孤独
西成の路地裏、シャッターの歪んだ貸ガレージ。「京志一家」などという大層な名前がついたそこの空気は、澱んでいた。
外は初夏の気配を含んだ風が吹いているというのに、ガレージの中だけは、重く、湿った冬のままだ。
「でな、その店のババアが言うねん。『あんた、顔面が凶器やから出禁や』って! 理不尽や思わんか?」
江藤が、身振り手振りで喚き散らす。
パイプ椅子に座った川上が、呆れたように笑った。
「そら言われるわ。お前、前歯スカスカで笑うたら、どう見ても薬やっとる顔やもん」
「やかましいわ! これは名誉の負傷やぞ!」
ドッと乾いた笑いが起きる。
春也も、オイルで汚れたウエスで手を拭きながら、口元を緩めていた。
ここにあるのは、どこにでもある放課後の、他愛のない馬鹿話。今日までの血生臭さを忘れようとするかのように、彼らは必死で「日常」を演じていた。
――不意に、錆びついた金属が悲鳴を上げ、シャッターが乱暴に巻き上がった。
逆光を背負って立っていたのは、後藤竜だった。
包帯の取れた顔には、まだ生々しい傷跡が残っている。彼がダルそうに足を踏み入れた途端、さっきまで弾けていた江藤の笑い声が、小さな引き攣りに変わった。
川上が、無意識にパイプ椅子の脚を掴む。
空気が凍る。いや、腐る。
つい先日まで、この場の全員が、こいつに怯え、こいつに殴られ、こいつを憎んでいた。その記憶は、「一家」という口約束一つで消えるほど軽くはない。
竜は、瞬時に変わった空気の味を敏感に感じ取っていた。
自分が入った瞬間に、笑顔が消える。視線が床に落ちる。
竜は奥歯を噛み締め、こみ上げる惨めさを押し殺すように、わざとらしく舌打ちをして、「辛気臭いツラしやがって」と吐き捨てた。
誰とも目を合わせずに一番奥のソファへと向かう。
沈み込むように乱暴に腰を下ろすと、竜はポケットからショートホープを取り出し、震える指で火をつけた。
紫煙が、気まずい沈黙の壁を作る。
染み付いた「狂犬」の皮は、そう簡単に剥がれてはくれない。
その時、放物線を描いて缶コーヒーが飛んできた。
竜は反射的にそれを受け止める。
投げたのは、間柴だった。
「……微糖や。お前、ブラック飲めんやろ」
間柴は、竜の方を見向きもせずに、自分の整備作業に戻っていた。
言葉少ないそのフォローに、竜の手元がわずかに緩む。
誰も竜を直視できない中、間柴だけが、竜の不器用な「孤独」を理解していた。
竜は、冷たい缶の感触を掌で確かめるように握りしめ、小さく「……おう」とだけ漏らした。
そのやり取りを、ガレージの隅からじっと見つめる視線があった。
春也だ。
春也は、竜と間柴、そして怯える江藤たちを交互に見やり、最後に視線を「ある一点」に固定した。
――加賀谷京志。
会話の輪に入ることもなく、入り口付近のコンクリート床に直に座り込んでいた。
京志は、何もしていない。
携帯をいじるわけでも、誰かと話すわけでもない。ただ、膝を抱え、シャッターの隙間から差し込む西日が、舞い上がる埃を照らす様を、飽きもせずに凝視している。
その瞳は、深海のように暗く、光がない。
江藤たちの馬鹿話にも、竜が入ってきた時の緊張にも、京志は一切の反応を示さなかった。
まるで、この空間に肉体だけ置いて、魂は別の次元を彷徨っているかのような虚無感。
だが、不思議だった。
誰も京志に話しかけない。けれど、全員が京志の存在を肌で感じていた。
竜が暴れ出さないのは、そこに京志がいるからだ。江藤たちが逃げ出さないのも、そこに京志がいるからだ。
(なんなんや、こいつは……)
あの時一瞬だけ見えた、身体に刻まれたどす黒い紫と不気味な黄色が幾層にも重なる「色の地図」、何を考えているのか、何を見ているのか、まったく読めない。ブラックホールのように、周囲の感情をすべて吸い込みながら、本人は何一つ色を持たない。
その「底知れなさ」だけが、このバラバラで歪なガラス細工のようなチームを、奇跡的に繋ぎ止めている。
「……腹減ったな」
不意に、京志が呟いた。
あまりに唐突で、場違いな一言。
全員が、ギョッとして京志を見る。
京志はゆっくりと立ち上がり、埃を払った。その表情には、緊張も緩和もない。ただの「事実」として、そこに立っていた。
京志は誰に挨拶するでもなく、一人でガレージを出て行った。
西日に溶けていくその背中は、誰よりも強いくせに、ひどく頼りなく、そして痛々しいほどに孤独に見えた。
残された連中は、顔を見合わせる。
安堵のような、拍子抜けしたような空気が流れる。
竜だけが、京志の消えた入り口を、嫉妬と憧憬の入り混じった複雑な目つきで睨みつけていた。握りつぶした空き缶が、ミシミシと悲鳴を上げた。
ただ、同じ傷を舐め合うために寄り添った、弱くて脆い野良犬の群れのようだった。




