西成
肺の奥にこびりつくのは、安物の線香と、揚げ物油が酸化したような重い匂いだ。
平成二十四年、春。西成の空気は、季節が巡るのを拒んでいた。
錆び付いたトタン屋根が肩を寄せ合い、街灯の下では陽炎でもないのに景色が歪んで見える。
加賀谷京志かがやきょうじは、団地の五階、錆びてざらついた手すりに肘をつき、北の空を見上げていた。
そこには、建設途中のあべのハルカスが、銀色の巨大な墓標のように突っ立っている。
天に向かって無機質に伸びる鉄骨。その頂部で蠢くクレーンは、まるで下界の喧騒を嘲笑うかのように、軽々と春の雲を切り裂いていた。あの最上階の高さからなら、この街に漂う臭いも、呻きも、何一つ届かないのだろう。
手元にある白い箱を、手すりの縁ふちに乗せた。
指先で少し突けば、五階下のコンクリートに叩きつけられ、中身ごと四散する。
箱の中身は、父・慎吾だ。
かつてタイの聖地を沈黙させ、格闘技界の怪物を次々と葬り去った「伝説」。
それが焼かれ、砕かれ、今ではただの乾いたカルシウムの欠片となって、この狭い箱に収まっている。
箱を軽く振る。
カサ、カラ……。
乾いた音がした。
投げ捨てたい衝動が指先を走る。
「西成へ行け。そこで、生きろ」
死の間際、枯れ枝のように細く震える手で、父はそう言った。
京志の腕には、幼い頃から刻まれた無数の打撲痕が消えずに残っている。殴られる痛みの中に、一度も『父』を感じたことがなかった。ただ、父の拳が空気を切り裂く音と、床に滴る自分の血と汗の音だけが、二人の会話だった。
京志は新品の制服に腕を通し、外へ出た。
電柱に貼られた「覚醒剤撲滅」のステッカーは、爪で剥がされた跡が赤茶けている。足元で転がった空き缶が、乾いた音を立てて溝に落ちた。
黒塗りの高級車が、滑るように通り過ぎる。中の顔は一切見えないほどの黒いスモークで覆われた窓。場違いなはずのその車が、不自然なくらい自然に街に溶け込んでいる。スモーク越しの視線が、皮膚の表面をじりじりと焼くような錯覚がした。京志は足を止めず、ただその熱が背後に消えるのを待った。
学校近くのコンビニ前でたむろしていた数人の生徒が、京志に目を向ける。値踏みするような視線。京志は、視線の主たちの靴の汚れだけを見て通り過ぎた。
校門に着く。フェンスは破れ、体育館の壁には“一中参上”とスプレーの跡。誰も消さない。校門脇では、制服姿のままタバコを吸っている生徒たち。近くの教師が、目を逸らして通り過ぎた。
教頭に案内され、職員室を出る。無言のまま、教室へと向かう途中。――廊下の角。急に、視界が暗くなった。――衝撃。
「っ……!」
びくともしない。相手はそのまま、ゆっくり振り返った。――大きい。180は優にある。がっしりした体格。鍛えたのが一目で分かる太い首と肩。――とても中学生には見えなかった。
「悪い……」
静かな声の主は、無造作に下げられた京志の手元に視線を落とした。拳の節にある、分厚く変色した「拳だこ」。それを確認すると、口角がわずかに上がった。
「転校生か。加賀谷、やな」
「……」
「間柴や。ええ拳しとんな。……けど、その足元はな」
間柴の視線が、床に落ちる。
鈍い光を放つ新品のローファー。
この学校の廊下で、それだけが不自然に浮き上がっていた。
「気ぃつけや。この街にはな、『持ってる奴』を死ぬほど嫌う奴がおんねん」
間柴はそう言って、軽く肩を叩いて去っていく。京志はその背中を見つめ掌に食い込んだ四つの三日月が、熱く脈打っているのに気づいた。
教室のドアが目の前に迫る。一つ、深呼吸。
ドアを開ける。ガラガラと古びた引き戸が、いやに大きな音を立てた。
「みなさん、お静かに。お静かにお願いします」
普段なら教師の言うことなど気にしない生徒が、見慣れない眼光の鋭い男をみて、ざわめきを一瞬止めた。
目線が一斉に京志へ向けられる。
担任の男が、湿った雑巾のような声で京志を紹介した。
教室内には、換気扇の回っていない厨房のような、淀んだ熱気が溜まっている。
生徒たちの視線は一様に、京志の首から下――その「浮いた」新品の制服と、不自然に磨かれた靴に向けられていた。
カチ、カチ、と規則的な音がした。
最後列。窓際。
橋春也はし はるやが、使い古された百円ライターの火を、点けては消していた。
その指先は、火を恐れていない。
春也は京志を見ているのではない。京志の背後に立っている、この街には存在しないはずの「平穏」を睨んでいた。
「先生、窓、開けてええ。鼻が曲がりそうやねん」
春也が低く呟くと、教室のざわめきが凍りついた。
彼は立ち上がると、京志の横を通り過ぎ、無造作に窓を全開にした。
入り込んできたのは、春の風ではない。排気ガスと、近隣の加工工場から漂う錆びた鉄の匂いだ。
春也は入り込んできた煤けた風を深く吸い込み、満足げに目を細めた。
そのまま彼は、京志と視線を合わせることなく自分の席へと戻る。
足元には、京志の磨かれたローファー。そのすぐ隣に、橋の底が擦り切れた汚れたスニーカーが、深く、強く、床を踏みしめていた。
京志はただ、窓の外で蠢くクレーンの銀色を、橋の瞳の奥に見出しただけだった。
──────
全20万文字、完結まで脱稿済みです。
前半は王道のテイストですが、第二部10万文字を超えたあたりから本格ノワールへ一変します。
最後まで追っていただける方は、フォロー・★をお願いします。
──────




