共生
次の日、校門をくぐった瞬間、後藤竜は自分が終わったことを悟った。
昨日まで自分を避けて割れていた人波が、湿った好奇の目に変わっている。
右目は赤黒く腫れ上がり、視界の半分は粘つく闇に覆われていた。だが、頬を打つ朝風が運んでくる「音」のすべてが、今は刃となって竜の耳を切り裂く。
遠くで響く原付の排気音が、猛の駆るバイクの咆哮に聞こえて心臓が跳ねる。猛にとって、負けた弟は「所有物」としての価値を失ったゴミだ。ゴミがどう処理されるか、竜はその身をもって知りすぎていた。ヘッドホンで耳を塞ぎ、早足で校舎に入った。
教室の引き戸を開けると、不快なほど残酷な静寂が竜を迎えた。
一斉に注がれる視線。そこにあるのは敬意でも恐怖でもない。溜まりに溜まった憤慨。
「負けたんやってな」
誰かが小声で囁いた。その言葉が、竜の心臓を確実に抉った。
竜は自分の席へと歩を進めた。窓際。加賀谷京志との距離、わずか八十センチ。
京志は、教科書に目を落としたまま微動だにしない。周囲の冷笑も、竜のボロボロになった顔面も、最初から存在しないかのように。
「……何見とんねん」
絞り出した声は、自分でも驚くほどひび割れていた。京志は一瞬だけ竜の腫れた右目に視線を留め、それから再び教科書へと目を戻した。
「別に」
その一言で、対話は断絶した。感情などそこにはない。あるのは、ただ同じ檻に入れられた猛獣同士の、危うい不干渉だけだ。
カチッ、カチッ。
後方で橋春也がライターを弄んでいる。彼は竜の机に、一錠の鎮痛剤を無造作に放り投げた。
「竜。その面で兄貴に会うつもりか」
竜の目は床に転がる薬を黙って追う。
「死にたいんなら、止めへんけどな」
春也は笑っていない。その目は、竜の背後にこびりつく「死の気配」を冷徹に値踏みしていた。竜は、握りつぶしそうな勢いで拳を固めたまま、顔を上げられなかった。
間柴健が、地鳴りのような足音を立てて近づいてくる。
「……竜」
低い、重たい声。間柴は竜の肩に、あえて力を込めて手を置いた。それは慰めではなく、この場から引き剥がすための、重たい錨だ。
一階、校舎の裏手。
西成の酸化した油の匂いと、春の湿った風が混じり合う、自動販売機の前。
京志、春也、間柴が並ぶ。
その輪から+メートルほど離れた給水塔の陰に、竜。
顔半分を包帯で覆い、右腕を吊り、その目は、京志の背中を睨みつけていた。殺意ではない。
かといって、親愛でもない。
行き場をなくした野良犬が、餌場を求めて迷い込んだような、惨めな立ち姿だった。
春也が、未開封の微糖コーヒーを無造作に放り投げた。
缶はアスファルトを転がり、竜の足で止まる。
竜は拾わない。蹴り飛ばしもしない。
ただ、そこに転がった「施し」を、睨み続けていた。
「......苦いな」
京志が、自分の分を飲み干して呟く。
その言葉が、コーヒーの味を指しているのか、それともこの街の空気を指しているのか。
+メートル先の竜には、届かなかった。
誰一人として互いの目を見ようとはしない。視線の先にあるのは、フェンスの向こうの、自分たちとは無縁な輝きを放つ「あべのハルカス」だけだ。
竜が感じていたのは、コーヒーの苦味ではなかった。
喉の奥にへばりつく、噛み砕いた鎮痛剤の粉っぽさと、逃れられない猛への恐怖。
仲間ができたわけではない。ただ、猛という絶対的な闇から逃げるための、一時的な「執行猶予」を、四人は分かち合っているだけだ。
間柴がぽつりと京志の足元を見て言った
「こないだの喧嘩で靴汚れたな」
京志は間柴が何を言いたいかは理解したが、あえて反応しなかった。
竜は二人を見た。
「……勝手にせぇ。……どいつもこいつも、気色悪いわ」
竜はそう悪態をつくのが精一杯だった。
コーヒーを飲み干しても、肺の奥にこびりついた猛の影が消えることはなかった。




