決意
ジムの中に、革が弾ける乾いた破裂音がリズムよく響く。
春也がサンドバッグに拳を叩き込むたび、空気が震えた。
「春也、気合い入ってるな」
トレーナーが声をかけた。春也は振り向かず、拳を止めずに応える。
「来週、中学最後の試合なんでね」
トレーナーは黙って春也の背中を見つめた。
こいつは才能がある。ただのチンピラ上がりじゃない。本物だ。
「なあ、春也」
トレーナーは真剣な声で言った。
「お前ももうすぐ高校生や。ちゃんとボクシングやらんか。真面目にな。お前なら、日本……いや、世界を獲れるかもしれん」
春也の拳が止まった。ジムに静寂が落ちる。
春也はゆっくり振り向き、汗で濡れた前髪をかき上げた。
「……俺はいつだって真剣だよ」
小さな声だった。
「だけどな、俺には他にどうしても捨てられんもんがある」
トレーナーは黙って耳を傾けた。春也は、サンドバッグを見つめたまま続けた。
「俺ら、ガキの頃からずっと笑われとった。馬鹿にされて、殴られて、捨てられて……そんな奴らが、やっと居場所を作ろうとしてるんや。誰にも踏み潰されん、自分らの場所を」
春也の拳が震えていた。
「ボクシングやったら、でかい世界に行けるかもしれん。せやけど――」
春也はトレーナーをまっすぐ見た。
「遠くの世界よりも、俺は目の前の仲間を守りたい。あいつらと一緒に笑える場所を大切にしたいんや。後悔するかもしれん。でも、それが俺の今の気持ちや」
声が震えた。けど、目だけは、誰よりもまっすぐだった。
トレーナーは、何も言えなかった。この少年が、西成という街で生まれ背負っているものを、感じ取ってしまったから。
春也はサンドバッグに向き直った。
叩きつけるような連打音が、春也の激情を代弁していた。
ジムに響く打撃音は、「世界」よりも、「仲間」よりも、自分の生き方を選んだ少年の、不器用で、誇り高い音だった。
拳を叩き切ったあと、春也はサンドバッグに額を押しつけ、静かに息を吐いた。そして、トレーナーの前に立った。
「……今まで、本当にお世話になりました」
深々と、頭を下げた。汗でぐしゃぐしゃになった髪が、ジムの床に垂れるほどに。
トレーナーは、無言で春也を見つめた。その目は、言葉以上に多くの思いを伝えていた。 しばらくの沈黙の後、トレーナーが口を開いた。
「お前、本気でそれでいいんか?」
春也は静かに答えない。
「この先、世界が広がっていくのに、お前のその決断がどんな結果を招くか、わかってるんか?」
春也が黙って頷くと、トレーナーはため息をついた。
「わかるよ。お前の考えも、居場所を大切にする気持ちも。でもな、現実は厳しい」
春也は黙ってトレーナーの言葉を聞いていた。そして、しばらくの沈黙の後、トレーナーが小さく呟いた。
「……お前が後悔しないことを祈っとるよ」
春也は何も言わず、深く一礼して、ジムを出ていった。まるで、何かと別れを告げるように、何かを新しく掴むように。その背中は、ボロボロで、だけど、どこまでも誇り高かった。
ジムに残されたトレーナーは、しばらく何も言わず、春也が置いていったグローブをじっと見つめていた。
「……アホが」
トレーナーは、静かに呟いた。




