藤田先生は、新任教師として西成に配属されて以来、三十年近く西成の学校を転々としてきた。強面で不愛想、口も悪い。その一方で、子どもたちとはとことん真剣に向き合う。
不良たちからは「一度睨まれたら〝地球の裏側まで追いかけてくる男〟」として、めんどくさがられていた
中二の冬。
江藤は、カンパに応じるため、隣町の住宅街で空き巣まがいのことをしていた。
「どの家入る?」
「あそこ、電気消えとるやん!」
――その程度の軽いノリだった。
選んだ一軒に忍び込んだそのとき、室内で微かな物音。玄関の奥から竹刀を持った男が現れた。
「誰やコラァァァァ!!!」
怒声とともに、反射的に振り下ろされた一撃。竹刀が顔面を打つ硬い音が響き、江藤の前歯が一本、宙を舞った。
すぐに玄関灯が点いた。怒りに満ちた男の顔が、一瞬にして固まる。
「……お前かい!!」
翌日、藤田は自ら校長に報告し、「教え子を殴った」として減給処分を受けた。それでも文句ひとつ言わず、すべて自分の責任として背負った。
それ以来、毎朝、江藤には決まってこう声をかけてきた。
「前歯まだか〜?」「アホなことすなよ〜」
ぶっきらぼうだが、優しさを含んだ口調だった。
江藤は照れくさそうに言った。
「あのとき、藤田先生が向き合ってくれたから、俺も、ここまでアホなりにこれたんやと思うねん」
春也は黙ってそれを聞いていた。
数分後、江藤は意を決したように席を立って、教室を飛び出していった。
体育館裏。
物思いにふけりながら空を、藤田がひとり眺めていた。
足音が近づく。
息を切らせて走ってきた江藤が、目の前で止まった。
「先生!」
「なんや……また問題でも起こしたんか」
江藤はスカスカの歯をむき出しにして笑い、そのまま深々と頭を下げた。
「……今まで、ありがとうございました!!」
いつもフザけた調子の江藤が、そのときばかりは真剣だった。藤田はわずかに目を細めて言った。
「アホのくせに、最後だけカッコつけんなや。前歯入れろやみっともない」
そう呟いて、そのまま背を向けた。すれ違いざま、江藤はその目に、確かに涙を見た。
ひとり残された江藤が、頭をポリポリかきながらつぶやく。
「あんたが折ったんやんけ」
そして、少しだけ笑った。
卒業式当日。
江藤は、誰よりも大きな口を開けて壇上へと歩いていった。前歯はスカスカ、それでも堂々と証書を受け取った。
体育館の端。腕を組んだ藤田が、静かにつぶやいた。
「アホが、みっともねぇ」
その声は、誰にも聞こえなかったが、確かに、江藤には届いていた。
壇上から江藤は振り返って言った。、
「見てや、この勇姿!」
ドヤ顔で前歯をさらけ出したその瞬間――
足元が滑り、階段から転げ落ちる。
頭蓋が床を打つ、あまりに痛々しい音が館内に木霊した。
体育館中が静まり返る。ゆっくりと顔をあげた江藤が叫んだ。
「また、前歯一本、イッてもたぁぁぁぁ!!」
体育館に爆笑が巻き起こった。春也が涙を拭きながらつぶやく。
「卒業式で前歯持ってかれるヤツ、世界中探してもおらんやろ……」
壇上の江藤は、更にスカスカになった歯を堂々と見せて、ピースサインで証書を受け取った。
そのとき、客席の片隅で、藤田がまた小さく笑い、ぼそりとつぶやいた。
「アホやけど……これでええ」




