警告
一時間目の校舎裏。
春也はベンチに座り、火のついていない煙草を指先で弄んでいた。隣に京志が座っても、視線は地面に落としたままだ。
「商店街でヤクザみたいな奴沈めてたで」
京志の言葉に、春也の手元が止まる。
春也は100円ライターの火を点けようとした。だが、震える親指が滑り、虚しく火花だけが散る。カチッ、カチッ、と乾いた音だけが響き、ガス臭い匂いが辺りに漂った。
「……来たんか、あいつ」
三度目の火花。ようやく点いた小さな炎は、春也の指先の震えに合わせて、頼りなく揺れていた。
「かかわんなよ……あいつも、あいつの兄貴にも」
春也の言葉に、京志は一瞬だけ目を伏せて、でもすぐに顔を上げた。
「来るなら、来たらええ。俺は逃げん」
春也が心なく笑った。
「ほんまおもろいわ、お前」
春也は立ち上がって、京志の肩を軽く叩いた。
「でもな、相手は“ガチ”やで」
そう言って、火のつかない煙草を指先で二つに折り、逃げるように立ち上がった。
昼休み。
静まり返った廊下を、ズルズルと重い靴音が這う。
短ランの襟を立て、ヘッドホンを装着した竜が歩いてくる。
廊下の左右にいた生徒たちは、まるで波が引くように壁際へ飛び退き、床に視線を縫い付けた。
一人のヤンキーが、恐怖を誤魔化すように愛想笑いを作り、竜の前に出た。
「お、竜。久しぶりやんけ。どこ行っとっ――」
乾いた破砕音が、廊下に響き渡った。
言葉が完結する前に、竜の拳が少年の顔面を「粉砕」した。
殴られた少年は、何が起きたか理解する間もなく壁に激突し、崩れ落ちる。竜は相手を見下ろすことすらしない。ヘッドホンの音量は最大。少年の悲鳴も、周囲の息を呑む音も、一切届いていない。
そこに偶然通りかかったのが――京志と春也。
「……竜」
春也が低く呟いた。京志は、前に立つ春也の肩が、ほんのわずかに緊張しているのを感じた。竜は血の臭いの中、廊下で静かに立ちつくしていた。ふと、京志と目が合う。竜の視線は鋭い。
「お前、朝の――」
血のついた拳を、無造作に自分の制服で拭う。
「転校生か」
竜の視線が、京志の瞳の奥を覗き込む。
「音の邪魔やねん。その目」
一歩、竜が踏み出す。
その瞬間、春也が二人の間に割って入った。
「やめとけ、竜。こいつはまだ、この街のルールを知らんだけや」
竜は、ゆっくりとヘッドホンを首にずらした。初めて外界の音が彼に届く。
「ルール……? そんなもん、兄貴のところにはなかったで、春也」
春也の顔が曇る。竜は春也を、慈しむような、それでいてひどく残酷な笑みで見つめた。
構わず竜の手が京志の胸ぐらを掴み上げた。背中が壁に叩きつけられる。竜の指が、京志の首元に食い込んだ。
「お前の声、まだ聞いてへんぞ」
竜がさらに力を込めた瞬間、ブチッ、と硬い音がした。京志の第1ボタンが弾け飛び、シャツの襟元が大きくはだける。
竜の動きが、止まった。
ヘッドホンから漏れる重低音と、竜の荒い呼吸だけが響く。
竜の目の前にあったのは、京志の肌に刻まれた地図だった。鎖骨から肩口にかけて、どす黒い紫、どろりとした青、不気味な黄色。それらが層を成し、複雑に重なり合っている。
京志は、壁に押しつけられたまま、感情の抜け落ちた瞳で竜を見返した。その瞳は、痛みすら忘れた深海の底のように静かだった。
「離せ」
京志の声は、体温を感じさせないほど冷たかった。
竜の喉が、空の音で鳴った。掴んでいた拳が、力なく解けていく。
春也もまた、はだけたシャツの隙間に一瞬見えた「異形」に、呼吸を忘れていた。
竜は、ヘッドホンを叩くように耳へ押してると、視線を逸らすようにして背を向けた。
「……お前が庇うなら、今日はええわ。でもな」
竜は再び京志を見据え、囁くような声を出した。
「次、そんな目ぇしたら――その目、潰してやるからな」
竜は再びヘッドホンを耳に当て、喧騒の中へ消えていった。
京志は、自分の心臓の鼓動が、かつてないほど速く、重く、打っているのを感じていた。




