保身
バイクの排気音が遠ざかると、ガレージに残されたのは、荒い呼吸音と、床に滴る血の音だけになった。
2年のカクが、目に見えて震えていた。
「……紫の、バンダナ。それ、『ライゼルトップス』のカラーや」
カクの声は湿り気を帯び、ガレージの冷えたコンクリートに吸い込まれていく。彼はその情報の重さに「耐えかねている」ようだった。
「先週、三中の加藤がやられた時もそうやった……。見つかった時、顔面は原型留めんほどグシャグシャで、歯もほとんど折られてて……無理やり口の中に、紫の布を詰め込まれてたらしいっす……」
その場全員の顔から、血の気が引いていく。
「『ライゼル』は、リンチ、タタキ……金になるなら何でもやる。特に……『武市三兄弟』。冗談抜きでイカれてる。警察署を襲撃したって噂、あれ、たぶんマジっすよ……」
「三中がやられて、次は一中……。そんな連中に……狙われてるんや」
誰かが呟いた言葉が、ガレージ全体に伝染していく。
「恐怖」が形となって、少年たちの背中に這い寄る。
カラン、と乾いた音が響いた。
誰かが持っていたレンチが、手から滑り落ちてコンクリートを叩いた音だった。
「……無理や」
絞り出すような声。3年の佐々木だった。彼は青ざめた顔で、足元に落ちたパイプを見つめたまま首を振った。
「そんな奴ら、まともちゃうで……。薬やってラリってる奴らと喧嘩なんか、成立せえへん。殺される……マジで殺されるって」
その言葉が引き金になった。
視線を春也や京志から逸らし、逃げるように出口へと足を向ける。
「悪い。俺、高校の推薦あるし……」
「俺も……母ちゃん泣かせられへんし……」
もっともらしい言い訳。だが、その足取りはパニックに近い。
ガレージを出て行こうとする足音が、ジャリ、ジャリと不快なリズムを刻む。
その時だった。
「――お前ら、外出てどないするつもりなん?」
春也の声は、驚くほど低く、静かだった。
愛車を磨いていたウエスを置き、春也は淡々とした目で、逃げようとする背中を見下ろした。
「当然、もうお前らの顔もバレてるやろな」
ピタリ、と佐々木の足が止まる。
「今までは闇天狗に金払ってたからな……、『京志一家』なんて名乗って西成でイキってもうたんや。顔も、学校も、全部割れとる。ここ一歩外出て、一人で歩いとるとこ武市の弟に見つかったらどうなる思う?」
春也は脅しているわけではない。ただ、「現実」を突きつけているだけだった。
「歯ァ全部抜かれて、薬漬けにされて終わりや。……それとも、今さら金でも持って猛に土下座しにいくか? 『裏切り者』がどんな目に遭わされるか、知らんわけちゃうやろ」
逃げ場はない。
進むも地獄、戻るも地獄。
絶望的な沈黙がガレージを支配する。
「……ほな、どうせぇ言うねん!」
佐々木が泣きそうな声で叫んだ。
「ここに居ても殺される! 外出ても殺される! 詰んどるやんけ!!」
春也はため息をつき、顎でガレージの隅をしゃくった。
「せやから、言うてるやろ。……ここには『化け物』がおるって」
全員の視線が、ガレージの隅へ流れる。
そこには、京志がいた。
仲間の離反にも、迫りくる恐怖にも、一切の興味を示さず、ただ虚空を見つめて座っている。
その姿は、あまりに異質で、あまりに強固だった。
恐怖で強張っていた連中の顔色が、徐々に変化していく。
春也の意図は「だから力を合わせて戦おう」という鼓舞だったかもしれない。
だが――追い詰められた弱者たちの脳裏に浮かんだのは、もっと卑しい計算だった。
江藤が、震える唇を舐め、ちらりと京志を見た。
誰かがボソリと呟いた。
「せや……やばなったら、逃げればええんちゃうか……」
それは決して口にしてはいけない、最低の本音だった。
だが、今の彼らにとって、それは唯一の「生存戦略」だった。
恐怖で逃げ出そうとしていた足が、ゆっくりと戻ってくる。
京志という「壁」の内側に身を隠すために。
春也は、戻ってきた連中の顔に浮かんだ「卑しさ」を見て、一瞬だけ眉をひそめた。
「……お前ら、ほんまにこのままでええんかよ」
春也は吐き捨てるように言い、再びバイクに向き直った。
その背中には、軽蔑と、諦めと、わずかな苦味が滲んでいた。
その言葉は、彼らが一番触れられたくない「惨めさ」の核心を突いていた。
一生、怯えて暮らすのか。
猛に頭を下げ、ライゼルの影に怯え、何者にもなれずに終わるのか。
ガレージの空気が止まった。
誰かの拳が、ギュッと握られる音がした。
京志は、壁にもたれたまま動かない。
自分に向けられる視線が、憧れなのか、「打算」なのか、気づいているのか、いないのか。
ただ、その沈黙だけが、烏合の衆を繋ぎ止める唯一の鎖となっていた。




