嘘の温度
ミナの「お願い」は、たいてい軽い。「今度の土曜、空けて」「これ、どっちが似合う?」――そんな具合だ。けれど、その夜のメッセージだけは、あとあとまで尾を引くことになった。
「あおい、会える? 今すぐじゃなくていい」
返事を保留にしたまま、私はスマホを伏せた。胸の奥に小さな警報みたいなものが鳴る。軽い用事の顔をして、あとから効いてくる種類の頼みだ、と分かったからだ。
カフェの照明の下で、ミナは同じようにスマホを伏せたまま言った。
「ハルがさ、消してたはずのマッチングアプリ入れてた。私の隣で通知が出た」
怒りより先に、恥ずかしさが彼女の声を細くしていた。信じた自分の判断が揺らぐとき、人はまず自分を責める。
ハル――春人はミナの彼氏だ。マッチングアプリで知り合って、付き合い始めてまだ二、三か月。付き合うと決めた日に二人でアプリを消した、と聞いていた。そのアプリを彼がまた入れているのだという。
私は春人に会ったことがない。ミナの話の中の彼は、いつも要領よく、余裕があって、ミナを上手に笑わせる男だった。だから「まあ楽しくやってるんだろうな」くらいに思っていた。
ミナとは大学のサークルで知り合った。親友というほどべったりではない。けれど就活の時期だけは、企業の情報や面接の質問を持ち寄って、互いに助かった。その縁なのか、今もミナからはわりと頻繁にLINEが来る。「何かあったらいつでも言って」と彼女は言うけれど、私が相談することはほとんどない。要領のいい彼女と、利害がぶつからない距離にいるから続いている。たまに、私は彼女の連絡先に“残しておく価値のある人”としてキープされているだけなんじゃないか、と感じることもある。
「私が問い詰めると、絶対しらばっくれる。だから……ちょっとお願いしたい」
「お願い?」
「あおいが囮になって、聞き出してほしいの。これまで、他に会った人がいるのか、どこまでやってたのか」
「……私が、春人さんに?」
「そう。アプリで話しかけるだけでいい。スクショ撮って、私に送って」
「そんな、探偵じゃないんだから」
「お願い。私がやると絶対バレるし、話せない。こんなことあおいにしか頼めない」
私にしか頼めないーー内容が内容なだけにあまり良い気分はしない。まるで、「遊びに行こうよ」の声色で、共犯の踏み絵を踏ませるみたいではないか。
「もちろん、一線を超えちゃ絶対だめよ」
「そんなことするわけない」
「とにかく探りを入れてほしいの」
断る理由はいくつも浮かんだ。危ない、面倒くさい、気持ち悪い。けれど、それらは全部、言葉にする前に溶けた。ミナの目が真剣で、私が「役に立てる」形がそこに用意されていて、そして私は、少しだけ好奇心に負けた。
アプリでやり取りをする。内容をスクショに撮ってミナに渡す。それだけだ。そう思えば、簡単な仕事みたいに思えた。
家に帰って、私は鏡の前で口紅を塗り直した。いつもより半歩だけ赤みを足す。唇の輪郭がはっきりすると、別の人間になれる気がした。
名前は「リナ」。お酒は飲めない。これは事実だ。設定はあまり凝らさない方が嘘が漏れない、と自分に言い聞かせる。
それでも、プロフィールを作る指は震えた。画面の中で笑っている私の写真を、口元だけ切り取って、ぼかす。私の生活から切り離された、もう一人の私が、丸いアイコンの中で呼吸を始める。
春人はすぐに見つかった。短い自己紹介と、無難な趣味。丁寧で、角がない。真面目に見せるほど、嘘の入口がきれいに磨かれている気がする。
私は“いいね”を押した。
たったそれだけで、世界の温度が一度下がった気がした。昼間の私が、どこか遠くに置き去りにされる。
その日のうちに返事が来た。文章は穏やかで、距離の測り方がうまい。アプリに慣れているとしか思えなかった。好意を演じる文を打ちながら、人の気持ちを観察の対象にする冷たさを、自分の中に見つけた。
「会ってみてよ」とミナが言った。
「会うの?」
そんなふうにして会うということは、もうミナの友だちとしてはその人に会えない、ということだ。口に出す前に、喉の奥が乾いた。
「別れたいの?」
「別れる理由がほしいのかも」
「会って、どうすればいいの」
「分からない」
ミナは少し投げやりに見えた。春人とうまくいっていないことだけは明らかだった。
ショッピングモールのフードコートを私は待ち合わせ場所として指定した。夕方のざわめきと、油の匂いと、子どもの泣き声が混ざっていて、ここならいきなり妙なことをされることもないだろう。
初めて会った春人は、疲れた顔で笑った。ミナの話の中ではいつも余裕があった男が、目の下に薄い影を持っていた。
「こういうの、久しぶりで」
彼の声は軽さを装っていた。軽く見せたいときほど、声は重くなる。嘘が上手ではない――というのが率直な感想だった。アプリで会うのが久しぶり、というのは嘘だし、お気楽そうに見えるのも嘘っぽかった。
私はあらかじめ聞きたいことを箇条書きにしてきた。いつから。何人。体の関係。けれど、いざ目の前にすると、どれも刃物みたいに尖って見えて、おじけづいた。
「最近、忙しいんですか」
口から出たのは、自分でも思いがけない言葉だった。
「え?」
「いや、その……ちょっと疲れてる感じがして」
「まいったな。初対面なのに見抜かれちゃってるな」
その浮ついた調子の言葉に、心がざわつく。私はリナの笑顔を貼り付けた。
「期待はずれでしたか、私」
「いや、全然。ちょっとドキドキしてる」
「ホントに?」
「ほんとほんと」
私は自然に微笑んでしまう。何も知らなければ、普通に感じのいい人だと思う。けれど私は、彼に恋人がいる“はずだ”と知っている。そして私は、嘘をついている。
「LINE教えてよ」
彼は当たり前のことのように言った。アプリの中だけで終わらせるはずだったのに、境界線がいきなり手前に引き寄せられる。断る理由を探せず、私はQRコードを出した。
すぐに相互追加になって、画面に自分の表示名が出た。
「あおいちゃんて言うんだね」
血の気が引く。バレたわけじゃない。けれど“生活”に触れられた感じがした。
「アプリは、ちょっと怖いから偽名を使ってて」
言い訳をしながら、私は笑う。
「そっか。じゃあ、これからはLINEでも送るね」
春人はうれしそうに言った。その無邪気さに私は戸惑っていた。
二度目に会うことになったのは、彼が思ったほど悪い人には見えなかったからでもあるし、スパイごっこみたいなスリルが、私の中のどこかを熱くしたからでもある。何よりミナが、会ってほしい、と短く言った。
次に会ったのは、駅前の静かなカフェだった。春人は私の注文したカフェオレを見て、「お酒飲めないって言ってたよね」と覚えていた。そういうところで、人は簡単に気を許すのだろう。
私は質問を投げかけて、彼を観察する。返事の速さ、目線、息の乱れ――その瞬間だけ、胸が少し昂ぶる。正しいことをしている気もするし、間違ったことをしている気もする。
「私のほかにも、会ってる人いる?」
「今はいないよ」
間を置かずに、春人は言った。その嘘がミナを思い浮かべながらの嘘なのか、アプリで会っている別の誰かを思い浮かべながらの嘘なのか、私には分からない。ただ、“今は”という言葉だけが爪みたいに引っかかった。
「キミは?」
「私もいないよ」
嘘の返事をしたわけでもないのに、舌の上にざらつきが残る。彼に好かれるように振る舞っている自分が不本意だった。
家に帰るとすぐ、ミナから電話が来た。
「どうだった?」
息を吸うだけで喉の奥が乾く。
「……会ってる人は、いないって言ってた」
嘘ではない。少なくとも、春人はそう言った。だからその部分だけを、報告書みたいに切り取って渡す。
電話の向こうでミナが小さく息を飲む。「ほんとに?」と念を押す声が、疑いなのか、祈りなのか分からない。
「付き合っている人はいないってこと?」
「いや、アプリで会ってる人はいないって意味だと思うけど」
「そう」
ミナが沈黙する。
「これまでには何人か会ったってことか?」
「いや、それは分からないよ」
「あおいの勘では?」
「いや、ほんとに分からないよ」
ミナが再び沈黙する。
「ねえ、もうやめにしない?」私は言った。
「ダメよ。他の人に会うことになるだけじゃない」
今度は私が押し黙る番だった。やはり会うべきではなかった。私は後悔していた。
通話が終わった瞬間、体から力が抜けた。春人には“リナ”の顔で笑って、ミナには“あおい”の顔で答える。そのどちらも本当の私じゃないのに、どちらにも本当らしく振る舞わなきゃいけない。どちらの味方にもなれないまま、嘘だけが増えていくのがきつかった。
それは、二つの受話器を同時に握らされて、どちらの声にも「分かる」と言えないまま、耳の中でノイズだけが大きくなるみたいだった。
それから、ミナのメッセージは短くなった。
「何か言ってた?」
「今日はとくに」
そう返しながら、私は苛立ちを感じていた。友だちのために始めたはずなのに、友だちの声が命令に聞こえ始める。文字の向こうで、私の迷いはミナに伝わらない。
ある夜、春人がぽつりと送ってきた。
「実は、恋人がいる」
私は半分驚いたふりをし、半分本気で驚いていた。言うとは思っていなかった。
「ごめん」
そのあとに、長い間が空いた。
「別れたいんです。俺、ちゃんとしてって言われると、息ができなくて」
悪意はない。ただ、逃げ道を探す焦りがある。逃げ道を探しているのは私も同じだ――そう思ってしまう自分が、危ない。
私はスマホを握りしめた。彼の“息ができない”は、助けを求める声にも聞こえるし、同情を引くためのカードにも聞こえる。判断のための距離がぐらついた。
「映画を見に行くことになったよ」
それだけを、私はミナにLINEした。別れたいと言っていたとは言えなかった。そういうことは私の知らないところで起きてほしかった。
「そう」
返事は冷たかった。
「いろいろ聞き出してみてね」
映画館の暗がりで、春人の指が私の手の甲に触れた。探るように、確かめるように。私は一度だけ呼吸を止め、ポップコーンのカップを持ち替えるふりで距離を作った。
境界線は、声に出して引くものじゃない。黙って、何度も、細かく引き直すものだ。
映画を見終えて並んで歩きながら、私は境界線の手前で必要なことだけ聞いた。
いつから。何人と会ったか。どこまで。
春人は「何人かと会ったけど、体の関係はない」と言い、そのことで自分がまだ善人でいられると信じているようだった。それが嘘か本当か、私には分からない。
夜、私はミナにLINEした。
「やっぱり何人か会ったことはあるみたい」
LINEを交換したこともこのとき告げた。送信した瞬間から、胃の奥が冷える。
ミナは文字で読んでも分かるほど怒っていた。
「やったってこと?」
「それは分からない」
「あおいの勘ではどう思う?」
「分からないよ」
「会ったことは間違いないのね?」
「そうみたい」
責められているわけじゃないのに、ずっと責められているみたいだった。
「あおい、もっと踏み込めないの?」
踏み込む、という言葉が足首を掴むみたいに重かった。踏み込めば、戻るときに泥が落ちない。
「どういう意味」
「ホテルに誘わせるとか。そういうことを相手から言わせるように仕向けて。言わせたら、その場で私に電話して」
画面の向こうで、ミナはもう決めている。私の返事を待っていない。私はそこでようやく悟った。これは友だちに頼むようなことじゃない。私は“工作員”か何かみたいではないか。
胸のどこかで、何かがぷつんと切れた。
春人からメッセージが来た。
「近々会えない?」
私は短く返した。
「ごめん。私、あなたの逃げ場所にはなれない」
送信してすぐ、LINEをブロックし、連絡先を削除した。消すとき、少し胸が痛かった。リナの輪郭が、思ったより育っていたのだ。
アプリの会話履歴は消さなかった。ミナに何か言われたとき、見せられるように。証拠を残す――その言葉が急に自分のものになっているのが、怖かった。
代わりに通知を切り、もう二度と開かないと決める。連絡を断つ、というのは相手への宣言じゃなくて、自分への命令だ。
ミナのトーク画面を開いて、「もう無理」と打って送った。そして同じように通知を切った。沈黙でしか守れない自分がいる。
二週間後、切った通知の向こう側で、未読が増えていることに気づいた。アプリには春人からの未読メッセージが数件。LINEにはミナからの無数の未読メッセージと、留守電がひとつ。
私は留守電を再生する。
「私ね、ハルと話した。……許したっていうより、許し合うことにした」
ミナの声は、少しだけ落ち着いていた。
「私も嘘ついてたって話した。あおいのことも」
胸が締め付けられる。“あおいのことも”――その言葉の輪郭が、嫌にくっきりしている。私は深く息を吸って、吐いた。
「ごめん。ひどいことお願いして、本当にごめん」
私は再生を止めた。ミナと春人は、お互いの嘘を許容しながら先へ進むらしい。どんな話し合いがなされたのか、私には知る由もない。知りたくもない。
そして、そこまで入り込んだ代償だけが私の手元に残っている。私の名前が、彼らの会話の中に置かれたという事実。匿名のつもりだった“リナ”が、現実の側へ引きずり戻される感覚。
私はミナのLINEをブロックし、連絡先を削除した。電話番号も消した。思えば、それだけの関係だったのだ。
もう報告する相手はいない。そうするしかないことをしたはずなのに、胸の奥が落ち着かなかった。嘘を重ねたまま終わったせいで、“あおい”の言葉はどれも重くて出しづらい。誰かと話して、いまの自分を薄めたかった。誰かのためではなく、自分のために、別の誰かになりたかった。
私はマッチングアプリを開く。リナとして。
ChatGPTに相談しながら作成しました。




