勝利
響の鼻は潰れ、黒い血が床に滴り落ちた。その瞬間、場の空気が異質なものへと変貌する。
響が顔を上げた。瞳の奥には濁った光が揺れ、呼吸は獣のように荒くなっていく。 目は充血し、天を仰いで何事かを口走り始めた。歯は抜け落ちかけ、視点は定まらない。口元からは泡が溢れ、両手は自身の意志とは無関係に震え続けている。
「兄貴、そろそろヤバいって!」
海の制止も届かない。響は天井を凝視し、狂ったように叫んだ。
剥き出しの拳を壁に何度も叩きつける。骨が砕けても止まらない。舌を噛み切りながら、涎混じりに咆哮した。
「もっと寄越せェェ!! もっとぉぉ!!」
響はポケットから取り出したカプセルを、一気に口の中へ流し込んだ。
その様子を、神谷才はモニター越しに遠巻きに眺めていた。
「うっわ~……ええ壊れっぷりやん、響くん。もう“人”ちゃうな。やっぱ南雲の“スピン”はちゃうわ。市販の粉もんとは”質”が違う」
彼は心底愉快そうに、喉を鳴らして笑う。
「快楽と暴力が、神経に絡みつく……まともな神経じゃ、耐えられん代物や」
横に控えていた安藤が、懸念を口にする。
「ぼっちゃん、これ以上は……こいつマジで死にますよ……」
才は煙草を燻らせ、白煙を吐き出した。
「死んだらええやん? 新しい“おもちゃ”に乗り換えるだけや。ブツとカネがあれば、代わりなんて、アホほど湧いてくる……後処理は南雲でよろしく」
その笑顔は、冷徹な悪意に満ちていた。
「グオォォォ……ッ!!」
咆哮と共に、響が床を蹴った。巨体とは思えぬ爆発的な加速。その拳が竜の顔面を捉え、身体を後方へと吹き飛ばした。壁に叩きつけられる衝撃。
「……ッぐ……」
血を吐きながら、竜は膝をつく。意識が遠のきかける中、竜は目の前の怪物を見据えた。
「あの薬……なんや……こいつ……」
響にすでに理性はない。唾液を垂らし、首の骨を不気味に鳴らしながら迫る。
竜は残る力を振り絞り、縦一線に顔面を蹴り上げた。響の巨体が揺らぐが、即座に体勢を立て直す。
「おいおい、ほんま草やな……」
竜の声が響く中、響の拳が重機のように降り注ぐ。だが、竜はその連撃を紙一重でかわし続けた。掠めるだけで肉が削れるような衝撃に耐え、足、拳、肘を駆使して受け流す。
「ハァ……ハァ……ッ」
片目の視界を失い、肋骨も数本は砕けているはずだ。それでも、竜の心は折れなかった。 拳をかわし、すれ違いざまに鳩尾へ鋭い膝を叩き込む。
「寝とけやボケが!!!」
のけぞる響。その隙を逃さず、竜はフラつく足で跳躍し、回し蹴りを放った。踵が響の分厚い顎を捉えるが、それでも巨躯は倒れない。
「……ッく、あァあああああッ!!!!」
血を吐きながら叫んだ響が、醜悪な笑みを浮かべた。
「痛覚バカになっとるやんけお前……もうええ。どっちが先壊れるかや」
「グォオオォッッ!!」
本能だけが突き動かす突進。竜にはもう回避する体力は残っていなかった。
「ッ――!」
竜の右足が、床を力強く踏みしめる。彼は、その拳を真っ向から受け止めた。 腕の骨が悲鳴を上げる。だが、拳は止まった。
「……ははっ」
竜が、血に濡れた口元で笑った。
「力だけやないっちゅうこと、教えたるわ……“お前”に」
脳裏に、間柴の声がフラッシュバックする。
(ええか、竜……お前は昔から一人で背負いすぎんねん……)
その声が、震える膝を叩き上げた。
「……間柴――!」
竜は地を蹴った。響の懐へ、吸い込まれるように飛び込む。
『ええか、竜……お前は昔から一人で背負いすぎんねん。せやけど、今は違うやろ。お前には、仲間が――おるやろ?』
うるさいねん、と竜は笑った。
――腹、胸、顎。魂を込めた三連撃が、吸い込まれるように急所を撃ち抜く。
「うおおおおおおおおおお!!!!」
トドメは、渾身の肘。
脇腹から巻き上げるように打ち上げ――
「間柴ァ!! 見とけボケェェェ!!」
廊下に衝撃音が轟き、ゆっくりと崩れ落ちる響。 ついにその巨体が沈黙した。
竜は肩で息をしながら、ゆっくりと拳を下ろした。
そして、背後に立つ仲間たちを振り返る。
「――お前らちょっとは助けろや……」
竜の声がフロアに響く。
訪れた静寂の中、江藤の足はガクガクと震えていた。
竜を見るその目に宿っていたのは、「怯え」ではなかった。
「バ……バケモンや.............せやけど......」
江藤は目頭を乱象に拭い、震える唇の端を吊り上げた。
「......最高にかっこええやんけ、コラ」
後藤竜――完全勝利。




