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短編

もがり

作者: 久慈柚奈
掲載日:2025/12/18

 知らないおじさんが、ぼくたち家族と一緒に食卓についている。

 ぼくたちは五人で暮らしている。お父さんとお母さん、おばあちゃん、兄ちゃん、そしてぼく。家に鎮座するダイニングテーブルは六人掛けで、いつも席がひとつ空くはずなのに、ふと朝ごはんから顔を上げると、そこに知らないおじさんが座っていた。おじさんの前にはなんの料理も並んでいない。まるで、ぼく以外は誰もおじさんに気づいていないみたいに。

 おじさんはぼくと目が合ったのに気づくと、穏やかに微笑んだ。

「ぼうず。トシエはそろそろ寿命だぞ」

「えっ」

 まったく無防備なところに放たれた、衝撃的な言葉。

 不意打ち的に驚いた後、言葉の意味が遅れてぼくの全身に染み渡っていく。そんなこと、信じられるはずないでしょ……。

「どうしたの? 光太」

 お母さんの声で飛び上がりそうなほどびっくりしてしまう。ぼくの手からすべり落ちたフォークが、お皿とぶつかって甲高い音を立てた。それで呪縛が解けたみたいに、おじさんから視線を逸らすことができる。

 気づけばみんながぼくを見つめていた。

「急にひとりでびっくりなんかして」

「ええと……」

ちょっと振り返ってみると、さっきの「えっ」は、声に出ていた気がする。みんなぼくのひとりごとをいぶかしんでいるのだった。

 ぼくはおじさんを指さした。

「その人。さっきまでいなかったよね?」

 みんなの視線が、ぼくからおじさんへ向く。おじさんは注目を浴びてもまったく気にする様子もなく、ただにこやかにみんなを見回すばかりだ。

 みんなの不思議そうな顔が再びぼくに戻ってくるまでに、数秒の沈黙が流れた。

「……だれもいないけど」

 兄ちゃんの言葉に、お父さんとお母さんが頷く。おばあちゃんは目玉焼きにしょう油を回しかけながら笑った。

「まだ半分夢の中かい? 昨日は夜更かしでもしたの?」

「違うよ、おばあちゃん……」

 僕の声は弱々しい。あのおじさん、怖いことを言ったんだよ。おばあちゃんが寿命だって……。心の中で言葉が渦を巻くけど、口に出すことも怖くて声にはならない。

「わしの姿はお前にしか見えんよ、ぼうず。わしを怖がるな。悪いモンじゃないんだから」

 おじさんは鷹揚に微笑んだ。


「――ねぇ、おじさん何?」

 ぼくがようやく周りを気にせずおじさんに話しかけることができたのは、「行ってきます」と言って通学路を歩きはじめた時のことだった。

 朝ごはんを食べ終えた後も、おじさんは食卓に座ったまま、慌ただしく朝の支度に走るぼくたちを眺めていた。そうするうちに兄ちゃんが朝練に行き、父さんが仕事に出かけ、ぼくもランドセルを背負って家を出る。

 ぼくが玄関で靴を履いていると、おじさんはおもむろに席を立ってぼくについてきたのだ。

「何、ってなんじゃ? ぼうず。分からんか。わしは誠じゃ。誠おじさんとでも呼んでくれ」

「はあ……?」

 見た目は三十代前半くらいにしか見えないのに、老人みたいな話し方。よく見ると、服装も今らしくなかった。小ぎれいな襟付きシャツに、サスペンダーでスラックスを吊って履いている。ジャケットは着ていないが、葉巻でもくわえれば昭和の映画スターに見えなくもない雰囲気だ。

「……ああ」

 おじさんの足元を見たぼくは、思わず震えたうめき声を発してしまう。うっすら気づいていたことだから、腰だけは抜かさずに済んだけれど。

 おじさんの足、透けていて見えない。もう否定のしようがなかった。

 このおじさん、幽霊だ。

 別の混乱がぼくの頭に追加されてしまった。ぼくは、急に幽霊が見えるようになっちゃったの? どうして? まだ夢でも見ているのかな。

「ぼうず。これは紛れもなく現実じゃ。お前がここに存在するのと同じくらい、わしも確かにここに存在しておる。『わしら』はトシエを迎えに来たんじゃよ」

 誠おじさんと名乗ったこの人が「わしら」と口にした瞬間、ふっと、まるで目に見えないドアから飛び出してきたみたいに、新たに二人の幽霊が姿を現した。

 女の人と男の人だ。二人とも二十代前半くらいに見えて、女の人は大きいくるみボタンのついた丸襟のブラウスとまぶしい赤色のミニスカート、男の人はシンプルなシャツとズボンを身に着けている。シャツをたゆみなくきっちりズボンにたくしこんで着ているのが、なんだか不思議な着こなしに見えた。

「あら! 光太! 初めまして。和子おばさんって呼んでね」

「大きくなったねえ。覚えてないかい? 勝おじいちゃんだよ」

 二人はぼくに気がつくと、まるで小動物をかまうみたいに手をさしのべてくる。ぼくは思わず、防犯ブザーに手をかけながら後ずさった。

「勝……おじいちゃん? 確かにぼくのおじいちゃんは勝って名前だったらしいけど。そんなに若くなかったよ」

 勝おじいちゃんは、トシエおばあちゃんの旦那さんだった人だ。ぼくが小さい頃に亡くなっている。兄ちゃんには一緒に過ごした記憶があるらしいけど、ぼくにとっては写真の中でだけ顔を知る人だった。

 アルバムに収められた写真の中には亡くなる数年前のものもあり、まだ二、三歳だった兄ちゃんを膝に乗せた、しわしわの顔の写真を見たのを覚えている。

 勝おじいちゃんと名乗った人は、言われて初めて気づいたというように自分の体を見下ろした。

「確かにそうだね。僕たちはもう体を手放しているから、自分の好きな時の見た目でいられるんだ。それと今は、トシエさんの記憶に寄せている部分もあるかな。トシエさんがよく思い出す、僕たちの姿」

「その通りじゃ。もしわしらが存命なら、全員とうに七十を超えておる」

 誠おじさんも同意した。ぼくにとっては別のことも気がかりだ。

「それよりも、今朝言ってたこと――おばあちゃんが寿命だって、どういうことなの」

 トシエおばあちゃんは、お父さんのお母さん。今年八十五歳になるけどとっても元気で、ソファに座って詩集を読んだり、外で花の手入れをしたりしている。ぼくが小さい頃から一緒に暮らしているから、しょっちゅうお小遣いをもらえたりするわけじゃないけど、ぼくはおばあちゃんのことが好きだ。

 そんなおばあちゃんを話題にして「寿命」だなんて、縁起でもないし何より失礼だ。

「おばあちゃんは元気だよ。寿命ってつまり……死ぬってことでしょ。とてもじゃないけど考えられないよ」

「いいや、ぼうず。寿命は寿命じゃ」

 誠おじさんはきっぱりと首を振った。

「人は誰でも、いつかは死ぬ。トシエにもその時がきたんじゃよ」

「でも、安心して。あなたたちが考えるより怖いことじゃないから。そのために、わたしたちが来ているのよ」

 女の人が、親しげに誠おじさんの両肩に手を置く。そのまま続けた。

「肉体を抜け出した直後の魂は、不安がることが多いの。だからわたしたちみたいに、先に行った人たちがそばにいて、新しく来た人を迎えるのよ。それから遺される人たちのことも――」

 それ以上、聞いていられなかった。

「もういい! ぼくは信じないぞ。おじさんたちのことも、おばあちゃんが死ぬかもしれないってことも!」

 叫ぶように言って、三人から離れるように学校へ走りだす。女の人がぼくを呼び止めようとした声が聞こえた気がしたけど、背中でランドセルが跳ねる音の隙間をよぎった空耳かもしれない。

 なんて言ったらいいのか分からないけれど……ぼくは、イライラしていた。あの陽気に死を語る三人が憎らしく思えた。

 急にぼくの前に現れて、おばあちゃんが寿命を迎えるとか、そんなおばあちゃんを迎えに来たとか、見た目が若いのにおじいちゃんとか……。もうわけが分からない。

 幻ながら早く消えてほしいし、夢なら早く覚めてほしい。

 おばあちゃんが死んでしまうなんて、あの家からいなくなってしまうなんて、ちょっとも想像したくなかった。


 三人はぼくを追いかけてはこなかった。気を悪くしたのかな、そもそも幽霊に、悪くする「気」なんてあるのか分からないけど……。あるいはおばあちゃんを迎えることを諦めて、そっと消えてしまったのかな。そうだといいな。

 学校に行く間、授業の合間のふとした時に、あの三人のことを思い出しては、ぐるぐると同じことを考えていた。最初は怒りが湧いてきて頭が沸騰しそうだったけれど、午後になる頃にはそれも落ち着いて、だいぶ楽観できるようになっていた。

 そうだ、三人はきっと消えてしまったんだ。もしも幽霊たちの世界があるとしたら、そこに帰ってしまったんだ。おばあちゃんが死んでしまうなんて、きっと何かの間違いなんだ。だって、あんなに元気なんだもの。

「ただいまー」

「おかえりー」

 意気揚々と家に帰ると、いつも通りお母さんがぼくにお帰りを言ってくれる。遅れておばあちゃんの穏やかな「お帰り」の声も聞こえてきた。ほら、やっぱりいつも通りじゃないか。

 そう思ってリビングに入った僕は、そこで固まってしまった。

「あ! 光太が帰ってきたわよ」

「お帰り、光太」

「おお、帰ったか」

 朝の幽霊三人組が、ソファーを占領してくつろいでいる。もちろんぼく以外は誰も、それに気づいていない。

 お母さんはキッチンで夕飯の支度をしているし、おばあちゃんは隣の和室で、ちぎり絵の作品を作っていた。

「どうだ、学校は楽しかったか?」

 誠おじさんが親しげに話しかけてくるけれど、僕はむすっとした顔のまま何も答えない。三人が視界に入らないように、うつむき加減に歩いておばあちゃんの和室に入った。

「お帰り。光太。学校はどうだった?」

「うん。楽しかったよ」

 おばあちゃんは座卓の前に座って、黙々と和紙をちぎっている。座卓の上には色とりどりの和紙が広げられて、柔らかい色の海みたいになっていた。リビングからちょっと入っただけなのに、キッチンで立つ物音が少し和らいで、いつもの世界から少しだけ切り離され、時間の流れもゆっくりになるような感じがする。おばあちゃんが指先で繊細に和紙をちぎる、独特の音が大きく聞こえた。

「そう。よかったねぇ」

 和紙をちぎりつづけるおばあちゃん。それを立ったまま見つめているぼく。きれいに真っ白な髪の後頭部と、和紙を持つしわの寄った柔らかい手。ふっくら着込んだ、少し丸まった背中。このおばあちゃんが、いつも生きて、動いているおばあちゃんが死んでしまったら……一体どんな風になるんだろう。もう動くことがないなんて、想像するのも難しい。

 いやいや、ぼくはなにを考えているんだろう、縁起でもない。想像から目を逸らすようにおばあちゃんに背を向けると、和室の隅にしつらえらえた仏壇コーナーが目に入った。

 どっしりした仏壇は、おじいちゃんが亡くなった時に買ったものだそうだ。凝った装飾の内部は、まるで小さなお寺の中のようで吸い込まれそうになる。おばあちゃんがまめに掃除をしているから埃は見当たらず、供えられたバナナとオレンジの鮮やかさがまぶしかった。

 仏壇近くの長押(なげし)には、額に入った立派な写真がいくつか飾ってある。少し色あせた写真は少しはっきりしない感じで、昔に撮られたものだと察することができた。

 ふと聞いてみたくなった。

「おばあちゃん」

「なんだい?」

「おじいちゃんって、どんな人だったの? それと、誠おじさんって人……知ってる?」

「ずいぶん久しぶりに聞いたね! 懐かしい」

 恐る恐る聞くと、おばあちゃんは目を細めて微笑んだ。心底懐かしそうな、大事な思い出を振り返るような声を出す。

「どこで兄さんのことを知ったんだい? 待ってね、確かアルバムに写真があったはずだから」

「え、兄さん?」

 ぼくの方がびっくりした。思い違いじゃなければ、今ソファーでテレビを観ている誠おじさんは、おばあちゃんのお兄さんということなんだろうか。

「ほら。これがアルバム」

 押入れの中を探っておばあちゃんが取り出したのは、リング綴じのアルバムだった。中の紙は濃く黄ばんでしまっているし、収められている写真は枚数が少なく、白黒だった。立派な大き目の写真紙で、まるで写真屋さんで撮ってもらったようなものが多い。

「今と違って、自分でカメラを持つのは高かったの。だから記念日にみんなで集まって、写真館で撮影してもらっていたんだよ」

 おばあちゃんは優しい手つきで写真を撫でる。ページをめくっていくと、総勢十人くらいが一緒に写ったものが現れた。

「これは家族みんなで撮った写真。誰かの卒業記念だったかしらね。ほら、これがわたしだよ」

 そう言って、小学生くらいの女の子に抱かれた赤ちゃんを指さす。ぼくはまじまじとその赤ちゃんと、女の子を見つめた。なんだか似ているような……。

「この人は?」

「小さいわたしを抱いているのは、和子姉さんだよ。わたしは八人兄弟の末っ子で、和子姉さんがいちばん年の近い兄弟だったの」

 もっと頬がふっくらしているし、写真もぼんやり写っているけれど……それでも分かった。今朝現れた女の人の幽霊と同じ顔だ。つまりあの人は、「和子姉さん」なんだ。

「あら! 懐かしい! まだ取ってあるのね、この写真」

 ふと顔を上げると、あの幽霊三人組も一緒になってアルバムを覗きこんでいた。和子おばさんが指さした写真の中の人を、おばあちゃんも指差して説明してくれる。

「ほら。これが誠兄さんだよ。長男で、わたしより十五も年上なの。すごく面倒見のいい人で、わたしもたくさん遊んでもらった」

 写真の中の誠おじさんは、まだ黒い学生服を着ている。けれどきりりと引き締めた口や目元は、今半透明になって目の前にいる誠おじさんそのままだった。

 さらにページをめくっていくと、白無垢を着た女の人と、きりりとした表情で紋付き袴を着こなした男の人が写った結婚写真が現れる。

 おばあちゃんはいっそう優しい目になった。

「これが、わたしが結婚した時の写真。そして、この人が勝さん。光太のおじいちゃんね」

 今度は似ているところを探すまでもなかった。写真の中の勝おじいちゃんと、幽霊になって今ぼくの目に見えている勝おじいちゃんは、まるきり同じ顔をしている。違うところがあるとすれば、写真は白黒で、幽霊はカラーであることくらいだ。

 おばあちゃんは言う。

「わたしはあのころ、喫茶店で働いていてね。勝さんはお店近くの会社で働くサラリーマンだった。時々、仕事仲間と一緒だったり、ひとりでお店に来たりして。わたしはウェイトレスとして働いていたんだけど、注文を取りに行く時に、少しずつ話すようになって。そのうちにお付き合いが始まったのよ。

あのころはお見合いの方が多かったんだけれどね、わたしと勝さんはお互いを好きになって結婚したの。周りからはずいぶん珍しがられたわ。父さんはわたしのために縁談を整えようとしたんだけれど、誠兄さんと和子姉さんが特に熱心に、わたしと勝さんのことを応援してくれた」

幽霊の勝おじいちゃんが照れたように頭を掻いた。

またページをめくる。おばあちゃんと勝おじいちゃんの他に、小さい男の子のいる写真が目立つようになってくる。

「これが光よ。あなたのお父さんね」

ふっくらした顔立ちの男の子は、言われてみれば目元や唇の感じでお父さんだと分かるけど、写真が白黒なのも相まって知らない人のようにも見えた。お父さんにも、こんなに小さい時があったんだ……。よく考えてみれば当たり前のことだけれど、こうして証拠とも言うべきものを見せられると、もっと強い実感みたいなものが湧いてくる。おばあちゃんが生まれて、長い時間をかけて大人になって、お父さんを産んで、そのお父さんも長い時間をかけて大人になって、次にはぼくが……とても考えが追いつかないほどの期間に思いを馳せてしまって、ぼくは壮大な、不思議な気持ちにとらわれる。

 アルバムの中では何気ない日常をとらえた写真が目立つようになっていた。おばあちゃんとお父さんが旅先で撮った記念写真。裏山を登っていく、小学生くらいのお父さん。勝おじいちゃんはいつもカメラマン役を買って出ていたのか、写真に登場する機会が減っている。さらには少しずつカラーの写真が増えはじめ、アルバムの後半から最後にかけては全部がカラー写真に、そして画質も上がっておばあちゃんとお父さんの顔がはっきり見えるようになった。

 おばあちゃんは音が立たないようにそっとアルバムを閉じる。

「勝さんは、光太が小さい時に逝ってしまったけれど……。お仏壇の掃除をして、静かに手を合わせているとね、すぐ隣に勝さんが座っているような感じがする時があるのよ。不思議な話よね。目には見えないけれど、わたしはそう思うとほっとするのよ」

 おばあちゃんがにっこり笑う。今しもその左肩には、幽霊になった勝おじいちゃんの手が優しく置かれていた。

 キッチンからお母さんの声がする。

「光太! もうすぐごはんできるから、お箸を並べてくれない?」

「わかった!」

 ぼくはキッチンの方に返事をして、おばあちゃんに向きなおる。

「おばあちゃん。大事な写真を見せてくれてありがとう」

 そうして賑やかなキッチンへ――「現在」の時間の中へ戻っていった。


 おばあちゃんが写真を見せてくれたことで、ぼくの前に現れた三人の幽霊がおばちゃんの家族で、ぼくの親戚でもあることを受け容れないわけにはいかなくなった。

 それに関連するかどうかは分からないけれど、あの幽霊たちはぼくのいるところについてきて、なんとなく視界の端にいるようになった。

 ぼくたちが夕飯を食べている時は、空いているソファを占拠してテレビを観たり、ぼくが宿題を始めるとのぞきに来て、今の小学生はずいぶん難しいことをやるんだなあと感心したり。さすがにお風呂の時はついてこないようお願いしたけれど、それ以外はほとんどずっと近くをうろうろしていた。

 ぼくが家族に「おやすみ」を言って自分の部屋に上がる時も、もちろん三人はついてきた。部屋に入ってドアを閉めてしまえば、もう誰の目も気にしなくて良い。ぼくたちは生きている人同士がするように、声を出して話し合えるようになった。

「どうだ、光太。わしらのことを信じる気にはなったか?」

「うん。みんながぼくの親戚だってことは分かったよ。でも、まだおばあちゃんが死ぬかもってことは、信じてない」

「無理もないわ。光太にとっては初めて向き合う機会なんだもの」

 和子おばさんが眉尻を下げる。

「でもね、信じるか信じないかの問題じゃないの。寿命は寿命。トシエはもうすぐ肉体を離れるのよ。生きている人たちは死を悲しみがちだけど、本当はそこまで嘆くものでもなかったりして。だって、見て!」

 空中で一回転し、部屋の中を身軽に飛び回る。

「わたしたちは今でもこんなに元気で個性的。昔わずらってた病気は体に置いてきてしまったし、子どもの頃でも年取った時でも、好きな見た目でいられるの。違いは触る体があるかないかくらいのものよ。もちろん、生きている家族と顔を合わせづらくなるのは寂しいけど、わたしたちはいつでも、あなたたちを見守っているのよ」

 勝おじいちゃんも頷いた。

「ほとんどの人は、僕たちがいることに気づかないけれどね。僕たちは確かにいるんだよ。誠さんと和子さんは、光太が生まれた時病院で一緒に喜んでいたというし、僕だって、光太が運動会で一位を取ったことも、夏休みの宿題で答えを写したことも見ているよ」

 そう言っていたずらっぽく笑う。宿題のことを言われてどきりとしたけれど、勝おじいちゃんはぼくを叱るつもりなんてこれっぽっちもなかった。むしろ今まで誰にもばれなかったことが話題に上ったことで、本当に一緒に宿題に取り組んだような、去年の夏休みのある時間を完璧に共有したような、奇妙な連帯さえ起きてくる。

「……でも、どうしておじさんたちの姿が見えるのはぼくだけなの? おばあちゃんが寿命だっていうことを知らせたいなら、兄ちゃんでも、お父さんやお母さんでもよかったんじゃない?」

「『もがり』じゃよ、ぼうず」

 誠おじさんがいかめしい顔で腕組みをした。

「人は時折、急に襲いかかってくる大きすぎる衝撃によって心に傷を負ってしまうことがある。原因となる出来事は人の数だけ存在するが……。身近な人の死も、その原因になりうるんじゃ。

 死は多くの者にとって、突然で衝撃的な出来事だ。一瞬のうちにすべてが変わってしまう――周囲の者にとっても、渦中にいる当人にとっても。関わる者全員が深く傷ついてしまう可能性がある。

 その衝撃を和らげるためにわしらがおる。わしらは普段以上にお前たちのそばにいて、一連の流れを支えるんじゃ。体から出たばかりの魂を落ち着かせ、これからどうすれば良いのか教え導き、遺された者たちの動揺が少しでも早く、軽く収まるよう、精神的な面で援助の念を送る。時にはそうやって活動するわしらに気づく、感覚の鋭い家族もいる――今のお前のようにな」

「じゃあおじさんたちのことが見えるのは、今だけ霊感が強くなっているからってこと?」

「そう理解してもらっても構わんよ。

 繊細で鋭い感覚を持つ者は、衝撃的な出来事によってひときわ深く傷つくことがある。だからその傷が浅いものになるよう、近くで支え、人生に降りかかる衝撃を受け容れられるように促すんじゃ。必ずしもすぐにそれが叶うとは限らず、長い時間がかかる場合もあるがな。どれほど長くかかろうとも、わしらは変わらず支えていくのみじゃ」

「ふうん……」

 分かったような、分からないような。ぼくはしばらく黙って考えた後、おじさんたちは心の準備を手伝おうとしているのかな、と理解することにした。

「おやすみ」と呟いて部屋の電気を消す。布団に入ると、おじさんたちも寝入るかのように姿が見えなくなった。なんだか一緒に眠りにつくみたいで、おもしろい。

 少しずつ暗闇に目が慣れて、時間が経つほど天井が暗がりの中ではっきり見えるようになっていく。

ぼくは考えた。おばあちゃんが死んでしまうかもしれないこと、誠おじさんが話してくれた、心の準備のこと。おじさんは「心の傷を和らげるため」と言っていたけれど、今のところ逆効果だ。

 だってぼくは、今こんなに寂しい。おばあちゃんがいなくなってしまうかもしれない――今あんなに元気なのに。なぜ? いつ? どうして? 悲しい事故や病気の可能性を考えると、心がぎゅっと押しつぶされる。

「ねえ、誠おじさん。どうしておばあちゃんは寿命なの? いつその時がきてしまうの?」

 暗闇に向かって問いかけてみる。ぼくの声は部屋に吸い込まれて、どこからも答えは返ってこなかった。

 部屋の中には三人の気配があるのに、ぼくの声は聞こえていたはずなのに、誰も教えてくれない。これは答えられないことなのかな。

 どうしておばあちゃんは寿命になってしまうんだろう。そんなのはおじさんたちの勘違いで、本当には何も起こらなければいいのに。


 次の日。ぼくが目を開けると、天井を背景に幽霊三人組が視界に入りこんだ。

「おお! 光太が起きたぞ!」

「おはよう! 光太!」

 まるで目を覚ましたのがものすごくめでたいことであるかのように、猛烈な勢いで褒めちぎられる。とっさにぼくは反応に困って、布団に入ったまま固まってしまった。

 階段を上がってくるお母さんの足音。

「光太、朝よ。起きてきなさい」

 部屋の前で足音が止まる。いつもと変わらない言葉。ぼくはその「いつも」にしがみつくようにして、なんとか返事のために声を出すことができた。

「うん。今起きるよ」

 声を出したことで、体も普段の感覚を思い出したみたいだ。張りつめた表面から無駄な力が抜けていき、体を起こすことに成功する。危ない、親戚たちのせいで金縛りに遭うところだった。


 今日も三人は、学校へ向かうぼくについてくる。歩きはじめてすぐ、誠おじさんがぼくのランドセルを見つめていることに気づいた。

「おじさん、どうしたの?」

「昨日は気づかなかったが……ずいぶんと豪華なランドセルだな」

 言われてちらと自分の背中を振り返った。

 ぼくのは黒いランドセルで、ステッチに使われている赤い糸や脇の赤いテープがアクセントになっている。どちらかというとシンプルな方だと思っていたんだけど。

「わしらの頃は、男は黒、女は赤だけじゃった。それにみんな兄妹が多かったから、おさがりのくたびれたランドセルの方が多かったもんじゃ。わしは長男だが、親戚から譲ってもらったお古のランドセルで通ったものじゃよ……それなのに、見ろ。数年使った後とは思えんくらい綺麗じゃないか」

「あら、見て! かわいい!」

 和子おばさんが歓声を上げる。指さした先には、道路を挟んだ向こう側の歩道を行く女の子たちが歩いていた。ピンク、水色、ラベンダー。その背中には、花やティアラの刺繍が施されたカラフルなランドセルがある。

 誠おじさんが目を剥いた。

「な……! なんじゃ、あれは」

「すごい! 今はいろんな色が選べるのね。わたしなら紫がいいかなあ」

「信じられん……時代は進み過ぎておる」

 ショックを受ける誠おじさんと、はしゃぐ和子おばさんの対比がおもしろい。

 ふと気になった。

「ねえ。昨日、おじさんたちはいつもぼくたちを見守ってるって言わなかった?」

「ああ、言ったとも」

「それなのに、現代のことをあまり知らないんだね。なんだか矛盾している気がするんだけど」

「なるほど。それには理由があってだな」

 学者みたいに、指を一本立てて教えてくれる。

「わしらは、いつもお前たちを見守っておる。それは本当のことじゃ。ただわしらは、お前たちとはこの世界の見え方が違うんじゃよ。今は、特に光太と一緒にいようと思っているから、光太に意識を合わせて、光太が見ているのと同じ世界を見ておる。普段は、もっと目に見えない部分――気持ちや心の動きが見える方に意識を向けているんじゃよ。テレビやラジオのチャンネルを合わせるのと一緒じゃ」

 そう言って、何かのつまみを回すジェスチャーをする。勝おじいちゃんがそっと横から口を挟んだ。

「誠さん。今のテレビやラジオはボタンですよ」

「しまった!」

 誠おじさんは目を覆った。


 ぼくと一緒に学校へ行くことは、三人にとって驚きの連続だったように見える。

 誠おじさんは英語の授業の一部始終に息を呑み、コンピューター室に並ぶパソコンを見渡して目を見張った。和子おばさんは女の子たちが持つカラフルなペンケースや香り付きの文房具にひとつひとつ「かわいい!」を連発し、勝おじいちゃんは給食の献立がずいぶん豪華になったと言って、ぼくをうらやんだ。

「すごいな。牛乳が紙パックに入っているなんて! もう重い瓶を運ばなくて良いんだ」

 学校ではほとんどずっと他の誰かが近くにいるから、三人と声を出して話をするのはためらわれた。それでも三人の驚き方が面白くて、何度も笑いだしそうになってしまう。ぼくは笑いをこらえるのが下手で、隣の席の子に「どうしたの?」と聞かれてしまった。「なんでもないと」とごまかしたつもりだけど、きっと怪しまれているだろう。

 なんとか今日の授業が終わって、校門を出る。だいぶ日が長くなってきて、外はまだまだ明るい。今からまた新しい一日が始まるような、暗くなるまでになんでもできてしまえそうなわくわくが心の中で跳ねている。

 ランドセルのポケットに入れた小銭入れを探った。お母さんから「おやつ代」としてもらったお小遣いはまだ残っている。お母さんはまだパートの時間だから、おやつを買ってから帰ろう。

 コンビニに向かおうとして、家に繋がる角を通り過ぎる。和子おばさんが首をかしげた。

「光太? 家に帰るなら今の角を曲がった方が」

「コンビニに行くんだよ」

 ひさしぶりにちゃんと声を出して返事すると、ちゃんと交流できている感じがしてうれしかった。


 コンビニはどの季節の、何曜日に行ってもにぎやかでちょっと楽しい。ぼくはコンビニの品ぞろえに圧倒されている誠おじさんをそっと一人にして、いつものお菓子売り場に向かった。このコンビニはおやつが充実していて、いつもどれを買おうか迷ってしまう。ぼくのすぐ後ろをついてくる勝おじいちゃんは穏やかに店内を見回して「よく分からない機械が増えて……。コンビニも便利になったものだね」としみじみしていた。

「わあ! 光太。これはなに?」

 お菓子売り場の前に立った時、横から和子おばさんの手が伸びてくる。チョコ菓子の箱を掴もうとして、幽霊だから掴めない。ぼくは代わりに手に取って、和子おばさんにもよく見えるようにした。

「これは『ラッコのワルツ』だよ。中にチョコが入ってて、外側のビスケットにはいろんなラッコの絵が描いてあるんだ」

「へえ。かわいいわね」

 次々に「これは?」「あれは?」とぼくを質問攻めにする。店内にBGMがかかっているとはいえ、そろそろ独り言を店員さんに見とがめられそうだ。

 誠おじさんは、どうやら一人で店内を見て回ってきたらしい。深く感じ入ったようなため息とともにお菓子売り場に現れた。

「素晴らしい……時代の変化にはまったく圧倒されるわい。豪華な食事がもう出来上がって、容器に詰められ売られているとはな……。お、これはなんじゃ」

 吊り下げて並ぶお菓子に手を伸ばす。誠おじさんも掴めこそしなかったけど、手に触れた商品が微かに揺れる。代わりに取って、見せてあげた。

「これはグミだよ。ぶどう味」

「グミ……? 菓子なのか」

「うん。固いゼリーを噛むみたいな……ぷにぷにしてる、って言うのかな」

「一度食べてみたいものじゃ」

 そう言って、グミの袋とぼくを控え目に見比べる。

「ええと……食べれるの?」

「物がまとっている『気』に触れることで、食べることに似た経験ができる」

「……それなら、今ここで袋を透かして『食べて』みたら」

「商品の品質を落とすことに加担するのは申し訳なくてな。霊的に敏い者には、風味が薄まったように感じられるじゃろうから」

 そこまで言われると、ついおじさんへの親切心が湧いて、じゃあ今日のおやつはグミということにして、これを買おうと思い立つ。

「あっ! わたし、これね」

 レジへ向かいかけた時、和子おばさんもちゃっかりラッコをねだった。


 会計を済ませてコンビニを出る。手提げ袋からお菓子を取り出して、駐車場のすみっこで分け合った。

「うむ……。うまい!」

 駐車場に、ぼく以外には聞こえない誠おじさんの声が響く。

 おじさんたちがお菓子を「食べる」ところは不思議だった。ぼくが袋を開けて持っていると、おじさんが右手を袋の中へ入れる。掴みだされるのはグミの実物ではなくて、半分透き通った、グミの幽霊みたいなものだ。おじさんがそれを口に放りこむと、どうやらちゃんと味がするらしい。

「ゼリーではないが、完全な固形でもない……。今までに食べたどんなぶどうよりもぶどうの風味がするぞ! なんという不思議な食べ物じゃ」

 和子おばさんも同じようにラッコの幽霊を口に入れる。「ん!」口元をほころばせた。

「美味しい! 手軽にこんなに美味しいものが食べられるなんて、光太がうらやましいわ」

「そんなに気に入ったなら、たまにプレゼントしてあげたいよ」

「そいつは嬉しい申し出じゃ。仏壇に供えてくれ」

 誠おじさんが頷いた時だった。

 背中でランドセルが振動する。着信だ。ぼくの通う小学校では、防犯のために学校に携帯を持っていくことが許されている。いつもランドセルに入れて、学校にいるあいだは触らないのがルールだ。

 取り出して画面を見ると、発信者の名前はお母さんになっている。

 まだパートの時間のはずなのに。おかしいな。

 何か、あったのかな。

 慌てて通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。

「もしもし?」

「あっ。光太。おばあちゃんが」

「え?」

 頭が真っ白になる。空は曇りはじめていた。


「おばあちゃん、和室とリビングの境でちょっとの段差につまづいて転んだらしいの。偶然、近くに電話が置いてあるでしょう。それで、自分で一一九番して救急車を呼んだらしいわ」

 病院に向かう車の中。忙しいワイパーにつられてまばたきを繰り返しながら、お母さんはハンドルを握っている。

 お母さんは後部座席のぼくに向けて話すのに、目線を合わせることができなくてよそよそしい感じがした。

 いや、お母さんだけじゃない。周りの世界全部が、ぼくから離れてしまったみたいに感じられる。

 車体を叩く雨の音。街並みは灰色に煙っている。お母さんの踏むアクセルに合わせて車が揺れる。

 車の中には、ぼくとお母さんの二人だけ。雨に冷やされた空気が心にまで浸みてくる。

同時に、車の中は息が詰まりそうなほど満員だった。幽霊の三人もついてきているからだ。

 三人とも押し黙って、ぼくと一緒に病院へ向かっている。三人が声を出したとしてもぼくにしか聞こえないのに、どうしてお喋りさえもしないんだろう。三人も深刻にならなければいけないほど、おばあちゃんの状態は悪いんだろうか。

「お母さん」

「なに?」

「おばあちゃん、そんなに悪いの? ……死んじゃうの?」

「わたしにも分からないの。詳しいことは」

 お母さんの表情は見えない。声と一緒に、気持ちも抑えようとしているように聞こえた。

「それとも、病院の人は電話で簡単に説明してくれたのに、わたしが聞き漏らしてしまっただけかもしれない。あまり暗い想像はしないで、まずは病院に行って、先生から話を聞こう。明るく振る舞うのは難しいけれど」

「……そうだね」

 お母さんの言う通りだ。暗い方に考えないなんて、難しい。でもそう思っているのはぼくだけじゃないと思うと、少し心強い気がした。

 ぼくの隣に陣取っていた誠おじさんが、励ますようにぼくの右肩を軽く叩く。微かに、微かに、肩に手が触れる感触が分かった。

 車は降りしきる雨を縫って、なんとか病院の駐車場にたどり着く。受付で事情を話すと、すぐにスタッフらしい人が来て案内してくれた。その後の話は主にお母さんに向けられていて、ぼくには難しい言葉もたくさん出てきたけれど、要点をまとめるとこうだった。

 まず、おばあちゃんは意識はあるし、転んだせいで命が危ないわけではない。今は必要な処置を終えて、病室で休んでいるという。

 ただし、これから先はもう立ち上がれない可能性が高いと言われてしまった。

 打ち所が悪かったのと、もともと年齢のせいで骨がもろくなっていた、と先生は説明した。これからは寝たきりの状態になって、介護も必要になるだろうという。

「そんな……! お義母さんが」

 お母さんの悲痛な呟きがぼくの耳に残って、同調する。そんな。あの元気なおばあちゃんが、もうベッドから立ち上がれないなんて。そんな。あのおばあちゃんに、介護が必要になるなんて。あまりに突然すぎて、本当に本当のことなのか、ことあるごとに確認したくなってしまう。

 何かの間違いじゃないんですか。

 間違いなんかじゃない。先生の説明を聞き終わって病室に案内されると、そこには病院のベッドで、見慣れない布団をかけられて横たわるおばあちゃんがいた。

「あら。恵子さん。光太。来てくれたのね」

「お義母さん……。どうですか、痛みますか」

 お母さんがベッドの横に椅子を並べてくれ、ぼくたちはそこに座る。おばあちゃんは体を起こすこともできず、けれど元気な口調で話している。

 和子おばさんがふわりと空中を飛んで、おばあちゃんのベッドを挟んで向こう側にまわった。

「ああ、トシエ。痛いでしょう。かわいそうにね」

 布団の上から、腰と背骨に相当する部分をそっとさすっている。昨日は「死んでも大して変わらない」みたいなことを言っていたのに、今はおばあちゃんのことをいたわっている。また矛盾していないだろうか。

 ぼくの懸念が顔に出ていたのかもしれない。和子おばさんはふと顔をあげ、「それとこれとは少し違うのよ、光太」と言った。

「死そのものは、生きている人たちが恐れるほど怖いものじゃない。天国も地獄もないし、審判を受けるわけでも、ただ消えてしまうわけでもないから。でも体が弱った時に感じる痛みや苦しみは、理屈抜きで辛いものでしょう。トシエが寿命を迎えるにしても、できるだけ痛みを感じないでいてほしいの。苦しまなきゃいけない決まりなんてないんだもの」

 和子おばさんはおばあちゃんをさすり続けていた。


 おばあちゃん自身の強い希望で、入院生活は短い期間で切り上げ、家に帰ってくることになった。

「ただいま」の言葉もそこそこに和室のベッドに運ばれると、そこがおばあちゃんの定位置になってしまった。

 おばあちゃんは、一日中横になっている。たまに体を起こそうと頑張ってみる日もあったけど、上手くいく時と、「やっぱり痛い」と言ってやめる時とがあった。上手くいく時もそのまま起き上がっていられるのはごく短いあいだで、それも日に日に短くなっていく。

 もう花の手入れも、ちぎり絵の作品作りもできない。おばあちゃんは曇った顔をしていることが多くなり、そんなおばあちゃんを見ているのは辛かった。

 いつも誰かがおばあちゃんのそばにいた。お母さんは勉強しながらおばあちゃんの介護をしていたし、お父さんは仕事からできるだけ早く帰ってきて、少しでもおばあちゃんと一緒の時間を作ろうとした。兄ちゃんは急にいろんなことが変わってしまったものだから、めっきり口数が減って、ゆっくりこの状況に慣れようとしているように見えた。幽霊たちもかわるがわるおばあちゃんのそばにいたから、おばあちゃんがひとりぼっちになることはほとんどなかった。

 ぼくはおばあちゃんがやっていたことを引き継ごうとした。毎朝、仏壇の埃取りをして、お線香をあげる。庭の植木に水をやる。そしてたまに、仏壇にお菓子を供える。ちゃんと封を切っておくのを忘れない。誠おじさんたちが食べ終わった頃を見計らって下げ、自分のおやつ代わりに食べようとすると、確かに、少し風味が足りない感じがした。

 家の雰囲気はすっかり変わってしまった。いつも塞ぎこんでいるわけではないけれど、かといって楽しいわけでもない。そして一番ぼくたちを動揺させるのは、一度変わってしまったこの空気は、もう二度と、完璧に昔に戻ることはないという事実だった。おばあちゃんの体が受けたダメージは、その前に巻き戻って健康を取り戻すことはできない。時々どうしたらいいか分からなくなるけれど、ぼくたちは少しずつでも、新しい家族の様子に慣れなければならなかった。

 でも、どうしてだろう。ぼくはふとした時に、それほど動揺していない自分に気づくことがあった。おばあちゃんが動きづらくなって、塞ぎこんでいるのを見るのは辛いし悲しい。同時に、こういう決していいとは言えない方向への変化が起きるかもしれないことを、ぼくは心のどこかで受け入れていた気がする。

 これはもしかして、誠おじいちゃんたちが話してくれたことのおかげなのかな。

 ぼくは心のどこかで、おばあちゃんが近いうちに死んでしまう時を認めているのかな。

 なんてひどい奴なんだ。

 いや、違う。

 大事な誰かが死んでしまうのは悲しい。でも誰かがこの世を去る時に、混乱して、泣き叫んで、「行かないで」と嘆くことだけが「正しい」悲しみ方なのかな。

 悲しいけど前に進むという選択。これまでの感謝と、「大好きだよ」と伝えること。

 落ち着いてそれができることもまた、悲しんでいることの表明にはならないのかな。


 布団に入る。意識が揺らいで起き上がるみたいな、心地いいまどろみがやってくる。

 自分の部屋でベッドに横たわっている体を知りながら、同時にぼくは夢を見ていた。

 遠くに引っ張られていく。見上げると、広がる無数の「過去」の情景。無限に続く記憶の海。

 ぼくの過去じゃない。もっと、ずっと昔のことだ。

 侍みたいな恰好をした男の人。自分の子どもと楽しそうに話している。ああ、笑って細めた目が誠おじさんと同じだ。

 着物を着た女の人が、お姉さんの華やかな結婚に憧れている。

 すりきれそうな服を着た男の人が、古めかしい農具で畑を耕している。

 女の人が必死に弟や妹を守りながら、降り注ぐ炎の中を逃げていく。

 喫茶店で楽しそうに話すサラリーマンとウェイトレス。

 他にも名前も知らない、数えきれないほどたくさんの先祖たち。

 彼らが生まれて、歩いて、話して、走って、出会って、別れて、結婚する。

 そして、死ぬ。

 死は終わりじゃなかった。和子おばさんが伝えようとした言葉の意味を、ぼくは今悟ろうと

していた。

 合戦の真ん中で、家族に囲まれた部屋で、病院のベッドで、肉体の命が尽きた人たちは、するりと体を抜け出す。するとそこには先祖の何人か、あるいは大勢が待っていて、これまでよく頑張ってきたと、新しい魂をねぎらうのだ。

 新しい魂は先祖たちに連れられて、なんの心配をすることもなく魂たちの世界へ戻る。そしてそこから、生きつづける子孫たちを見守るのだ。

 生きているだけで偉い、と誰かが言った。

 なにか偉大なことを――それも、家名や先祖のために――成し遂げなくてもいい。ただ子孫たちが生きているだけで先祖たちは喜んで、明日も明後日もぼくたちを見守り続けている。

 中には子孫に期待をかける人もいるけれど、その期待だって、そもそも子孫たちが生きていかないと成り立たない。

 生きているだけで偉い。お前のことが誇りだよ。とみんなが言った。

 放たれた言葉は心を温かく包んで、ぼくに悟らせてくれる。今までずっと見守られていたこと。みんながぼくを大事に思ってくれていること。それが嘘偽りのない気持ちであること。

 そして新しい魂を迎える時、先祖たちは「生き抜いて素晴らしい」と声をかける。


「生き抜いて素晴らしい」

 誠おじさんの声が聞こえた気がして、目が覚めた。

 体を起こす。部屋はまだ暗かった。机の上の時計は午前零時をさしている。

 静かだと思った。空気が虚しくて、冷え切っている感じがする。

「誠おじさん? 和子おばさん? 勝おじいちゃん?」

 呼んでも、誰も現れない。気配もない。こんなことは初めてだ。

 気がついた時には布団を出て、導かれるように階段を下りていた。これから何かが起きようとしていることは分かっているのに、不思議と恐怖も不安も感じない。夜の空気の中に夢の香りが残っている。

 リビングのドアを開ける。和室の方からぼんやりと薄青い光が漏れていた。幽霊の体が暗闇で光る時の色だ。

 三人は果たしてそこにいた。

 寝ているおばあちゃんを取り囲むようにして立っている。気づけばぼくもその輪に加わっていた。

 見下ろしたおばあちゃんの顔は、このちょっとの期間のうちにますます生気を失ってしぼんでしまったように見える。まるでまったく知らない人のように見える瞬間さえあった。

 今のおばあちゃんは、静かに眠っている。誠おじさんがもう一度言った。

「生き抜いて素晴らしい、トシエ。

 わしはお前の兄として一生を過ごせたことを誇らしく思っておる。そしてあの頃と変わらずに、お前を愛している。ここにいる全員が同じ思いじゃ。これは未知の体験に見えるじゃろうが、不安がることはない。わしらがついておる、安心しなさい」

「トシエ」

「トシエさん」

 和子おばさんと勝おじいちゃんも名前を呼ぶ。勝おじいちゃんがおばあちゃんの手にそっと触れた。

 青い光が部屋を満たした。

 まばたきをするよりも短い一瞬のあいだに、それは終わっていた。ぼくたちは、ベッドの上に浮かぶおばあちゃんを見上げる。ベッドには変わらずおばあちゃんの体が横たわっていたけれど、そちらはもう動かず、静かで、夜に紛れて消えてしまいそうに見えた。

 おばあちゃんは自分を取り巻く顔ぶれを見回す。

「兄さん、姉さん。それに、勝さん!」

「トシエさん」

 勝おじいちゃんが両手を広げる。おばあちゃんがその胸に飛びこむと、おばあちゃんの姿が一気に若々しいものに変わった。アルバムに収められていた、結婚写真を撮った頃の姿に。

 ぼくは抱き合う二人を見ているのが嬉しかった。おばあちゃんがまた元気になった。おばあちゃんは自由だ。また元気に話して、笑って、動き回ることができる。和子おばさんと一緒に部屋を飛び回ることだって。

 自然と顔がほころんでいた。おばあちゃんはぼくに目を留めた。

「あら、光太。あなたにはわたしが見えるのね?」

「うん。ずっとみんなのことが見えてたんだ」

「その通り」

 誠おじさんも頷く。

「光太のおかげで、現代をつぶさに観察するという面白い体験をさせてもらった」

「あのね、おばあちゃん」

 ぼくは身を乗り出す。

「三人がいろいろ教えてくれたから、ぼく、今気がついてここにいられるんだ。おばあちゃん。たくさん話してくれてありがとう。小さい頃、一緒に遊んでくれてありがとう。他にも、ひとつひとつお礼を言いたいことがいっぱい、それこそ数えきれないくらいあるんだ。でもとにかく、ぼくが絶対おばあちゃんに知っておいてほしいのはね、ぼくはおばあちゃんのことも、勝おじいちゃんや、誠おじさんや和子おばさんより上の先祖の人たちのことも、みんなみんな大好きだってことだよ」

「嬉しいことを言ってくれるのね」

 おばあちゃんは今までで一番明るい顔で笑う。ぼくはその安心しきった顔を見て分かった。おばあちゃんも今、さっきぼくが感じたことを――たくさんの先祖にずっと見守られていた事実と愛情を――感じ続けているんじゃないかな。

「光太。ありがとう。わたしもあなたのことが大好きよ」

 おばあちゃんがぼくを抱きしめてくれる。ぼくもおばあちゃんの背中に手を回した。透き通った体に触れることはできないけれど、言葉では足りない気持ちがどうにかして伝わりきってくれるといいな、と思いながら。

 誠おじさんが儀式ばったせき払いをした。

「さて、トシエ。そろそろ行こう。会わせたい家族がまだ数えきれないほどいるんじゃ」

 和子おばさんがぼくに手を振る。

「またね! 光太」

 勝おじいちゃんがぼくの頭に手を置く。

「光太。ありがとう。生前できなかったぶんにはとても足りないと思うけれど、君と話せて幸せだったよ」

「光太。元気でね」

 勝おじいちゃんがおばあちゃんの手を取って導き、四人の幽霊はベッドの上で輪になって立つ。

 帰ってしまう。目に見えない世界に。

 抑えられないほど強い寂しさが湧き上がってきて、ぼくは追いすがるようにベッドのふちに手をかけていた。

「ねえ。次に会えるのは、また何十年も先なのかな。ぼくが、死んでしまう時」

 正直、自分がいつか死ぬなんて思いもよらなかった。そもそも、何年か後には中学生になる

ことも、そのあと社会人になることも、もしかしたら、いつか誰かと結婚するかもしれないことも――まるで実感が湧かない。

 人は年をとる。人はいつか死ぬ。事実としては理解しているつもりなのに、なぜか自分の身に引きつけて考えようとすると上手くいかない。

 誠おじさんは豪快な笑い声を立てた。

「このような形で会うことになるのは、ともすると光太の言う通り先のことかもしれん。だが、もっと大事なことを忘れるな」

 分かるじゃろう? とばかりに目配せをする。考えるまでもなく、ああ、分かった。ぼくは笑みを浮かべていた。

「みんな、いつもぼくたちを見守ってくれている」

「その通りじゃ」

 満足そうなうなずきが返ってくる。

「大切なのは、目に見える形でそばにいるかどうかではない。わしらがお前を愛し、見守っているという、動かざる真実じゃ。感覚を研ぎ澄まし、わしらの存在を毎日の中に見つけだせ。誰かの手が肩に置かれる感覚に、ふと香る香水の匂いに、木の葉のささやきの中に――わしらはどこにでもいる。お前の周りにあるあらゆるものを使って、お前を愛していることを伝えるじゃろう」

「うん」

「それでは、また会おう」

 四人は互いの手を握る。四人の体を浮かび上がらせていた光がやがて一本の太い柱になり、天上に向かって飛んでいく。青白い光がなくなって、部屋は少し暗くなった。

 和室にあるのは、仏壇に灯ったかすかな明かりだけだ。少し佇んで待っていると、目が慣れて普通に動き回れるようになる。

 おばあちゃんは行ってしまった。もう体を持った形では戻ってこないけれど、二度と会えないわけでもない。

 そう思うと、心が安らいだ。

 お母さんに知らせてこよう。家族はきっと悲しむだろう。みんなが悲しみに浸るなら、ぼくがみんなを慰めよう。受け入れられるまで支えよう。

 先祖たちが、ぼくらにしてくれているように。

 ぼくはリビングを出て、お父さんとお母さんの寝室へ向けて階段を上がっていく。おばあちゃんのことを考えると、肩に触れる手の気配がした。





終わり

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