火種
間に合わない――誰もがそう思った時、視界の端で二つの影が弾けた。
「京志ぃ!!」
江藤の叫びは、喉を焼き切らんばかりの悲鳴だった。
引き金が絞られるコンマ一秒前、江藤の身体が京志へと突き刺さる。同時に、地を這うような川上の蹴りが、リクの手首を強引に跳ね上げた。
――乾いた金属音だけが、遅れて夜の廃ビルに木霊した。
舞い上がった拳銃は、京志の頭があったはずの空間を虚しく切り裂き、コンクリートの天井を砕いた。
「……っ、ハァッ、ハァ……!」
土煙が舞う中、江藤は京志を地面に押し倒したまま、全身を小刻みに震わせていた。
川上は、逃げようとするリクの手首を、逃がさじと渾身の力で踏み潰している。
「……痛……てぇな……クソ……」
江藤が、掠れた声で呟いた。
京志は、自分に覆いかぶさる江藤の体を、ゆっくりと押し退けた。
その動作には、邪魔なものを排除するような冷たい拒絶だけがあった。
「……京志?」
江藤が戸惑う。だが、京志の視線は江藤を通り越し、うずくまるリク一点に釘付けになっていた。
身体は細かく揺れ、その瞳は、焦点が合わない。
感情が完全に抜け落ちた、深海のような「無」だった。
京志は無言でゆらりとリクへ歩み寄った。
胸ぐらを掴み、無造作に引き起こすと――何のためらいもなく、その顔面へ拳を振り下ろした。
肉が潰れる湿った音が、静まり返ったフロアに響く。
リクの首が不自然な角度で跳ね、泥人形のように崩れ落ちた。
それでも、京志は止まらなかった。
倒れ込んだリクに馬乗りになり、すでに意識のない無防備な顔面へ、拳を叩き込み続ける。
一発、二発、三発。
怒声も、叫びもない。
ただ、事務作業のように、正確に、同じ箇所を、同じリズムで破壊し続ける。
その異常なまでの「静けさ」に、春也でさえ息を呑んだ。
リクの顔が、原型を留めぬほど赤く染まっていく。
「もうええやろ」
背後から、血に濡れた竜の腕が京志の首に回された。
「もうええ言うとるやろ!!」
竜は暴れる京志を、万力のような力で強引に引き剥がした。
「もう終わっとる! 死体殴って楽しいんかボケッ!!」
竜の怒号が鼓膜を打ち、ようやく京志の動きが止まる。
荒い呼吸。拳から滴る、他人の血の感触。
泥と血に汚れたその手は、未だ止まらないほど激しく痙攣していた。
そこへ、江藤が、膝を震わせながらも、京志の前に壁のように立ちふさがった。
その目は、発狂しかけた京志への恐怖ではなく、必死に友を繋ぎ止めようとする「熱」を帯びていた。
「……俺らぁ、別にお前の兵隊やないからな……」
歯の抜けた口から漏れる、震える声。
その間抜けな響きが、張り詰めた殺気をわずかに緩ませる。
京志の目にようやく理性の光が戻った。
竜がため息をつき、江藤と川上の肩を叩いた。
「全部持っていくなや……まあええわ。ほな、行こか。今日はもう……十分やろ」
江藤は、歯の抜けた顔で、二カッと笑った。
その最高に晴れやかな笑顔に、今度こそ、本当に空気が緩む。
「腹減ったわ」
春也が苦笑いしながら、京志を見つめゆっくり歩き出した。
京志は、震えの止まらない拳を強く握りしめ、ポケットに隠した。その手は、かつてないほど重く冷たかった。
その目はじっと無言で、自分を守るために必死になった二人の背中を見つめていた。
その三十分後。 静まり返った廃ビルの一角。意識を失った海とリクの傍らに、音もなく黒い影が歩み寄った。神谷才。
その表情には何の感情も宿っていない。彼は地面に転がった拳銃を拾い上げると、冷ややかに見下ろした。
「お前にはもったいないおもちゃやで」
才は銃をジャケットの内側に隠し、足音を消して闇へと消えていった。
残されたのは、乾いた風と、重く漂う血の匂いだけだった。




