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血環 ー大阪・西成、裏社会と少年たちー  作者: 京田 学
第1部 一章 西成第一中学
10/85

警告

一時間目の校舎裏。

春也はベンチに座り、火のついていない煙草を指先で弄んでいた。隣に京志が座っても、視線は地面に落としたままだ。


「商店街でヤクザみたいな奴沈めてたで」


京志の言葉に、春也の手元が止まる。

春也は100円ライターの火を点けようとした。だが、震える親指が滑り、虚しく火花だけが散る。カチッ、カチッ、と乾いた音だけが響き、ガス臭い匂いが辺りに漂った。


「……来たんか、あいつ」


三度目の火花。ようやく点いた小さな炎は、春也の指先の震えに合わせて、頼りなく揺れていた。


「かかわんなよ……あいつも、あいつの兄貴にも」


春也の言葉に、京志は一瞬だけ目を伏せて、でもすぐに顔を上げた。


「来るなら、来たらええ。俺は逃げん」


春也が心なく笑った。


「ほんまおもろいわ、お前」


春也は立ち上がって、京志の肩を軽く叩いた。


「でもな、相手は“ガチ”やで」


そう言って、火のつかない煙草を指先で二つに折り、逃げるように立ち上がった。



昼休み。

静まり返った廊下を、ズルズルと重い靴音が這う。

短ランの襟を立て、ヘッドホンを装着した竜が歩いてくる。


廊下の左右にいた生徒たちは、まるで波が引くように壁際へ飛び退き、床に視線を縫い付けた。

 

一人のヤンキーが、恐怖を誤魔化すように愛想笑いを作り、竜の前に出た。


「お、竜。久しぶりやんけ。どこ行っとっ――」

 

乾いた破砕音が、廊下に響き渡った。

言葉が完結する前に、竜の拳が少年の顔面を「粉砕」した。

 

殴られた少年は、何が起きたか理解する間もなく壁に激突し、崩れ落ちる。竜は相手を見下ろすことすらしない。ヘッドホンの音量は最大。少年の悲鳴も、周囲の息を呑む音も、一切届いていない。


そこに偶然通りかかったのが――京志と春也。


「……竜」


春也が低く呟いた。京志は、前に立つ春也の肩が、ほんのわずかに緊張しているのを感じた。竜は血の臭いの中、廊下で静かに立ちつくしていた。ふと、京志と目が合う。竜の視線は鋭い。


「お前、朝の――」


血のついた拳を、無造作に自分の制服で拭う。

 

「転校生か」

 

竜の視線が、京志の瞳の奥を覗き込む。


「音の邪魔やねん。その目」

 

一歩、竜が踏み出す。

その瞬間、春也が二人の間に割って入った。


「やめとけ、竜。こいつはまだ、この街のルールを知らんだけや」

 

竜は、ゆっくりとヘッドホンを首にずらした。初めて外界の音が彼に届く。


「ルール……? そんなもん、兄貴のところにはなかったで、春也」

 

春也の顔が曇る。竜は春也を、慈しむような、それでいてひどく残酷な笑みで見つめた。


構わず竜の手が京志の胸ぐらを掴み上げた。背中が壁に叩きつけられる。竜の指が、京志の首元に食い込んだ。


「お前の声、まだ聞いてへんぞ」


竜がさらに力を込めた瞬間、ブチッ、と硬い音がした。京志の第1ボタンが弾け飛び、シャツの襟元が大きくはだける。


竜の動きが、止まった。

ヘッドホンから漏れる重低音と、竜の荒い呼吸だけが響く。

竜の目の前にあったのは、京志の肌に刻まれた地図だった。鎖骨から肩口にかけて、どす黒い紫、どろりとした青、不気味な黄色。それらが層を成し、複雑に重なり合っている。


京志は、壁に押しつけられたまま、感情の抜け落ちた瞳で竜を見返した。その瞳は、痛みすら忘れた深海の底のように静かだった。


「離せ」


京志の声は、体温を感じさせないほど冷たかった。


竜の喉が、空の音で鳴った。掴んでいた拳が、力なく解けていく。


春也もまた、はだけたシャツの隙間に一瞬見えた「異形」に、呼吸を忘れていた。


竜は、ヘッドホンを叩くように耳へ押してると、視線を逸らすようにして背を向けた。



「……お前が庇うなら、今日はええわ。でもな」

 

竜は再び京志を見据え、囁くような声を出した。


「次、そんな目ぇしたら――その目、潰してやるからな」

 

竜は再びヘッドホンを耳に当て、喧騒の中へ消えていった。


京志は、自分の心臓の鼓動が、かつてないほど速く、重く、打っているのを感じていた。

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